脳と心臓

※R-18
※サドマゾ





 頭のおかしい女が散々に陵辱される外国映画をこっそり部屋で観てこの上なく情欲を掻き立てられたことがあった。観終わった後でどくどくと沸騰する血流とは裏腹に真っ青な罪悪感に身体じゅうを彩られ、その映画のことは誰にも内緒にしていようと思った。こうして秘めることで胸の内から沸き上がる様な何かが持続されることを知った。小学生の初夏だった。

 その時分は良くも悪くも自らの内側にばかり目を向けそこの浮き沈みに終始し、例えば目新しさ、例えば後ろ暗さ、例えば恐ろしさなんかを得た時の何とも言えない浮遊感と心臓をぎゅうと握り込まれたような心地がそのまま性に直結している気がした。もう少し大人になってしまえばどうということもないものが、子供の頃には目に入れることも耳にすることもとても『悪い事』に思える。中学生にもなる頃にはその『悪い事』が齎す焦燥に似た疼きの虜になっていた。抑圧と監視によって押さえつけられた自らの内部が外に出たいと内臓を押し退けるみたいに下腹部を刺激するのだ。それはどれだけ解放しようと、何度でもやってきた。本能に唆されて抗えもせず、満たされず、やめることも許されない。殆ど何かの罰のようだとさえ思っていたのに、気が付けばその罰を望んでいる自分がいた。

 このままいったら、戻れないところまでいきそうだ。ぼんやりそんなことを思ったところで大して危機感もなかった。ただ思うことで、まだ自分が戻れる場所に居るという自慰になる。それを何度となく繰り返し、どちらかといえば大人になるに連れて『悪い事』がその悪さを失っていくことのほうを危惧していた。そうして徐々に戻れないほうへ坂を下っていくのを決して恐れてはいなかった。怖いのは寧ろ、その罰がいつまで経っても色褪せないことだった。

 だって、これは甘いのだ。唇に一滴だけ落とされた蜜を震える舌で舐め取れば忽ち咥内に広がる柔和な甘さがやめられない。駄目だと分かっていながら、もっと、沢山の甘さが欲しい。味わうたびに脳が痺れる、なんとも言えない喜びなのだ。洪水のように押し寄せる甘さを顔中に浴びて、開いたままの唇から喉の奥の奥へと胸が焼けるほど絶え間なく注ぎ尽くされて、胃どころか指の先、髪の一筋、身体中の細胞まで全て満たされたい。そうして初めて自らから溢れ出した滴を、湧き出る唾液を、垂らして落とし引いた糸のあまりに儚い繋がりが見たい。

 そら、どうだ。いつだって、そんな自己の内面を見つめるたびに胃の腑から苦くて酸っぱいろくでなしの塊が込み上げてきた。誰にも言えない薄ら寒い淫靡を隠し持ち喉の渇きを常に押し殺しながら目を血走らせているどうしようもない体内の獣が、蹂躙されるのを待ち望んでいるなど。望んでいると、はっきり口には出さないことで踏み止まっているようなものだ。ひとたび留め金が外れてしまえばばねのように飛び出して二度と戻らない。こんな醜悪極まりない生き物を拾う神があるだろうか。あったとしても、気に入らないくせに、無いに違いないのだから、これは仕方のないことなのだ。そうやって言い訳をすればいい。

 あの小学生の初夏、己の心臓は躍動し、血液は沸騰し、脳は感情と情報の洪水に溺れ、己は大人になるのをやめたのだと。薄ら寒くても、それを望んでいるのだと。

 なのに。いつの間にか見ている目線はそこそこに高くなった。過ごす世界が変われば口から出る言葉も変わった。言葉が変わればものの考え方も変わった。手足は大きくなって、知識は増えて、『慣れ』が蝕んだ心の中は新鮮な空気や肉の匂いを忘れてしまった。分かっていたのだ。なんせ、望んでいようがいまいが大人になることは止めようがない。そして人が普通の日常生活を営んでいくなかで味わうことのできる『悪い事』は数が知れている。ならばとさっくり罪を犯せるほど地頭は悪くなかったし、そんなことで齎される高揚は目に見えてばかばかしい。年齢が、身体が、世間的に見て大人になったことに引き摺られるように自分でも自分は大人になってしまったと思ってはいても、果たして大人らしいかと言われればなんとも言えない、なんとも中途半端な大人になった。身も心も震える焦燥に出会えるなどという期待も薄れた。

