些末事

 あれをしよう。そう思って部屋を出たのに、考え事をしながら歩いていたらリビングを通り過ぎ、冷蔵庫の前ではたと立ち止まった時には自分が何をしに出てきたのかを見失っていた。暫くその場で思い出そうとしてみたけれど、結局首をひねりながら踵を返した。

「……俺、何しようとしてたんだっけ」

 思わず尋ねると、リビングのソファで昼下がりの情報番組を見ていた麗は困った顔で「え、それは俺、知ってるっけ?」と返してきて、いや言ってないなと独り言ち、ふらふら作業部屋に舞い戻る。部屋を出るまでを再現してみようとデスクチェアーに座って、ノートパソコンのキーボードに手を添えて、画面をじっと眺めてみた。が、思い出そうとすればするほどさっき麗が見ていたテレビにちらっと映った東京B級グルメ特集が妙に気になってきた。なんかめちゃくちゃ美味そうなやつあったな、ちらっとだけ店名と住所が目に入ったんだよ、でもなんて名前だったっけな。思考がどうしてもB級グルメに寄って行ってしまうので、重要なことならそのうち思い出すだろう、と放っておくことにして作業を再開した。そしてなんと、何をしようとしたか忘れたこと自体をきれいさっぱりすっかり忘れてしまった。

 まあ忘れてしまったなら忘れてしまったでよかったんだよ、むしろ中途半端に何か忘れたってことを思い出すくらいなら。晩飯を食ったあとリビングのソファーでギターの練習をしていたら突然思い出してしまった。何かしようとして忘れてしまった、ということを、思い出してしまった。

「えー……なんだったっけ……」

「えっまだ考えてたの」

 隣で俺の練習を見ていた麗が、そういえばそんなことあったなって具合にあの時の俺の行動を反芻し推理してくる。「冷蔵庫の前まで行ったんなら、何か飲もうとしたとか」「単にトイレじゃない?」「外に出かけようとしたとか」「気分転換」そのどれもが、そんな理由だったっけな、としか言えないくらいにしっくりこない。

「あーもういいや、無かったことにしよう。忘れたことすらも無かったことにしてしまおう」

「それ大丈夫なの」

 多分、そこまで危機感もないから、大したことじゃないと思うのだ。忘れたことが気になっているだけで、絶対に思い出さないといけないようなことでもない気がする。というより、そんなことならまず忘れないと思う。俺はそこまでうっかりしてないよ、こいつじゃあるまいし。目が合うと、何がなんだか分からないけど目が合ったから笑ってみた、みたいにへらっと笑った。うっかりはしてないけれど、この顔を見るとわりと全部どうでもよくなってしまいがちだなあ、俺というやつは。

猫の夢

「犬か猫かっていったら、断然、犬派だしな。前も言ったっけ? え、知ってるって? あ、そう。動物ってだけでまあ、かわいいけどさ、猫って犬みたいに健気さとか無いのに可愛がられてんの、なんか狡いなあとか思うし。かわいいよ? かわいいけど、犬のほうが可愛くない? 主人への忠実さとか。やっぱこう必死に構って構って! って尻尾振って愛情表現してくるほうが可愛いじゃん。だからとかそんなんじゃないけど、まあ俺は犬派」



猫の夢



 昨日の夜からずっと仕事してたんだよな。そうそう、ほかに誰もいない自宅でさ。それで、あんまり没頭していたらいつもの通りカーテンの向こうが明るくなってきて、もうそんな時間かって休憩がてら仕事部屋を出てキッチンで珈琲を淹れることにした。ちょうど起きてきたコロンに朝ご飯をあげて、ニュースでも見ようかな、なんてテレビをつけてソファに腰かけ暫く天気予報とか今日の占いを見ていたんだけど、気づいたら目を閉じてたらしい。やばいな、寝落ちそう、なんていう間もなくストンと眠りに落ちた。よっぽど脳が疲れていたらしい。そして転寝に興じているうちに、世の中はちょっと角度を変えてしまったみたい。そんなことある? あっちゃった。ああ、よく分からないな、まだ夢なのかもしれない。いや、きっと夢なんだろう。俺は俺の自宅にいたはずなのに、目を覚ましたら公園のベンチにいたんだ。そんなことある? あっちゃったから、驚くのも通り越して納得した。それか夢遊病かな? 仕事のしすぎって良くないね、気を付けたい、来世では。

(夢でしかないのは、まあそうだとして)

 公園のベンチで横になっていた身体を起こしてみて更に俺は確信する。実際、起こしてみたんだけど、起きてない。えっと、なんて言えばいいのかな。目線がさ、起きなくて。低いままなんだ。びっくりして自分の身体を見てみたら、手も足も小さくて、身体に近くて、自分の尻の辺りから長めの尻尾が生えているのが見えた。しましま模様? 真っ白とか真っ黒とか茶色とかいう、一色って感じではないな、なんかそうだな、あんまりきれいではない色だ。

(……野良猫生活三年やってます、みたいな)

 猫なんてあんまりまじまじと間近で見たこと無かったけど、その姿が、自分がいま猫になっているのだということはじゅうぶん分かった。なんせ、無性に爪が研ぎたいし。

 我慢できなくて木のベンチの背もたれにばりばり爪を立ててから俺はベンチを後にした。どうせ夢だと思っているから案外落ち着いているし、違和感なく身体も動かせる。人間の身体とは関節も指の数も何もかも違うのにまるで生まれてから今までそうだったみたいに馴染んでいるし、爪研ぎもDNAが知っているみたいに沁みついた動きで自然とできた。

 前足から降り立った地面は砂利が痛いかと思ったけれど案外そうでもない。肉球のクッションは人間が思うよりとてもいい仕事をしているらしい。けれど歩き出そうとしたところで、自由に動かせるようになった耳に喧しく響く風に煽られ、俺はベンチの下に潜って身体を縮めた。風の音もうるさいけれど、何よりもまず寒い。寒すぎる。毛皮を着ていたって二月の風は猫の身体を芯まで冷やすらしい。ていうか、ベンチで寝てた時点でさ、スタートから極寒じゃないですか。俺べつに寒がりとかじゃないんだけどな、なんかめっちゃ寒いわ。これはもう一歩も動けませんわ。ジ・エンドですわ。

 せっかく人間じゃないものになったんだから、もっと違う生き物としての生を楽しんでみたかったなあ。ぎゅうと目を瞑ってそんなふうに、もう早く目覚めないかな寒いし、とか思っていたら、突然身体が宙に浮いた。驚いて目を開けて、すぐになんだお前かという気持ちでため息が出そうになる。

