硝子の靴のカタルシス

「シンデレラって、なんで靴の片方持ってるのにすぐ名乗り出なかったわけ」

 暫く大人しくしていたと思ったら唐突にそんな問いを口にした。俺は弦を張り替えたばかりのギターを抱え動きを止める。物語の記憶がだいぶ薄くて思い出せない。そういえばなんでだっけ、等という貧相な回答と共に腕の中でペロンと情けない音が鳴った。

「それで姉が意地になって足切っちゃうじゃん」

「あー……本当は怖い童話集、みたいなやつであったなぁ」

 やっぱり復讐なのかな、と目の前に翳したスマートフォンにぶつぶつ言って、流鬼は仰向けに寝転がっていた身体を起こしソファーに座り直す。歌詞を書くのに色々なものを調べているらしい流鬼の興味は深く潜ってすぐに移り変わる。数分前には「フォークの背にご飯乗せて食べるのって正しいマナーなのかな」と言っていた。独り言のようなボリュームのその問いは、俺が知らないなと考えている間に解決したらしい。こういう時は返答しようがしまいがあまり意味が無い。俺の声なんて聞いていないことのほうが多いのだから。

「てかガラスの靴って歩けんのかな」

 他に誰もいないレコーディングスタジオのラウンジに流鬼の声が広がっては消える。小休憩を取っている俺の目の前で引き続き呟いている彼の話を俺はきちっと答えるでもなくふわっと考えてみるだけ。ギターを爪弾いてフレーズの確認をして、テーブルを挟んだ向かい側のソファーでぐるぐる座ったり転がったり忙しく波打つ彼を眺めている。あちらの島は大変そう。こちらの島は穏やかだ。

「……なんで靴なんだろ」

 聞かれているとは思いもせずそんな疑問を口にしたら、なんとすぐに向かいの島から応答があった。

「アイデンティティーの象徴」

 まあ解釈の仕方は色々あるんだけど。そう言って語り始める彼の言葉によれば、シンデレラのガラスの靴は彼女のアイデンティティーを表していて、他人が拾ったそれが自分の持っている片方と合致するということは、自己が他人に認められたことを意味するのだそうだ。

「あくまで、まあそういう解釈もあるよって話」

 成る程、俺は弦を弾きながら小さくそう返した。アイデンティティーがどういうものか俺には難しくてよく分からないけれど。血の繋がりのない家族に虐められどこにも居場所が無かった孤独なシンデレラのアイデンティティーが輝くガラスの靴なのだとしたら、彼女の内側はどれほど人の理解を求めていたのだろう。美しくて、壊れやすくて、滑らかな表面はすべてを映すのに硬く決してその身を歪めない。透き通ったそれは、私を見て、と言わんばかりだ。私を見て。そんな悲痛な叫びのようだ。

「でも、なんか、片方があるっていいね」

 俺はちょっと笑った。自分で言っておいて、そのあまりの表現不足に何を言っているんだろうと思ってしまった。

「分かりやすいからってこと?」

 案の定、流鬼に追及される。説明しながら、なんと言えばいいのかしどろもどろな拙い日本語を返す。それを流鬼は対岸で仰向けになり天を見上げてじっと聞いていた。けれど途中から何が言いたかったのか見失って、俺は誤魔化すようにギターに逃げる。それから流鬼は静かになった。凪いだ海が目の前に広がって、暫く沈黙の時間が流れた。

 そしてすっかり引き潮の波打ち際に流木を着岸させるのはやはり、彼だった。

「……見つけてもらわないと意味がないのか」

「……ん?」

 思わず相槌を打ってしまった。ぐる、とこちらを向いた流鬼の目と目が合ってしまって、また俺の指は動きを止める。

「片方持ってるから私です、じゃ駄目なんだよ。相手に見つけてもらわないと意味がない」

「認められたかったから?」

「まあそう。例えばお前が心の中に思い描いた林檎をさ。そっくりそのまま寸分違わず同じものを俺に思い浮かべて欲しいとして、どうしたらいいと思う?」

「え……めちゃくちゃ説明する、とか? あとは……絵にして見せるとか」

 言いながら俺はそんなこと不可能だと思った。いつだってなんだって心の中のものは曖昧だ。どれだけ明確な形があったって、それを伝えるために言葉にすれば忽ち本来の形を失ってしまう。どれだけ緻密に表現したって、意図した通りに伝わるかというと絶対ではない。それは目に見える物、触れる物に形成したとしても同じだ。製作者でさえ、その手で創造したものが思惑通りの意味を持ち得ることは賭けでしかない。ではどうしよう。さてどうしよう。

「そんで俺がお前のと同じものを思い浮かべたよって口で言ったところで、お前はそれを信じられる?」

 俺は流鬼が何を言っているのかさっぱりわからなくて頭を抱える。どういうことだろう、何が言いたいのだろうと考えていると、どうしてこんなに悩んでいるんだっけ、に至る思考の彷徨いっぷりが酷い。

「じゃあさ、」

 見かねたらしい流鬼の、対岸からの助け舟が岸に着いた。

「お前が『いま醤油ほしいなぁ』って思ってた時に、何も言ってないのに俺が手渡して来たら、嬉しい?」

「……んん、まあ、嬉しいけど……え?」

「そういうことだよ」

「え?! どういうこと?!」

 余計に混乱した俺を笑って、流鬼はソファーから立ち上がるとすたすたとラウンジを出て行った。全然分からないまま話が終わってしまったことに不完全燃焼感を得ながら、今のこのやりきれない気持ちをギターで表現してみようかと出鱈目に弦を抑える。意味の分からない曲が生まれそうな不協和音が響いた。それにしても、今日の流鬼は忙しかったな。ソファーの上でぐるぐるじたばた、話題もまた次から次へと変わっていって。けれど俺の返答なんか求めてないかと思っていたのに、彼の反応はやけに早かった。いつもなら会話にならないことのほうが多いというのに。そもそも、歌詞を書くなら自宅作業の筈だ。スタジオに来なければならない確認作業も今日は無い。それで最初は気分転換でもしに来たのかと思ったのだった。

(……ん?)

 俺の思考が結論に達しかけた時、流鬼が戻ってきた。入れ違いに俺はトイレに立った。ギターをソファーに置いて、のろのろ行って戻ってくるその間に俺は一つの仮説を立てる。確証はないがもしかして、くらいの、根拠もあまりきちんとしていない仮説だ。けれどああやっぱり、きっとそういうことだ。そんな風に自分の仮説を裏付けたのは、ラウンジに戻ってきて目に入った光景。流鬼は俺のギターを抱いてソファーに座っていた。こっちの島の波打ち際に。はっとした俺の口から、思わず言葉が滑り出た。

「もしかしてるーさん、ずっと靴投げてた?」

「え?! どういうこと?!」

 流鬼はびっくりしたみたいに勢いよく振り向いた。

 ええと、なんて言えばいいのか難しい。でも多分、俺の手には流鬼の靴の片方がある。それを確かめようと、俺は流鬼の隣に座った。やっぱり片方があるっていいな。預けられる幸せというやつだ。





(2020.11.10//硝子の靴のカタルシス)

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