ぎりぎり

「晩飯なに」

 ミーティングの帰り道、駐車場からマンションの部屋まで歩いていて、エレベーターのボタンを押しながら流鬼が訊ねてきた。声は落ち着いていて、階数表示を見上げている横顔は穏やかだ。機嫌が良いわけじゃないが悪くもない、喜怒哀楽でいうところの、楽。かな? 俺の目にはそう見えるけれど、本心はどうだろう。なんであれ、二人で居るとよく見るその表情が俺は好きだと思う。

 逆に何がいい? そう問いかけると「逆に、って」と小さく笑って、唇がふわっと弧を描き目元が少し柔らかくなる。好きだなあ、俺はじっと流鬼の横顔を見ている、にやついた顔で。鏡で見たわけじゃないが、流鬼が横に居るとそれだけで頬が緩くなる自分を知っているから、わざわざ確認しなくてもそうだろう。

「えー……分かんない」

 分かんないのかよ、そんなやり取りをしながら、開いたドアから出てきた宅配便の人を躱してエレベーターに乗った。俺がボタンを押す前に、流鬼はさっさと階数ボタンを押してしまう。当然のように。何度も来ているから当然なんだけど。そんなことでまたふわふわ、足元から嬉しい気持ちが湧き上がってくる。他にはほら、エレベーターが到着するとまるで自分の家のようにすたすた迷いなく歩いていく後ろ姿だとか。最近よく履いているスニーカー、手に提げたコンビニの袋、ポケットに入っている財布、肩にかかっているトートバッグ、半袖シャツから伸びる日焼けのない腕、少し伸びた襟足、たまに覗く揺れるピアス、自分でデザインした黒のキャップ。恐らく遠くから見てもすぐ流鬼だと分かる。数歩後ろから眺めるその姿が、もう何度もここで目にしたたくさんの記憶と重なる。ごくごく薄い一枚の絵が幾重にもなることで立体感を持つように、上書きを繰り返し折り重なったことで細部まで再現された精巧で肉感すらあるリアルな映像が俺の中に出来上がる。

「夏なのに鍋、とかな」

 ずっと晩飯について一人で喋っている流鬼の口から笑い交じりにそんな言葉が零れている。その背に、夏だからこそ鍋、と返すと、「夏といえば、鍋」と言葉遊びを楽しみながら、俺の部屋の手前で立ち止まる。俺は楽しそうな流鬼を追い越して部屋の鍵を開けた。当たり前に行われる、もう何度も繰り返してきた一連の流れ。

 中に入るとすぐ荷物を置いて洗面所、暫くして出てくると冷蔵庫とソファーのあるリビングを行ったり来たりして忙しなく、そのうち静かになったと思ったらソファーに座ってスマートフォンを弄っている。俺は晩飯について考えながら、そんなふうにばたばたしている流鬼の様子に若干気を取られつつ手洗いを済ませ、取り敢えずキッチンで米を研ぎ始める。

「あ、そうだ忘れてたわ」

 放っておいても一人で喋っているが、突然思い出したように無言になる。大体、俺が全く聞いていないことに気づいた時か、仕事をしている時。キッチンから目だけリビングに向けると、トートバッグからノートパソコンを取り出してどうやらやり残した仕事を始めたらしい。ソファーの上で膝にノートパソコンを乗せ、スマートフォンを耳に当てて通話をしながらの確認作業。電話を切ったかと思ったら目は画面に釘付けになって、考え込んだり何かしきりに弄ったり。指先がキーボードの上を滑る、真剣な瞳に液晶の光が映り込む、脚が痺れてくると体勢を変え、たまに画面から目を離して思考する。

 やり始めると声をかけても止まらないから、晩飯の用意が済んで、食べようと言っても唸りながら先に食べといてと言われて、まぁいつものことだ。やっと作業から離れた流鬼が食べ終わるまで晩酌しながら付き合って、テレビを見て笑って、くだらない話で大爆笑したりして。笑った時に見える綺麗な歯が、口角の上がり方が、細められた目が、何度も見たくてくだらないことを言う。外から内へ入り、仕事から離れ、時が過ぎるごとに全身が無防備になっていくのが分かる。目で追うのが大変なくらい。それはそれは鮮明な、触れたくなるほどリアルな映像。

 なんだろうな。知り合って今まで長い時を一緒に過ごしてきて、よく知っている面もあれば、まだまだ知らない面も勿論ある。時が経つにつれて変化した部分、変わらない部分、新しく増えていくもの、どんどん減っていくもの。特に、疑問を感じることが減ってきたかも知れない。俺の中に流鬼はきっとこうだという固定概念がそれなりに出来上がってしまっていて、良くも悪くもそれが作用するんだと思うんだ。ほんのたまに生じる疑問が、目から入ってきて脳に染み渡ると途端に胸が詰まって息苦しくて、喉から何かどす黒いものが出そうになる。別に誰が悪いというわけではない。流鬼を責めることでもない。ただ、知らない、と口にするたび、視神経がちぎれそうなぐらいの奇妙な不快感で目を固く閉じたくなるし、どうして、なんで、と思うたび身体の内部が重たくなっていく。何度も言うが、別に誰が悪いというわけでもないんだ。それがまたいけない。逃げ場のない密閉された体内で膨れ上がる靄はどれだけ息を吐いても出てゆかず、息を吸うごとに体積を増し、そのうち喉からするする滑り出ていって取り返しのつかないことを口に出しそうになる。何度も何度も唾を飲み下して封じ込めに徹するけれど、息苦しさに喉は開こうとするしせり上がってくる衝動はやり過ごせない。そのうち咥内はからからに渇いて、そうなってしまうともう、首を絞めるしかない。自分で自分の首を絞め、息を止める。それでぎりぎり、保とうとする。眩暈のなかで自問を繰り返す。両脚は地についているか? 心臓は動いているか? まだ、人の形を保てているか。

 不思議とそんな時のほうが流鬼の話を聞いている。映像はノイズだらけで拉げているけれど音声だけが嫌に鮮明だ。





「あの店また行きたいんだよなぁ」

「なに?」

「あれ、お前と行ったんじゃなかった? ほら、中目の、すっげえ美味い肉の」

「中目黒なんか流鬼と行った覚えないけど」

「お前じゃないっけ……まあいいや、兎に角めっちゃ美味かったんだよ」

「へえ」

「今度行こうぜ」

「うん」





 あー、吐きそうだ。



(2020.08.25//きもちわるい)