「ちっちゃ」

 素っ頓狂な声で俺を抱き上げた麗は「つめた! 震えてるし……ってか、きたな! 野良かあ、えっ耳のとこ千切れ……てか目つき悪いな……」言いたいこと言いまくった。なので全身全霊、憎しみを込めてフーってやつと、シャーってやつをやった。うまいことできた。なんせこの夢の中で俺、野良猫生活三年目だしな。振り回した爪で麗の手を引っ掻いた。

「おまえ病気なるよ」

 多分、夢だから何があっても驚くことはないと思ってたけど、この時ばかりはビックリした。麗の後ろから俺が現れたから。この俺は今の俺ではない俺で、人間の俺で、でも俺はいま猫になっているわけで目の前の俺は正確には俺ではない俺なわけででも人間の俺と猫の俺とどっちがより俺なのかって言ったらもちろん人間の俺なわけなんだけど、つまりはややこしくて難しいわけよ。

「えっ猫って病気持ってるの?」

「知らんけど野良とかは無暗に触っちゃダメって……うーわ引っ掻かれてんじゃん、お前それもうダメだ、そこから腐り落ちるやつだわ」

「腐り落ちるの、困るなあ」

「困るだけなんかい」

 そんな会話もそこそこに、こんな寒い外に居たら凍え死ぬかも、なんて心配した麗にそのままその辺の動物病院に連れていかれた。麗と俺(人間のほうな)は散歩の最中だったらしい。動物病院は営業時間外だったのか閉まっていたけど、俺があんまりぶるぶる震えていて見かねた麗がシャッターをガンガン叩いたら完全に寝起きのメガネをかけた細身のおっさんが出てきた。おっさんは特に嫌な顔するでもなく、大変だね、小さいね、取り敢えず診ようね、なんて言って俺の身体を隅々までいじくった。凄絶な体験過ぎてシャーとかフーとかもできずにひたすら拒絶で硬直しているうちに、特に異常なしと診断され首のところに変な液体をかけられ診察は無事に終わった。夢でも二度と体験したくない。

 そのあと麗のマンションに無理やり拉致され、風呂に入れられた。人間のシャンプーは猫の鼻には匂いが強烈すぎて倒れるかと思ったが、シャワーは温かくて結構気持ちが良かった。始終あははと暢気に笑って洗われる俺を見ている人間の俺、興味があるみたいに見てはいるけど麗に「抱っこする?」って差し出されても「いや、いい!」って即断って絶対に猫の俺に触ろうとしないし手伝うつもりも一切なくて(あ、これ間違いなく俺だなあ)とか妙に納得した。

「猫ってこんなんだっけな」

「なんか妙にちっちゃいよね」

 風呂の後は水と一緒に動物病院で買ったらしいシーチキンみたいなものを小皿で差し出され、その匂いを嗅いで腹が減ってることに気づいた。なんの抵抗もなく食べちゃう今の俺、猫してんなって思う。そしてめちゃくちゃ美味かった。思わずもっとくれ、と喚いたら喉からすっごい拉げた声が出た。

「いや声、きたな!」

「ぎゃおっていった、ぎゃおって!」

 それを聞いた二人が揃って笑った。麗の指が伸びてきて、頭、喉、顔まわり、背中を優しく柔らかく撫でられた。失礼なことを言われているが、撫でられるのが気持ちよくて、自然と喉の奥のほうからぐるぐる低い音が出た。

「これ喜んでると出る音じゃないっけ」

「なに、こいつ喜んでんの? わかりづれえ」

 夢だから人間の言葉が分かるんだろうけど、なかなか失礼なやつらだな。いや片方俺だけど。麗は部屋の奥から一抱えほどの空のクリアケースを持ってくるとそこにクッションやバスタオルを敷き詰め、俺をその中に入れた。ふわふわしていて温かくて、感触を確かめるように前足で何度も踏んだ。

「ちょっと大人しくしててなぁ」

 そんなことを言って、麗と人間の俺は奥の部屋に消えていった。現実と麗の家の間取りが同じなら、あそこは仕事部屋だ。なに、そこは現実と一緒なのかな、時系列っていうか時間軸っていうか。制作作業中なのか。暫くして部屋から色んな声や音が微かに聞こえてきて、麗の作業部屋は防音の筈なのに、猫の聴力ってすごいなあと感心する。いや、この夢がマジなのかどうか知らんけど。猫の聴力なんか知らんし。

 リモートミーティングなのか、また戒くんが大きな声出してんなあとか、れいたがくだらない冗談言ってんなあとか、葵さんが笑ってんなあとか。麗がギター弾いてて、俺が何か言ってて、俺、活舌悪いなとか。聞いているうちに、俺はどんどん、焦燥がぎゅうぎゅう肺に詰まっていくのを感じた。どんどん、自分が何物なのかわからなくなってきた。だって俺はそこに居るんだ。人間の俺が。鏡で見ているみたいに、自分の脳もあれが自分だと認識している。

 ていうか、この夢、なんなの? 深層心理? 心の中で、ちょっともう疲れたから人間じゃないものになってみようかなっていうやつなのかな? なんでもいいけど、なんで俺が出てくるんだよ、おかしいじゃん。俺は俺じゃないの。俺が猫になってる夢なら、じゃあ、誰が俺になってるの。

 どっと変な汗が身体じゅうから噴き出してきた。ような気がした。ほんとは分かんないよ、だって俺いま猫だし。猫って汗かくっけ? かかないんじゃないっけ、知らない。ああもう、そんなことどうでもいいんだよ、今。

(もう起きたい! うわーーー!)