 普通の恋愛というものをしてみることに抵抗感は勿論なかった。なんせ表立ってアブノーマルに浸ってもなんにも楽しくはない。それが普通であると思うことさえ拒んでいたいのだから。同性との恋愛なんていうものも、早いうちに手を出して気づけば慣れが侵食し、今ではこれっぽっちも面白くない。思いたくもないのに、普通になってしまう、慣れとはそういうものなのだ。好きなものを好きなだけ、或いは思うが儘に、好奇心の儘にでも。そうして過ごす時間は殊の外多くのものを『普通』にしてしまうようだ。そのうち大した起伏もない、できるだけ『普通』を望むようになっていたのかも知れない。いつの間にか隣に立っていて、無意識に指を交わして穏やかな時を感じていた相手は、これと言って何か特徴があるわけでもない、優しいだけの男だった。物腰柔らかな口調で話し、目が合えばあまりに幸せそうに笑うので、初めこそあまりに劣悪な心を持て余している自分とは一緒に居てはいけないような人間だと思っていた。だから少し、ほんの少し、意地の悪いこともした。揶揄ったり、嘲ったり。そうせずにはいられないほど綺麗で、純粋なさまが羨ましくもあったから。それでも「子供みたいに無邪気で、かわいい」そう言って、俺のやることなすことすべて肯定して喜ぶものだから、絆されたみたいにして一緒に居るようになった。その緩んだ顔を見ているうちに、それで何とはなしに満足感を得るようになったのだ。素直にはなれなくとも、できるだけ傷つけないように、汚さないようにと、きれいなものを護るような気持ちが心のどこかに生まれていて、気づけばもう何年もゆっくりに思えて足早に過ぎていく穏やかな時間に浸かっていた。

(そうだ。俺はいつしか望んでいたのだ)

 いつだって己の心の在り様に気づく時というのは、それを映す鏡を覗いた時だ。ここへきて、今更、本当に今更、鏡のように相手に映ってはっきり見えた。

「好きだから、なんでもしてあげたい、……望むことは」

 いつも通りの死ぬほどやさしいセックスの最中、もう殆ど口癖みたいになっていたその言葉を肺の奥から押し出すみたいにして少しずつ口にしたっきり、黙りこくって何も言わなくなってしまった。幾度となく耳にしたその言葉が、この時ばかりは呪いのように胸の内にじわっと広がるのが分かった。なんせ、唐突にそう言ったかと思ったら動くのもやめてしまったのだ。何を言っても返事もせず、髪で隠れた顔はよく見えず、じっとそこに居続けている。お前一体どうしたんだ、そう言いながら俺がとうとう身体を起こそうとした時だった。

「だから、仕方ないんだ」

 ベッドに押さえつけられ、首にかかった指に気道を塞がれた。戸惑う暇もない。締め付けてくる指は強すぎずけれど確実に呼吸を妨げ、頭に圧迫感が漂って視界が狭くなった気がした。苦しすぎないうちに指が少し緩まって、落ち着かないうちにまた酸素が断たれる。徐々に呼吸が荒れていく。そして全身の血管が脈打つのが分かって、じんじんと指先が痺れだす。不思議なことに、苦しさに喘ぐ身体は奇妙なくらい鋭敏になって、体内に収まっている相手の形がありありと分かった。そこに絡まる己の肉の壁の動きも変にリアルにイメージできた。決して強すぎない指に呼吸を支配され何とも言えない浮遊感を得ている間、身体の奥を突き上げられると頭がおかしくなるほど気持ちが良かった。どこを見ているのかも定かでない目に涙が滲んでいくのが分かった。泣いていると思ったのか、単にそうしたいからなのか、指が離れるとたまに開きっ放しの唇が唇で塞がれた。唾液の味しかしないのに、今までしたどのそれよりも甘かった。これは、悦びだ。

「俺は、こんなことを望んだんじゃない」

 揺れる視界に浮かび上がる顔があまりにかなしそうで、くやしそうで、真っ青な、真っ青な、罪悪感が込み上げた。そのほんの一瞬、鼓動を止めたかと思うと、次の瞬間には胸が壊れるほど暴れ始めた。胸骨が軋み、忘れていたあの感覚が鮮明に蘇り、鼓動と己の呼吸の音が交互に脳を揺さぶって景色を塗り替え眼前を彩っていく。ぎゅう、と下腹のあたりから登って背中に疼きが広がった。なるほどこれは俺がさせたことか。言い訳さえ俺が言わせたのか。言いたくなかったんだろう。心にもないんだろう。したくもなかったに違いないし、望まれても嫌だったに違いない。それを俺が言わせた。させて、かなしませた。俺は両手で顔を覆った。

 ああ、こんなにも甘いのか。綺麗な君を傷つけ踏み躙り、突き落として得る快楽は。



(2021.01.10//脳と心臓)

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