猫の夢

「犬か猫かっていったら、断然、犬派だしな。前も言ったっけ? え、知ってるって? あ、そう。動物ってだけでまあ、かわいいけどさ、猫って犬みたいに健気さとか無いのに可愛がられてんの、なんか狡いなあとか思うし。かわいいよ? かわいいけど、犬のほうが可愛くない? 主人への忠実さとか。やっぱこう必死に構って構って! って尻尾振って愛情表現してくるほうが可愛いじゃん。だからとかそんなんじゃないけど、まあ俺は犬派」



猫の夢



 昨日の夜からずっと仕事してたんだよな。そうそう、ほかに誰もいない自宅でさ。それで、あんまり没頭していたらいつもの通りカーテンの向こうが明るくなってきて、もうそんな時間かって休憩がてら仕事部屋を出てキッチンで珈琲を淹れることにした。ちょうど起きてきたコロンに朝ご飯をあげて、ニュースでも見ようかな、なんてテレビをつけてソファに腰かけ暫く天気予報とか今日の占いを見ていたんだけど、気づいたら目を閉じてたらしい。やばいな、寝落ちそう、なんていう間もなくストンと眠りに落ちた。よっぽど脳が疲れていたらしい。そして転寝に興じているうちに、世の中はちょっと角度を変えてしまったみたい。そんなことある? あっちゃった。ああ、よく分からないな、まだ夢なのかもしれない。いや、きっと夢なんだろう。俺は俺の自宅にいたはずなのに、目を覚ましたら公園のベンチにいたんだ。そんなことある? あっちゃったから、驚くのも通り越して納得した。それか夢遊病かな? 仕事のしすぎって良くないね、気を付けたい、来世では。

(夢でしかないのは、まあそうだとして)

 公園のベンチで横になっていた身体を起こしてみて更に俺は確信する。実際、起こしてみたんだけど、起きてない。えっと、なんて言えばいいのかな。目線がさ、起きなくて。低いままなんだ。びっくりして自分の身体を見てみたら、手も足も小さくて、身体に近くて、自分の尻の辺りから長めの尻尾が生えているのが見えた。しましま模様? 真っ白とか真っ黒とか茶色とかいう、一色って感じではないな、なんかそうだな、あんまりきれいではない色だ。

(……野良猫生活三年やってます、みたいな)

 猫なんてあんまりまじまじと間近で見たこと無かったけど、その姿が、自分がいま猫になっているのだということはじゅうぶん分かった。なんせ、無性に爪が研ぎたいし。

 我慢できなくて木のベンチの背もたれにばりばり爪を立ててから俺はベンチを後にした。どうせ夢だと思っているから案外落ち着いているし、違和感なく身体も動かせる。人間の身体とは関節も指の数も何もかも違うのにまるで生まれてから今までそうだったみたいに馴染んでいるし、爪研ぎもDNAが知っているみたいに沁みついた動きで自然とできた。

 前足から降り立った地面は砂利が痛いかと思ったけれど案外そうでもない。肉球のクッションは人間が思うよりとてもいい仕事をしているらしい。けれど歩き出そうとしたところで、自由に動かせるようになった耳に喧しく響く風に煽られ、俺はベンチの下に潜って身体を縮めた。風の音もうるさいけれど、何よりもまず寒い。寒すぎる。毛皮を着ていたって二月の風は猫の身体を芯まで冷やすらしい。ていうか、ベンチで寝てた時点でさ、スタートから極寒じゃないですか。俺べつに寒がりとかじゃないんだけどな、なんかめっちゃ寒いわ。これはもう一歩も動けませんわ。ジ・エンドですわ。

 せっかく人間じゃないものになったんだから、もっと違う生き物としての生を楽しんでみたかったなあ。ぎゅうと目を瞑ってそんなふうに、もう早く目覚めないかな寒いし、とか思っていたら、突然身体が宙に浮いた。驚いて目を開けて、すぐになんだお前かという気持ちでため息が出そうになる。