 とにかく精一杯声を張り上げてみた。叫んだら目覚めるってよく言うじゃん。でも目が覚める気配はなくて、それどころか自分の到底猫とは思えないようなぎゃあぎゃあいう鳴き声が部屋に響いてるだけ。クリアケースから這い出そうとして、案外壁が高くて登れない。おいおい、なんだよこの夢。だんだん腹が立ってきてそれはもうぎゃあぎゃあ叫んだ。実際、防音室から漏れ聞こえてくる、昨日まで現実世界で自分がいた居場所に自分じゃない自分がいて、自分はというと自分ではないものに成ってそれを見ている。この夢で起こっていることを自覚すればするほど小さな身体の小さな心臓がバクバクバクバク、破裂するんじゃないかってぐらい大きく早く鳴った。その音が更に不安にさせるんだ。もう何も聞きたくなくて、すべての音を自分の声で掻き消したくて叫び続けた。汚い声は麗の家のリビングにこれでもかというほど響いて、防音室のドアが開く音が聞こえた時には更に大きく鳴いた。

「ええ……めちゃくちゃうるさ……」

 ビックリしたみたいな顔で俺が出てきた。いや、俺は俺だからこの俺は、その辺はいいやもう。なんか取り敢えず人間の俺は小走りに俺に近寄ってくると、先ほどまで絶対触ろうとしなかったとは思えないほど躊躇なく、俺を両手でひょいと抱き上げた。その打って変わってあまりにも躊躇のない所作に若干怯んでしまって、俺は鳴くのをやめる。そんな俺に顔を近づけ、人間の俺はちょっと笑った。

「ちっちゃい身体でそんな鳴いたら、死んじゃうよ」

 だからねも少し静かにね、言い聞かせるようにそう言うとまた俺をクリアケースの中に戻そうとしてきた。俺は俺の手に必死にしがみついた。いやもう頼む、お前でいい、なんかなんとかして目を覚まさせてくれ、俺を元に戻してくれ、元に戻りたい、俺は俺に戻りたい!

「無理だって」

 暴れる俺をあくまで優しい手つきでクリアケースに押し込めながら、それでも爪を立て牙を立て抗う俺に人間の俺はあたふたして麗を呼んだ。すぐに声を聞きつけた麗がやってきて、俺をなだめすかすみたいに撫でながらもクリアケースに蓋をしようとした。いや! 殺す気か! 監禁か! さっと血の気が引いていく気がした。っていうか、なんで目覚めないの? いい加減にしてくんない? もうなんかハラハラ通り越して絶望なんですけど。その時、もうどうしていいかわからないほど頭の中がわあわあ大混乱な俺の両耳に、麗か俺か、どっちとも判別つかない声がはっきりと響いた。

「しょうがないじゃん、るきのせいだよ」

(……え?)

 瞬間、本当に一瞬、抵抗の動きを止めた俺の前の前でとてもさっさとクリアケースの蓋が閉じられた。少しの乱暴さと素早さと、都合のいいやさしさと温かさのその全部で俺は狭くてふかふかした世界に閉じ込められた。あれ? なんだか暗い。クリアケースは何色だったっけ? 俺の目の前は突然白と黒だけになって、狭い世界は薄暗い。また声が聞こえてきた。楽しそうな声。充実した人生を謳歌している声。苦労も、大変さも、すべて享受して今を全力で生きている人間の声がする。俺はこんな狭い世界に閉じ込められているのに。そんで、なんでこれが俺のせいなんだよ。意味わかんない。

(……いや。いやいやいやいや、冗談じゃねえよ)

 意味が分からなさ過ぎて、腹の底からむかむかしたものがせりあがってきて、ああもうどうしようもないほど腹が立って、俺はまた怒鳴り散らかした。それこそ猫なんだからもう、喉なんかどうなったっていい。夢なんだし。とにかく目を覚ますんだよ、こんなわけわかんない夢見てる場合じゃないんだよ。いい加減にしろよ。マジで。もう、

「いい加減にして!!」

 ばっと視界が明るくなって、自分の声の残響が耳に届いた。瞬時に理解する、目が覚めた心地。自分の家のソファの上、目の前のテーブルには珈琲のマグカップ、お昼時のワイドショー番組。……え、昼?

(めちゃくちゃ寝てたのか)

 床に落っこちていたスマートフォンを手繰り寄せた。着信が何件かあって、その中に麗の名前を見つける。思わず折り返してその声を聴くまで妙な違和感で気が休まらなかった。目覚めたよね? これ現実だよね、夢じゃないよね、って、なんとなく。だから電話の向こうから間の抜けた声で「あ、るーさん? ちょっと確認したいとこあってさあ」って聞こえてきた時は心底安堵した。それで一気に気が抜けて、話の内容は絶対今じゃなくていい、この後みんなでミーティングするじゃん、その時でよくない? っていう細かい確認の話だったんだけど、仕事の話ができることが嬉しすぎてちょっと声が上ずったかも知れないし、めちゃくちゃ真摯に答えた。それで、昼飯食ったかって話になって、どうせリモートミーティングするんだからその前に昼飯一緒に食べようかってことになって、俺は身支度を整えて家を出た。

 麗と落ち合って、パスタかラーメンか、牛丼じゃね、カレーも捨てがたい、そんなことを言いながら結局牛丼を食べ、向かうときはタクシーに乗ったけれど、そこまで遠いわけでもないし腹ごなしに歩いて麗の家まで行くことにした。制作作業とはいえ、ずっと籠りっぱなしでよくないしな。食後の身体には涼しくさえ感じる風を心地よく思いながら歩いている俺に、隣で半歩先を歩いている麗が尋ねてきた。

「そういえばるーさん、俺が電話した時って寝てたの?」

「ん? あーそうそう、それでめちゃくちゃ気持ち悪いっていうか、なんか嫌な夢見てさあ……」

 言葉にしようとすると、頭の中から糸を引っ張るみたいにするすると夢の内容が抜けていった。あれ、あれ、と思っているうちに、どんな夢だったのか一切思い出せなくなってしまって、俺はちょっと笑った。

「忘れたわ」

「あるあるじゃん、夢あるある」

「それな」

 あはは、って笑い合いながら公園を横切っていると、麗がちょっと変な声を上げてベンチに駆け寄った。

「ちっちゃ」

 何かを拾い上げてそう呟く背に歩み寄り、その手の中を覗き込んだ。



(2021.02.23//猫の夢)

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脳と心臓

※R-18
※サドマゾ





 頭のおかしい女が散々に陵辱される外国映画をこっそり部屋で観てこの上なく情欲を掻き立てられたことがあった。観終わった後でどくどくと沸騰する血流とは裏腹に真っ青な罪悪感に身体じゅうを彩られ、その映画のことは誰にも内緒にしていようと思った。こうして秘めることで胸の内から沸き上がる様な何かが持続されることを知った。小学生の初夏だった。

