独立の日

 親に勘当されて一世一代の大博打のつもりで家を出た。その時付き合っていた女の家に言われるまま転がり込んで、一緒に住み始めると途端に重たくなる女が多くて何度か転々として。けれど結局、県すら跨いでいない場所に今も留まっている。そんなことを漠然と考えていたらとても遠くに来たわけでもないくせに早々とどこへ行っても無駄な気がしてきてしまって、さっさと手軽に挫折感なんか味わった。どこへ行っても真新しい気持ちになんかなれやしないと悟って、いや、もともと分かっていたことだったなどと嘯いてみる自己防衛が、我ながら痛々し過ぎて救いようがない。全部自分で選んできたことだと、自業自得だと、傍から見ればどうしようもない人間だなと言われて終了する人生だ。生まれる家が選べたら、脳味噌の出来が人より優れていたら、出会う人が選べたら、人生の分岐でリセットできたら。間違えない悔いのない順風満帆で華々しく幸せな人生が送れたのだろうか。でも駄目だ。選択肢の数は生まれながらに決まっていると思うのだ。自分には二択しかなくても、三択四択ある人間もいる。それでいえば自分よりもっと選択肢のない人間もいる。頭が良くて、見目が良くて、周囲に恵まれていたとしても、何か一つに恵まれなかっただけで選択肢がたった一つの人生になることだってある。そう考えれば自分はまだ見知らぬ誰かよりは幸せなのかも知れない。そういう思考になったからといって、だからなんだ? 今の現状を今までの人生を喜べるのか愛せるのか幸せだと思えるのかは、俺の勝手だ。だから世界が止まって見えるのも、俺の勝手。

「なんで公園?」

 今の俺の精神状態にそぐわない暢気な声に顔を上げたら、麗が目の前に立っていた。へらへらした顔で携帯電話を片手に俺を見下ろして。眉毛が無いのは今日のライブでメイク前に全剃りしたから。瞼がいつもよりいっそう重たそうなのは今が深夜だから。地元のヤンキーも着なさそうな裾もほつれ首回りも伸びきっているスウェット姿にサンダルなのは、多分俺が突然呼びつけたから。

「……寝てた?」

「そりゃあね」

「なんだよ、いつもはゲームしてんだろ」

「打ち上げで酒飲んだし」

 欠伸をしながら目を擦るから、申し訳ないことをした気になった。それで(ああ、やっぱり俺ちょっと落ち込んでんな)って気分が沈んでいることを認める。取り繕うようにベンチ代わりにしているブランコを前後に揺すった。

「なんかここ、来たことないのに見覚えあるなぁって」

 そう言う俺を見て携帯電話をポケットにしまうと、麗は隣のブランコに座った。

「ここ俺ん家の真裏だよ」

 そりゃ見覚えあるでしょ、なんて笑ってすいすいブランコを漕ぎ始める。俺は話の腰を折られたような気分でブランコを止めた。

「……でも来たことないし」

「え、初めて俺ん家来た時ここで待ち合わせたじゃん」

「ちげぇよそれ別の公園でしょ? もっとむこうの」

「いやここだよ、むこうの公園で待ち合わせてたのに流鬼が間違えてこっちの公園に着いちゃって、俺がれいたと迎えに来て」

「逆だって、ここで待ち合わせてたけどむこうの公園で会ったんだって」

「いやここだよ」

「絶対ここじゃない」

「あーまあいいや、そんなことより」

 途中からなんとなく麗のほうが正しいような気がしたが、前述の思考も相俟って認めるのが恥ずかしくて意地でも譲らないでいたら、麗はブランコから降りた。

「取り敢えず俺ん家行こ」

 取り敢えず、と言われて、そう取り敢えず、と自分に言い訳でもするように頭の中で繰り返す。何の用だと問われたらなんと答えようか、なんて一応考えていたのに、麗はそれ以上何にも聞いてはこなかった。もしかすると、もう何度目か知れない俺の「逃亡」に勘付いたのかも知れない。ブランコの足元には大きなボストンバッグを置いていたから。

 他人の実家に深夜に上がり込んで一体何がしたいのだろうかと、誰にも責められないと逆に自分のしていることが自分で嫌になってくる。できればもっと「こんな時間に困る」とか、「一体どうしたの」とか、問い詰められて責められたかった。逃げたいというだけの衝動で出てきた以上、何を聞かれても何も言えない。だからこそ、馬鹿だなと他人に言われて納得したかった。自分で自分が嫌になることほど惨めなことは無いからだ。けれど、そもそも、逃げたいという衝動の根源がそれである以上、そんなことは今更関係が無い。

(とっくに俺は俺が嫌なんだ)

 だからきっと、俺に執着する人間から逃げたくなるんだろう。狭いベッドで背中合わせに寝転んで数分、くっついた他人の背中の温かさが変に居心地が悪くて、起き上がってベッドを降りる。麗はさっさと眠ってしまったらしい、よっぽど眠たかったのだろう。逡巡の後、結局その辺に脱ぎ捨てられていた麗の上着を手繰り寄せると、その辺に平積みになっていた雑誌を枕にして床に横たわった。背後のベッドからは寝息が聞こえてきていた。