「ちっちゃ」

 素っ頓狂な声で俺を抱き上げた麗は「つめた! 震えてるし……ってか、きたな! 野良かあ、えっ耳のとこ千切れ……てか目つき悪いな……」言いたいこと言いまくった。なので全身全霊、憎しみを込めてフーってやつと、シャーってやつをやった。うまいことできた。なんせこの夢の中で俺、野良猫生活三年目だしな。振り回した爪で麗の手を引っ掻いた。

「おまえ病気なるよ」

 多分、夢だから何があっても驚くことはないと思ってたけど、この時ばかりはビックリした。麗の後ろから俺が現れたから。この俺は今の俺ではない俺で、人間の俺で、でも俺はいま猫になっているわけで目の前の俺は正確には俺ではない俺なわけででも人間の俺と猫の俺とどっちがより俺なのかって言ったらもちろん人間の俺なわけなんだけど、つまりはややこしくて難しいわけよ。

「えっ猫って病気持ってるの?」

「知らんけど野良とかは無暗に触っちゃダメって……うーわ引っ掻かれてんじゃん、お前それもうダメだ、そこから腐り落ちるやつだわ」

「腐り落ちるの、困るなあ」

「困るだけなんかい」

 そんな会話もそこそこに、こんな寒い外に居たら凍え死ぬかも、なんて心配した麗にそのままその辺の動物病院に連れていかれた。麗と俺(人間のほうな)は散歩の最中だったらしい。動物病院は営業時間外だったのか閉まっていたけど、俺があんまりぶるぶる震えていて見かねた麗がシャッターをガンガン叩いたら完全に寝起きのメガネをかけた細身のおっさんが出てきた。おっさんは特に嫌な顔するでもなく、大変だね、小さいね、取り敢えず診ようね、なんて言って俺の身体を隅々までいじくった。凄絶な体験過ぎてシャーとかフーとかもできずにひたすら拒絶で硬直しているうちに、特に異常なしと診断され首のところに変な液体をかけられ診察は無事に終わった。夢でも二度と体験したくない。

 そのあと麗のマンションに無理やり拉致され、風呂に入れられた。人間のシャンプーは猫の鼻には匂いが強烈すぎて倒れるかと思ったが、シャワーは温かくて結構気持ちが良かった。始終あははと暢気に笑って洗われる俺を見ている人間の俺、興味があるみたいに見てはいるけど麗に「抱っこする?」って差し出されても「いや、いい!」って即断って絶対に猫の俺に触ろうとしないし手伝うつもりも一切なくて(あ、これ間違いなく俺だなあ)とか妙に納得した。

「猫ってこんなんだっけな」

「なんか妙にちっちゃいよね」

 風呂の後は水と一緒に動物病院で買ったらしいシーチキンみたいなものを小皿で差し出され、その匂いを嗅いで腹が減ってることに気づいた。なんの抵抗もなく食べちゃう今の俺、猫してんなって思う。そしてめちゃくちゃ美味かった。思わずもっとくれ、と喚いたら喉からすっごい拉げた声が出た。

「いや声、きたな!」

「ぎゃおっていった、ぎゃおって!」

 それを聞いた二人が揃って笑った。麗の指が伸びてきて、頭、喉、顔まわり、背中を優しく柔らかく撫でられた。失礼なことを言われているが、撫でられるのが気持ちよくて、自然と喉の奥のほうからぐるぐる低い音が出た。

「これ喜んでると出る音じゃないっけ」

「なに、こいつ喜んでんの? わかりづれえ」

 夢だから人間の言葉が分かるんだろうけど、なかなか失礼なやつらだな。いや片方俺だけど。麗は部屋の奥から一抱えほどの空のクリアケースを持ってくるとそこにクッションやバスタオルを敷き詰め、俺をその中に入れた。ふわふわしていて温かくて、感触を確かめるように前足で何度も踏んだ。