 その時分は良くも悪くも自らの内側にばかり目を向けそこの浮き沈みに終始し、例えば目新しさ、例えば後ろ暗さ、例えば恐ろしさなんかを得た時の何とも言えない浮遊感と心臓をぎゅうと握り込まれたような心地がそのまま性に直結している気がした。もう少し大人になってしまえばどうということもないものが、子供の頃には目に入れることも耳にすることもとても『悪い事』に思える。中学生にもなる頃にはその『悪い事』が齎す焦燥に似た疼きの虜になっていた。抑圧と監視によって押さえつけられた自らの内部が外に出たいと内臓を押し退けるみたいに下腹部を刺激するのだ。それはどれだけ解放しようと、何度でもやってきた。本能に唆されて抗えもせず、満たされず、やめることも許されない。殆ど何かの罰のようだとさえ思っていたのに、気が付けばその罰を望んでいる自分がいた。

 このままいったら、戻れないところまでいきそうだ。ぼんやりそんなことを思ったところで大して危機感もなかった。ただ思うことで、まだ自分が戻れる場所に居るという自慰になる。それを何度となく繰り返し、どちらかといえば大人になるに連れて『悪い事』がその悪さを失っていくことのほうを危惧していた。そうして徐々に戻れないほうへ坂を下っていくのを決して恐れてはいなかった。怖いのは寧ろ、その罰がいつまで経っても色褪せないことだった。

 だって、これは甘いのだ。唇に一滴だけ落とされた蜜を震える舌で舐め取れば忽ち咥内に広がる柔和な甘さがやめられない。駄目だと分かっていながら、もっと、沢山の甘さが欲しい。味わうたびに脳が痺れる、なんとも言えない喜びなのだ。洪水のように押し寄せる甘さを顔中に浴びて、開いたままの唇から喉の奥の奥へと胸が焼けるほど絶え間なく注ぎ尽くされて、胃どころか指の先、髪の一筋、身体中の細胞まで全て満たされたい。そうして初めて自らから溢れ出した滴を、湧き出る唾液を、垂らして落とし引いた糸のあまりに儚い繋がりが見たい。

 そら、どうだ。いつだって、そんな自己の内面を見つめるたびに胃の腑から苦くて酸っぱいろくでなしの塊が込み上げてきた。誰にも言えない薄ら寒い淫靡を隠し持ち喉の渇きを常に押し殺しながら目を血走らせているどうしようもない体内の獣が、蹂躙されるのを待ち望んでいるなど。望んでいると、はっきり口には出さないことで踏み止まっているようなものだ。ひとたび留め金が外れてしまえばばねのように飛び出して二度と戻らない。こんな醜悪極まりない生き物を拾う神があるだろうか。あったとしても、気に入らないくせに、無いに違いないのだから、これは仕方のないことなのだ。そうやって言い訳をすればいい。

 あの小学生の初夏、己の心臓は躍動し、血液は沸騰し、脳は感情と情報の洪水に溺れ、己は大人になるのをやめたのだと。薄ら寒くても、それを望んでいるのだと。

 なのに。いつの間にか見ている目線はそこそこに高くなった。過ごす世界が変われば口から出る言葉も変わった。言葉が変わればものの考え方も変わった。手足は大きくなって、知識は増えて、『慣れ』が蝕んだ心の中は新鮮な空気や肉の匂いを忘れてしまった。分かっていたのだ。なんせ、望んでいようがいまいが大人になることは止めようがない。そして人が普通の日常生活を営んでいくなかで味わうことのできる『悪い事』は数が知れている。ならばとさっくり罪を犯せるほど地頭は悪くなかったし、そんなことで齎される高揚は目に見えてばかばかしい。年齢が、身体が、世間的に見て大人になったことに引き摺られるように自分でも自分は大人になってしまったと思ってはいても、果たして大人らしいかと言われればなんとも言えない、なんとも中途半端な大人になった。身も心も震える焦燥に出会えるなどという期待も薄れた。

 普通の恋愛というものをしてみることに抵抗感は勿論なかった。なんせ表立ってアブノーマルに浸ってもなんにも楽しくはない。それが普通であると思うことさえ拒んでいたいのだから。同性との恋愛なんていうものも、早いうちに手を出して気づけば慣れが侵食し、今ではこれっぽっちも面白くない。思いたくもないのに、普通になってしまう、慣れとはそういうものなのだ。好きなものを好きなだけ、或いは思うが儘に、好奇心の儘にでも。そうして過ごす時間は殊の外多くのものを『普通』にしてしまうようだ。そのうち大した起伏もない、できるだけ『普通』を望むようになっていたのかも知れない。いつの間にか隣に立っていて、無意識に指を交わして穏やかな時を感じていた相手は、これと言って何か特徴があるわけでもない、優しいだけの男だった。物腰柔らかな口調で話し、目が合えばあまりに幸せそうに笑うので、初めこそあまりに劣悪な心を持て余している自分とは一緒に居てはいけないような人間だと思っていた。だから少し、ほんの少し、意地の悪いこともした。揶揄ったり、嘲ったり。そうせずにはいられないほど綺麗で、純粋なさまが羨ましくもあったから。それでも「子供みたいに無邪気で、かわいい」そう言って、俺のやることなすことすべて肯定して喜ぶものだから、絆されたみたいにして一緒に居るようになった。その緩んだ顔を見ているうちに、それで何とはなしに満足感を得るようになったのだ。素直にはなれなくとも、できるだけ傷つけないように、汚さないようにと、きれいなものを護るような気持ちが心のどこかに生まれていて、気づけばもう何年もゆっくりに思えて足早に過ぎていく穏やかな時間に浸かっていた。

(そうだ。俺はいつしか望んでいたのだ)

 いつだって己の心の在り様に気づく時というのは、それを映す鏡を覗いた時だ。ここへきて、今更、本当に今更、鏡のように相手に映ってはっきり見えた。

「好きだから、なんでもしてあげたい、……望むことは」

 いつも通りの死ぬほどやさしいセックスの最中、もう殆ど口癖みたいになっていたその言葉を肺の奥から押し出すみたいにして少しずつ口にしたっきり、黙りこくって何も言わなくなってしまった。幾度となく耳にしたその言葉が、この時ばかりは呪いのように胸の内にじわっと広がるのが分かった。なんせ、唐突にそう言ったかと思ったら動くのもやめてしまったのだ。何を言っても返事もせず、髪で隠れた顔はよく見えず、じっとそこに居続けている。お前一体どうしたんだ、そう言いながら俺がとうとう身体を起こそうとした時だった。