「……曲?」

「そう。作ろうと思って」

 昼過ぎに起きてコンビニまで食べ物を買いに行き、戻って来た時にそう言った。我ながら言い訳がましいなと思いながら。あぁ、だから俺ん家まで来たのかぁ、と独り言のように呟いて壁に掛けてあったギターを取り、麗はコンビニの袋を床に置いてベッドを背に座り直した。俺は俺で何度か来たことのある勝手知ったる麗の部屋を四つん這いで漁り、まだ何も書かれていないぐちゃぐちゃの五線譜を数枚、漫画と漫画の間から引っ張り出す。紙ぐらいきっちり直しとけよ、とぶつぶつ言いながら床に広げて皺を伸ばした。

「なんかいいなぁ」

「何が」

「こうやって一緒に曲作るって」

 またよく分からないことを言い出したな、と俺がそれ以上追求しないから、麗はギターを弾き始める。曲を作るために来た、というのはあながち嘘ではない。実際に昨日のライブが終わったらシングルを出すための作業に取り掛かるという話になっていたのだから、麗も言い訳がましい俺の台詞に納得したのだ。けれど真実そのために来たわけではないから、俺のやる気はどれだけ必死にかき集めてもすぐ散り散りになった。やる気がない時にやってもしょうがない、ということで漫画を読み始める。そうすると麗はゲームをし始める。漫画に飽きるとそれを見たり、一緒にゲームをしたりしていると、簡単に一日が終わる。何もしていないと何かしなきゃという漠然とした不安が押し寄せてくる。だから騒いで時間を潰す。何もしていないのに腹が減ると無駄に生きている気がする。だから考えないことにする。そういう風に過ごしていると、不思議なくらいの安息が俺を包んでいる。たまにれいたが遊びに来て、三人で笑い合って、たまに思い出したようにバイトに出かけて、疲れたら眠って。

 そんな調子で、麗の家に来てから矢のような速さで一週間が過ぎた。そのことに、別れたつもりの女からのメールで気づいた。一瞬で現実に引き戻されたような気になった。時間が巻き戻ったかのように、精神状態が一週間前に戻る。逃げたい、逃げたい、逃げたい。そうやって安息に逃げ込んで、一週間も過ごしたのに。まだ俺は逃げたいのか。けれど、今度はどこに?

 一言だけのメールを返して、携帯電話を閉じた。




「明日出てくわ」

 寝支度をしている時に言った。ベッドに寝転んで携帯電話を弄っていた麗は顔を上げ俺を見て固まった。

「え? 帰れるの?」

 やっぱり女の家から逃げてきたことには気づいていたらしい。元の場所に帰れるのかと問いかけられ、俺は思わず口籠って、要領を得ない返答をする。

「……いや、まあ、宛てがないわけじゃないし」

 じゃあどこに行くのかと言いたげな顔でじっと見上げてくるので、目を逸らさざるを得ない。後ろめたいわけではない。しかしはっきりと正直に別の女の家に行くなどと言うのはどうにも憚られた。ベッドに滑り込んでさっさと背を向けてしまう。床で寝たのなんか最初の日だけで、身体が痛くて仕方が無くて次の日からはずっとこうしてベッドを間借りしていた。狭い、とか、いつまで居るんだよ、なんて冗談みたいに笑って言われて、いつまでも居てやろうかって冗談で返して笑っていた。いつまで居るんだよと言いながら、嬉しそうに見えたから。けれど、だからか。なんだか、ここにきて出て行くというのが後ろめたくなってしまった。麗と居ると楽しくて、それまで悩んでいたことを嘘みたいに無かったことにできた。深いことなんか何も考えなくなって、未来への不安を感じても馬鹿騒ぎをして忘れてしまえた。多分俺は追い詰められないと駄目なんだ。安息に浸かると手も足も動かさなくなって、脳細胞を殺して息をするだけの生き物になってしまうらしい。俺だけが駄目になるならいいが、多分俺は傍にいる人に甘えて巻き込んで落ちぶれていく。

「寝た?」

 暫く静かだった部屋に麗の声が響いた。変にはっきり聞こえてきて思わず目を開けたけれど、すぐに固く瞑った。背後に感じる麗の背中が熱い。

「ずっと居てもいいのに」

 起きていると思って言ったのか、寝ているからこそ言ったのか。どちらにせよ、聞かなかったことにした。ずっとっていつまでだよ、お前ここ実家だろ、それどういう意味で言ってるの。色んな返答が頭に浮かんだけれど何を言っても藪蛇な気がして、掻き消した。まだ一緒には居られないと分かってしまったから。多分俺は、お前とは離れたくないんだろう。

 ここを出たら部屋を借りよう。自分で探して住もう。女の家じゃなく、自分の家に。そうして逃げ場を無くてしまおう。すべては安息を得るために。



(2020.07.16//独立の日)

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