「ちょっと大人しくしててなぁ」

 そんなことを言って、麗と人間の俺は奥の部屋に消えていった。現実と麗の家の間取りが同じなら、あそこは仕事部屋だ。なに、そこは現実と一緒なのかな、時系列っていうか時間軸っていうか。制作作業中なのか。暫くして部屋から色んな声や音が微かに聞こえてきて、麗の作業部屋は防音の筈なのに、猫の聴力ってすごいなあと感心する。いや、この夢がマジなのかどうか知らんけど。猫の聴力なんか知らんし。

 リモートミーティングなのか、また戒くんが大きな声出してんなあとか、れいたがくだらない冗談言ってんなあとか、葵さんが笑ってんなあとか。麗がギター弾いてて、俺が何か言ってて、俺、活舌悪いなとか。聞いているうちに、俺はどんどん、焦燥がぎゅうぎゅう肺に詰まっていくのを感じた。どんどん、自分が何物なのかわからなくなってきた。だって俺はそこに居るんだ。人間の俺が。鏡で見ているみたいに、自分の脳もあれが自分だと認識している。

 ていうか、この夢、なんなの? 深層心理? 心の中で、ちょっともう疲れたから人間じゃないものになってみようかなっていうやつなのかな? なんでもいいけど、なんで俺が出てくるんだよ、おかしいじゃん。俺は俺じゃないの。俺が猫になってる夢なら、じゃあ、誰が俺になってるの。

 どっと変な汗が身体じゅうから噴き出してきた。ような気がした。ほんとは分かんないよ、だって俺いま猫だし。猫って汗かくっけ? かかないんじゃないっけ、知らない。ああもう、そんなことどうでもいいんだよ、今。

(もう起きたい! うわーーー!)

 とにかく精一杯声を張り上げてみた。叫んだら目覚めるってよく言うじゃん。でも目が覚める気配はなくて、それどころか自分の到底猫とは思えないようなぎゃあぎゃあいう鳴き声が部屋に響いてるだけ。クリアケースから這い出そうとして、案外壁が高くて登れない。おいおい、なんだよこの夢。だんだん腹が立ってきてそれはもうぎゃあぎゃあ叫んだ。実際、防音室から漏れ聞こえてくる、昨日まで現実世界で自分がいた居場所に自分じゃない自分がいて、自分はというと自分ではないものに成ってそれを見ている。この夢で起こっていることを自覚すればするほど小さな身体の小さな心臓がバクバクバクバク、破裂するんじゃないかってぐらい大きく早く鳴った。その音が更に不安にさせるんだ。もう何も聞きたくなくて、すべての音を自分の声で掻き消したくて叫び続けた。汚い声は麗の家のリビングにこれでもかというほど響いて、防音室のドアが開く音が聞こえた時には更に大きく鳴いた。

「ええ……めちゃくちゃうるさ……」

 ビックリしたみたいな顔で俺が出てきた。いや、俺は俺だからこの俺は、その辺はいいやもう。なんか取り敢えず人間の俺は小走りに俺に近寄ってくると、先ほどまで絶対触ろうとしなかったとは思えないほど躊躇なく、俺を両手でひょいと抱き上げた。その打って変わってあまりにも躊躇のない所作に若干怯んでしまって、俺は鳴くのをやめる。そんな俺に顔を近づけ、人間の俺はちょっと笑った。

「ちっちゃい身体でそんな鳴いたら、死んじゃうよ」

 だからねも少し静かにね、言い聞かせるようにそう言うとまた俺をクリアケースの中に戻そうとしてきた。俺は俺の手に必死にしがみついた。いやもう頼む、お前でいい、なんかなんとかして目を覚まさせてくれ、俺を元に戻してくれ、元に戻りたい、俺は俺に戻りたい!

「無理だって」

 暴れる俺をあくまで優しい手つきでクリアケースに押し込めながら、それでも爪を立て牙を立て抗う俺に人間の俺はあたふたして麗を呼んだ。すぐに声を聞きつけた麗がやってきて、俺をなだめすかすみたいに撫でながらもクリアケースに蓋をしようとした。いや! 殺す気か! 監禁か! さっと血の気が引いていく気がした。っていうか、なんで目覚めないの? いい加減にしてくんない? もうなんかハラハラ通り越して絶望なんですけど。その時、もうどうしていいかわからないほど頭の中がわあわあ大混乱な俺の両耳に、麗か俺か、どっちとも判別つかない声がはっきりと響いた。

「しょうがないじゃん、るきのせいだよ」

(……え?)