「だから、仕方ないんだ」

 ベッドに押さえつけられ、首にかかった指に気道を塞がれた。戸惑う暇もない。締め付けてくる指は強すぎずけれど確実に呼吸を妨げ、頭に圧迫感が漂って視界が狭くなった気がした。苦しすぎないうちに指が少し緩まって、落ち着かないうちにまた酸素が断たれる。徐々に呼吸が荒れていく。そして全身の血管が脈打つのが分かって、じんじんと指先が痺れだす。不思議なことに、苦しさに喘ぐ身体は奇妙なくらい鋭敏になって、体内に収まっている相手の形がありありと分かった。そこに絡まる己の肉の壁の動きも変にリアルにイメージできた。決して強すぎない指に呼吸を支配され何とも言えない浮遊感を得ている間、身体の奥を突き上げられると頭がおかしくなるほど気持ちが良かった。どこを見ているのかも定かでない目に涙が滲んでいくのが分かった。泣いていると思ったのか、単にそうしたいからなのか、指が離れるとたまに開きっ放しの唇が唇で塞がれた。唾液の味しかしないのに、今までしたどのそれよりも甘かった。これは、悦びだ。

「俺は、こんなことを望んだんじゃない」

 揺れる視界に浮かび上がる顔があまりにかなしそうで、くやしそうで、真っ青な、真っ青な、罪悪感が込み上げた。そのほんの一瞬、鼓動を止めたかと思うと、次の瞬間には胸が壊れるほど暴れ始めた。胸骨が軋み、忘れていたあの感覚が鮮明に蘇り、鼓動と己の呼吸の音が交互に脳を揺さぶって景色を塗り替え眼前を彩っていく。ぎゅう、と下腹のあたりから登って背中に疼きが広がった。なるほどこれは俺がさせたことか。言い訳さえ俺が言わせたのか。言いたくなかったんだろう。心にもないんだろう。したくもなかったに違いないし、望まれても嫌だったに違いない。それを俺が言わせた。させて、かなしませた。俺は両手で顔を覆った。

 ああ、こんなにも甘いのか。綺麗な君を傷つけ踏み躙り、突き落として得る快楽は。



(2021.01.10//脳と心臓)

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硝子の靴のカタルシス

「シンデレラって、なんで靴の片方持ってるのにすぐ名乗り出なかったわけ」

 暫く大人しくしていたと思ったら唐突にそんな問いを口にした。俺は弦を張り替えたばかりのギターを抱え動きを止める。物語の記憶がだいぶ薄くて思い出せない。そういえばなんでだっけ、等という貧相な回答と共に腕の中でペロンと情けない音が鳴った。

「それで姉が意地になって足切っちゃうじゃん」

「あー……本当は怖い童話集、みたいなやつであったなぁ」

 やっぱり復讐なのかな、と目の前に翳したスマートフォンにぶつぶつ言って、流鬼は仰向けに寝転がっていた身体を起こしソファーに座り直す。歌詞を書くのに色々なものを調べているらしい流鬼の興味は深く潜ってすぐに移り変わる。数分前には「フォークの背にご飯乗せて食べるのって正しいマナーなのかな」と言っていた。独り言のようなボリュームのその問いは、俺が知らないなと考えている間に解決したらしい。こういう時は返答しようがしまいがあまり意味が無い。俺の声なんて聞いていないことのほうが多いのだから。

「てかガラスの靴って歩けんのかな」

 他に誰もいないレコーディングスタジオのラウンジに流鬼の声が広がっては消える。小休憩を取っている俺の目の前で引き続き呟いている彼の話を俺はきちっと答えるでもなくふわっと考えてみるだけ。ギターを爪弾いてフレーズの確認をして、テーブルを挟んだ向かい側のソファーでぐるぐる座ったり転がったり忙しく波打つ彼を眺めている。あちらの島は大変そう。こちらの島は穏やかだ。

「……なんで靴なんだろ」

 聞かれているとは思いもせずそんな疑問を口にしたら、なんとすぐに向かいの島から応答があった。

「アイデンティティーの象徴」

 まあ解釈の仕方は色々あるんだけど。そう言って語り始める彼の言葉によれば、シンデレラのガラスの靴は彼女のアイデンティティーを表していて、他人が拾ったそれが自分の持っている片方と合致するということは、自己が他人に認められたことを意味するのだそうだ。

「あくまで、まあそういう解釈もあるよって話」

 成る程、俺は弦を弾きながら小さくそう返した。アイデンティティーがどういうものか俺には難しくてよく分からないけれど。血の繋がりのない家族に虐められどこにも居場所が無かった孤独なシンデレラのアイデンティティーが輝くガラスの靴なのだとしたら、彼女の内側はどれほど人の理解を求めていたのだろう。美しくて、壊れやすくて、滑らかな表面はすべてを映すのに硬く決してその身を歪めない。透き通ったそれは、私を見て、と言わんばかりだ。私を見て。そんな悲痛な叫びのようだ。

「でも、なんか、片方があるっていいね」

 俺はちょっと笑った。自分で言っておいて、そのあまりの表現不足に何を言っているんだろうと思ってしまった。

「分かりやすいからってこと?」

 案の定、流鬼に追及される。説明しながら、なんと言えばいいのかしどろもどろな拙い日本語を返す。それを流鬼は対岸で仰向けになり天を見上げてじっと聞いていた。けれど途中から何が言いたかったのか見失って、俺は誤魔化すようにギターに逃げる。それから流鬼は静かになった。凪いだ海が目の前に広がって、暫く沈黙の時間が流れた。

 そしてすっかり引き潮の波打ち際に流木を着岸させるのはやはり、彼だった。

「……見つけてもらわないと意味がないのか」

「……ん?」

 思わず相槌を打ってしまった。ぐる、とこちらを向いた流鬼の目と目が合ってしまって、また俺の指は動きを止める。

「片方持ってるから私です、じゃ駄目なんだよ。相手に見つけてもらわないと意味がない」

「認められたかったから?」

「まあそう。例えばお前が心の中に思い描いた林檎をさ。そっくりそのまま寸分違わず同じものを俺に思い浮かべて欲しいとして、どうしたらいいと思う?」

「え……めちゃくちゃ説明する、とか? あとは……絵にして見せるとか」

 言いながら俺はそんなこと不可能だと思った。いつだってなんだって心の中のものは曖昧だ。どれだけ明確な形があったって、それを伝えるために言葉にすれば忽ち本来の形を失ってしまう。どれだけ緻密に表現したって、意図した通りに伝わるかというと絶対ではない。それは目に見える物、触れる物に形成したとしても同じだ。製作者でさえ、その手で創造したものが思惑通りの意味を持ち得ることは賭けでしかない。ではどうしよう。さてどうしよう。

「そんで俺がお前のと同じものを思い浮かべたよって口で言ったところで、お前はそれを信じられる?」

 俺は流鬼が何を言っているのかさっぱりわからなくて頭を抱える。どういうことだろう、何が言いたいのだろうと考えていると、どうしてこんなに悩んでいるんだっけ、に至る思考の彷徨いっぷりが酷い。

「じゃあさ、」

 見かねたらしい流鬼の、対岸からの助け舟が岸に着いた。

「お前が『いま醤油ほしいなぁ』って思ってた時に、何も言ってないのに俺が手渡して来たら、嬉しい?」

「……んん、まあ、嬉しいけど……え?」

「そういうことだよ」

「え?! どういうこと?!」

 余計に混乱した俺を笑って、流鬼はソファーから立ち上がるとすたすたとラウンジを出て行った。全然分からないまま話が終わってしまったことに不完全燃焼感を得ながら、今のこのやりきれない気持ちをギターで表現してみようかと出鱈目に弦を抑える。意味の分からない曲が生まれそうな不協和音が響いた。それにしても、今日の流鬼は忙しかったな。ソファーの上でぐるぐるじたばた、話題もまた次から次へと変わっていって。けれど俺の返答なんか求めてないかと思っていたのに、彼の反応はやけに早かった。いつもなら会話にならないことのほうが多いというのに。そもそも、歌詞を書くなら自宅作業の筈だ。スタジオに来なければならない確認作業も今日は無い。それで最初は気分転換でもしに来たのかと思ったのだった。

(……ん?)

 俺の思考が結論に達しかけた時、流鬼が戻ってきた。入れ違いに俺はトイレに立った。ギターをソファーに置いて、のろのろ行って戻ってくるその間に俺は一つの仮説を立てる。確証はないがもしかして、くらいの、根拠もあまりきちんとしていない仮説だ。けれどああやっぱり、きっとそういうことだ。そんな風に自分の仮説を裏付けたのは、ラウンジに戻ってきて目に入った光景。流鬼は俺のギターを抱いてソファーに座っていた。こっちの島の波打ち際に。はっとした俺の口から、思わず言葉が滑り出た。

「もしかしてるーさん、ずっと靴投げてた?」

「え?! どういうこと?!」

 流鬼はびっくりしたみたいに勢いよく振り向いた。

 ええと、なんて言えばいいのか難しい。でも多分、俺の手には流鬼の靴の片方がある。それを確かめようと、俺は流鬼の隣に座った。やっぱり片方があるっていいな。預けられる幸せというやつだ。





(2020.11.10//硝子の靴のカタルシス)

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オールドフィルム

※LUCY捏造
※モブ目線



 ハロウィーンの夜に相応しい、不思議な話をしよう。

 僕が子供の頃過ごしたとある小さな村の端に、子供たちは立ち入りを禁じられ、大人でさえ寄り付かない山があった。その山奥には誰が建てたのか分からない掘っ立て小屋が建っていて、持ち主だった身寄りのない老女が亡くなってしまってからというもの、恐らく村の人間で小屋の存在を知る者は僕を除いて誰もいなかった。だいぶボロボロだったから、もう無いかも知れないな。もしかすると村さえもう無いかも知れない。そんなような昔の話だ。前持ち主の老女からは、死ぬ前に遺言として小屋の維持とそれに付随する幾つかのことを必ず欠かさず行うように頼まれていた。同時に誰にも言わないように、そして自分がこの村を去る時には必ず誰か口の堅い人間に後を頼むようにとも言われた。両親のいない僕は十歳の時この老女に村外れにある孤児院から引き取られ、ちょうど二年共に暮らしたくらいだから、あまりこれと言って思い出もないし育ててもらった恩を感じていたとかもない。捻くれた子供で、根暗で、友達もいなかったし。でも二つ返事で引き受けた。掘っ立て小屋を維持しなければならない理由は、訊かなくても分かった。老女はいつも少し悲しそうな笑顔で「ハロウィーンのお祭の夜には、幽霊様がいらっしゃる」と言っていたから。

 ハロウィーンのお祭、というのは村の風習で一年に一度、七日七晩、中身をくりぬいた瓜の中に蝋燭を灯し、家の前に飾って悪霊や魔物を寄せ付けないようにするというものだ。日没後は蝋燭の入れ替え以外で家から出てはならず、主に昼間が祭の本番として広場に集まり日没後すぐに寝入れるよう大人たちが酒盛りをする。子供は日が沈むと全員、よその家に預けられた。生まれ育った家、ひとつの家に何日も居ると連れ去られるという言い伝えがあり、必ず別の家を一日毎に転々とする。また、子供のいる家は身代わりになるよう必ず家畜の臓物を瓜と共に並べて置いた。僕はといえば、転々としたことは一度も無い。孤児院は村と折り合いが悪かったのか老女に引き取られるまで祭のことすら知らなかったし、老女は「幽霊様は子供を殺さない」とはっきりと言っていたからだ。ハロウィーンの前日にだけ掘っ立て小屋の中の祭壇(と呼べるほどのものでもない木で作られたボロボロの台だが、老女はそれをそう呼んだ)に必ず牛か豚の心臓を置いたが、その理由は「幽霊様に必要なものだから」。そして「もし幽霊様が家のドアを叩いたら、怖がらないで一緒に遊んでおいで」と笑っていた。けれど幽霊様は一度もドアを叩かなかったな。

 老女が死んで、僕が掘っ立て小屋の掃除や維持、ハロウィーンの前日に牛か豚の心臓を置いておくことなんかを引き継ぎ何年か経った或る年、不思議な住人が現れた。それまで幽霊様の存在を信じていなかったから、引き継いだことは一通りやっていたけれどお祭りの間に小屋に行ったことは一度もなかった。けれど祭壇に置いた牛や豚の心臓がいつもハロウィーンが終わって小屋を訪れるとなくなってしまっている不思議を突き止めたくなって、その年はお祭りの初日の夜に小屋を訪れた。そして不思議な二人と出会った。髪の長い修道服の男、サーカスの猛獣使いのような恰好をした男。二人とも人間の姿なのに、人間ではないとなんとなく分かってしまう明らかにおかしい風体だった。まぁ、初めて会った時のことは割愛しよう。なんせ、あまりに恐ろしくて遭遇した瞬間一目散に逃げてしまったから細かいことは覚えていないし、話したいのはそこじゃあないし。