 瞬間、本当に一瞬、抵抗の動きを止めた俺の前の前でとてもさっさとクリアケースの蓋が閉じられた。少しの乱暴さと素早さと、都合のいいやさしさと温かさのその全部で俺は狭くてふかふかした世界に閉じ込められた。あれ? なんだか暗い。クリアケースは何色だったっけ? 俺の目の前は突然白と黒だけになって、狭い世界は薄暗い。また声が聞こえてきた。楽しそうな声。充実した人生を謳歌している声。苦労も、大変さも、すべて享受して今を全力で生きている人間の声がする。俺はこんな狭い世界に閉じ込められているのに。そんで、なんでこれが俺のせいなんだよ。意味わかんない。

(……いや。いやいやいやいや、冗談じゃねえよ)

 意味が分からなさ過ぎて、腹の底からむかむかしたものがせりあがってきて、ああもうどうしようもないほど腹が立って、俺はまた怒鳴り散らかした。それこそ猫なんだからもう、喉なんかどうなったっていい。夢なんだし。とにかく目を覚ますんだよ、こんなわけわかんない夢見てる場合じゃないんだよ。いい加減にしろよ。マジで。もう、

「いい加減にして!!」

 ばっと視界が明るくなって、自分の声の残響が耳に届いた。瞬時に理解する、目が覚めた心地。自分の家のソファの上、目の前のテーブルには珈琲のマグカップ、お昼時のワイドショー番組。……え、昼?

(めちゃくちゃ寝てたのか)

 床に落っこちていたスマートフォンを手繰り寄せた。着信が何件かあって、その中に麗の名前を見つける。思わず折り返してその声を聴くまで妙な違和感で気が休まらなかった。目覚めたよね? これ現実だよね、夢じゃないよね、って、なんとなく。だから電話の向こうから間の抜けた声で「あ、るーさん? ちょっと確認したいとこあってさあ」って聞こえてきた時は心底安堵した。それで一気に気が抜けて、話の内容は絶対今じゃなくていい、この後みんなでミーティングするじゃん、その時でよくない? っていう細かい確認の話だったんだけど、仕事の話ができることが嬉しすぎてちょっと声が上ずったかも知れないし、めちゃくちゃ真摯に答えた。それで、昼飯食ったかって話になって、どうせリモートミーティングするんだからその前に昼飯一緒に食べようかってことになって、俺は身支度を整えて家を出た。

 麗と落ち合って、パスタかラーメンか、牛丼じゃね、カレーも捨てがたい、そんなことを言いながら結局牛丼を食べ、向かうときはタクシーに乗ったけれど、そこまで遠いわけでもないし腹ごなしに歩いて麗の家まで行くことにした。制作作業とはいえ、ずっと籠りっぱなしでよくないしな。食後の身体には涼しくさえ感じる風を心地よく思いながら歩いている俺に、隣で半歩先を歩いている麗が尋ねてきた。

「そういえばるーさん、俺が電話した時って寝てたの?」

「ん? あーそうそう、それでめちゃくちゃ気持ち悪いっていうか、なんか嫌な夢見てさあ……」

 言葉にしようとすると、頭の中から糸を引っ張るみたいにするすると夢の内容が抜けていった。あれ、あれ、と思っているうちに、どんな夢だったのか一切思い出せなくなってしまって、俺はちょっと笑った。

「忘れたわ」

「あるあるじゃん、夢あるある」

「それな」

 あはは、って笑い合いながら公園を横切っていると、麗がちょっと変な声を上げてベンチに駆け寄った。

「ちっちゃ」

 何かを拾い上げてそう呟く背に歩み寄り、その手の中を覗き込んだ。



(2021.02.23//猫の夢)

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