 初対面こそ恐ろしかったものの、きっと二人は老女の言っていた「幽霊様」なんだろうという妙な確信をもった僕は昼夜問わず、一日に何度も、ハロウィーンのあいだ小屋に通った。二人は若干気狂い染みてはいたけれども笑顔でいつも楽しそうに暮らしていて、僕が行くとマズそうな家畜の臓物の料理を振舞ってくれた(マズそうな、で察してもらえるとは思うけれど、一度も食べていない)。どうやら彼らの主食は家畜の臓物で、村から取ってきたり、山の獣を狩ったりするらしい。じゃあ、ハロウィーンの前日に僕が小屋に置くのも食べていたんだね、と僕が言ったら、修道服の男が微笑んだ。

「君のは、あそこ」

 そう言って指差した先が猛獣使いだったので、僕は少し考えてから、ああ、彼が食べたんだな、と思った。

 彼らは一切眠らないらしかった。いつ行っても起きていて、猛獣使いは僕が重すぎて扱えず小屋に放置していたチェーンソーを持って死刑、死刑と喚きながら山の中を走り回っているし、修道服の男は鉈で適当に臓物を調理している。最初の頃、僕は二人に名前を尋ねた。その時は二人とも「忘れてしまった」と答えた。それで僕はそのうち二人をこう呼んだ。シスターと、チェーンキラー。そう呼んでもいいかと言うと、シスターとチェーンキラーはとても嬉しそうに笑った。

「最高に凶悪じゃん!」

「胸糞悪くてとてもいいね」

 彼らの感想は辛辣だったが、喜んでいるのには違いなかった。なぜってそれから二人は互いにそう呼び始めたんだ。けっこう嬉しかったな。

 けれど、楽しい時間は今思えばとても短かった。ハロウィーンのお祭が最終日に近づくに連れ、チェーンキラーは情緒が不安定になっていった。子供のようにきらきらした笑顔ではしゃぎまわっていたのに獣を狩ることもなくなり、頻繁に何かに怯えて辺りを見回したり、シスターにくっついて離れようとしなくなった。そして、最後の日の昼には、とうとう小屋から出て来なくなっていた。僕が小屋に行った時には、小屋の隅で小さくなりいつも被っている大きな帽子を深く被ってじっとしていた。心配になってシスターの顔を見ると、出会った時と同じ笑顔で言った。

「いつも通りだよ」

 その言葉の意味を僕が理解するのはだいぶ後のことになる。

 ハロウィーンの最終日、僕は日没までに家に帰るようにとシスターに小屋から追い出された。夜が明けてしまうまで、絶対に来ては駄目だと。理由は話してくれなかった。僕はその頃まだまだ子供だったし、仲良くなれたことをとても嬉しく思っていたから、少し悲しくて、少し腹が立ってしまった。僕は君たちのことを村中の誰にも秘密にして、毎年献身的なまでに役目を果たしているのに、君たちが僕に何を隠そうというのか。そんな気持ちがあったのだ。僕は不躾に彼らの秘密を知ろうとした。夜遅く、小屋までそっと山道を進んだ。

 いつも聞こえてくる風に揺れる枯葉の音や名前も知らない奇妙な鳥の鳴き声がその時は何一つ聞こえてこなくて、風も無いのに手に持ったランタンの火が消えた。やむなくその場にしゃがみ込んでポケットからマッチを取り出して火をつけようとした時、凄惨な叫び声が闇夜を劈いた。僕は驚いてマッチを落としてしまい、指先から這い上がってくる震えにどっと汗が溢れてきて、凍えたように動けなくなった。小屋の方から聞こえてくる悲鳴はこの世のものとは思えないほど罅割れ、掠れ、刺々しく痛々しくて、何度も何度も何度も何度も闇の中に轟いた。甲高い、かと思えば低い呻き声と啜り泣きが混ざり、助けを求めているような、絶望しているような、何かを心底憎んでいるような。恐怖に震えていた僕はそのうちそれがチェーンキラーの声だと気づき、その途端にここに来たことを後悔した。小屋で何が起きているのか、考えても考えても分からない。何かあったのなら助けなくては。そう思うけれど身体は動かない。凶暴な獣に襲われているのでは? 村の誰かに見つかって、酷い仕打ちを受けているのでは? 想像が心臓の音と共に囃し立ててくるのに、その場でずっと、耳を塞いでも聴こえてくる声に責められ続けた。泣いているようだ。怒っているようだ。痛そうだ、辛そうだ、苦しそうだ、悲しそうだ。誰かの名前を呼んでいるようだ。聞いたことのない名前だ、名前かどうかの確証はない。そういえばシスターの声は聞こえてこない、どうしたのだろう、その場にいるのだろうか、何をしているのだろう、声も出せなくなってしまったのだろうか。チェーンキラーが叫ぶ度に涙が出てくるのを他人事のように感じながら、そんなことを考えていた。

 耳を塞ぎ蹲り、どれくらい経っただろうか。山に静寂が戻り冷えた空気が辺りをひたひた這い回っていて、恐怖だけではない震えが全身を支配してがちがちに固まった背中をそっと撫でられて顔を上げた。そこにはいつもの笑顔のシスターがいた。

「怖かったね。もう終わったから」

 シスターに抱えられて小屋に行った。小屋のそばには今まで一度も見たことがなかった焚き火が燃えていて、どこにもチェーンキラーの姿はなかった。僕は小屋の床に下ろされ、ぼろぼろの毛布を掛けられた。ところどころ黒ずんだ染みが深く古くて、肌触りは硬くざらざらとしているし、破れていたり継ぎ接ぎがあったり、兎に角最悪だったのにこの上なく温かくて思わず両手で抱き込んだ。暫くしてシスターは温かいスープを持ってきた。割れて欠けている汚いマグカップの中のスープは、初めて出てきた僕の食べられる物だった。飲み干す頃にやっと落ち着き、僕は蚊の鳴くような声でシスターに言った。

「チェーンキラーは?」

 僕の問いかけに、シスターは少し言葉を選ぶように間をあけると、優しい声で呟いた。

「眠ったよ」

 それはやはりいつものような笑顔だったのだけれど、蝋燭のゆらゆら揺れる光の中、少しだけ目尻に影を落としていた。

 放心状態で家に帰って数日を過ごし、意を決して小屋を訪れてみるとシスターはもう居なかった。それからの僕はこれといって何も変わらない毎日を過ごした。秘密を守り、思い出したように小屋の掃除にいった。けれどあの夜から毎日考えていたんだ、二人のこと、言葉、行動、そのすべて。考えに考えて、その結果、翌年のハロウィーンのお祭りの前日にはいつものように祭壇に臓物を置いた。チェーンキラーがどうなったのかシスターが何処に行ったのか何も分からなかったし、また小屋に来るなんていう確証はなかったんだけれど。だからハロウィーンのお祭りが終わった後、小屋へ行った時は本当に嬉しかったんだよ。

『また来年』

 祭壇の上に代わりに置かれてあった紙切れの、その言葉が。




 僕がハロウィーンのお祭りの間その小屋に行くことは二度となかったけど、きっと行かないほうがいいんだということは子供ながらに分かってしまった。それに、耳を澄ませばチェーンキラーの楽しそうな笑い声が聞こえてくるんだよ、それだけでハロウィーンの夜は楽しくて今でも大好きだ。

 どうだい、この夜に相応しい話だったでしょう?





(2020.10.31//オールドフィルム)
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グレースケールの谷

 世界から光が消えたらどうするだろう。



「なに見てんの?」

 きょと、とした顔で声を掛けられ、振り向いた先に麗がいて、俺は自分が喫茶店に居たことを思い出した。昼過ぎの時間帯、観葉植物が多い全体的にグリーンとブラウンを基調に整えられた小洒落た店内は年齢層が若い人に人気があるらしい、そこそこ騒がしくて話し声や笑い声が一気に耳に入ってくる。

 天気の良い昼間とはいえ少し肌寒さを感じ始めた十月の初旬、制作作業の合間の息抜きに、二人で出かけることにした。特に何も決めず外に出て適当に街を歩き、ふらっとばかりに店に入った。楽器屋、本屋、服屋、インテリア雑貨に電化製品。さすがに歩き疲れ、喫茶店で一息つこうとちょうどいいところに目に付いたこの店に腰を落ち着けたのだった。

 入口から遠い窓際の席で暫く珈琲を飲みながら足を休め、麗が用足しに立って、ふと窓を見たら気になって注視した景色。完成したばかりの大きな商業施設がある広場の噴水、その石の縁に腰かけている老人。天気が良くて真っ青な空には雲がなく、老人はずっと新聞を広げて動かない。外よりも薄暗い店内からは窓枠の向こう側が切り取られた別世界に見えた。しかし全く動かない老人の様子を見詰めているうち気づけば視点はぼやけ、意識は脳の中にあったらしい。

「もしかして寝てた?」

「寝てねえよ」

 正面のソファーに腰かけた麗に揶揄われて妙に気恥ずかしい気持ちになる。

「そんなことより、思い出したんだけど」

 席を立つ前に話していた内容、など覚えているわけがなかったので、きっと俺が口にした話はそれとは全く関係のないことなんだろう。思い出したとは言ったものの、特にこれといって何か重要であったり特別なことでもない、わざわざ話すようなことではない単なる日常の、くだらない、他愛もない話だ。他愛もない話、というのは、時として自分の重大な秘密と同じくらい話す人を選ぶ。ケースバイケースで色んな感情があるけれど、口に出すことが恐れ多いような、無駄な話に付き合わせるのもなんだかなぁといった感情が先立つ相手には話せない。俺にとってそれがどれほど辛いことであるかは、本当の孤独にならなければ一生分からないことだ。あの老人には、そういう話をする相手がいるだろうか。俺は聞いているのかいないのかよく分からない顔で珈琲を飲んでいる麗に向かって喋り続けながら、そんなことを考える。あの老人には、そんな他愛のない話があるだろうか。誰かに言いたくて仕方ない面白いことや、誰かに聞いてもらいたい辛いことが、あの老人の日常には起こっているのだろうか。

「そんで……」

 思考が込み入ってくると言葉が止まった。先ほどまで自分が何を話していたのかさっぱり分からなくて、あれ、と思わず唇の端に笑いが滲んでくる。

「……寝てる?」

「……起きた」

 おかしそうににやにやと笑う麗の顔が見られず俺は珈琲を啜った。麗につられて肩が震え、笑い声を殺しきれなくて珈琲はなかなか口に入ってこなかった。

 それほど長居するつもりはなかったが、もうすぐ日が落ちるかという時間に店を出た。少しだけ耳障りな鐘の音の鳴るドアを開け、外気を鼻からゆっくり吸い込む。もう少しで空は色を変え、夕暮れを過ぎたら藍色になる。こうして外を歩き半日も過ごすと、つい先日まで気にもしていなかった昼間の時間帯の短かさに気づき、もう夏も終わるのが分かる。厳密にどこまでが夏でどこからが秋かは知らないけれど、空気の匂いは明らかに夏から秋のそれになっているように感じられた。

「ついでに晩飯食べて帰る?」

 後ろから遅れて出てきた麗に訊ねると、「うーん……え、何食いたい?」とスマートフォンの画面を見ながら訊ね返された。食べて帰るかどうかを訊いたのに何が食べたいのか訊いてくるのは会話の流れがおかしいだろ、そう思うことは今更もう殆ど無い。慣れたもので、何の引っ掛かりも覚えず「特にない」などと返してしまう。そんな日常はまるで寄せては引いていく波のようだ。波打ち際に立って、足元の砂が攫われていって、踵や爪先が徐々に呑み込まれていくあれと同じ擽ったさと心地の良さを感じる。ぎらぎらに尖ったガラスの破片が丸くなるまで波に撫でられたように、些細な取っ掛かりが滑らかな平地になるまで寄せては返す時間を過ごした。それはお前にとって何だろうか。気にも留めない日常だろうか。

「なんでもいいじゃん」

 決めあぐねてその場に根を生やしかねない麗の袖を引っ張って、人の妨げにならないよう喫茶店の入り口から退かせた。じゃあ色々見て決めるか、とやっとスマートフォンから目を離すと、今度は大型商業施設のほうを見てカメラモードを起動し始める。

「え? 撮る? 要る?」

「いやあ、なんか良いなって」

 確かに出来たばかりで綺麗だし随所に拘りの窺える近代的なデザインとはいえ、海外でもあるまいし、撮るほどのものには思えなくて首を傾げてしまう。

「ちょっとるーさんそこ立ってよ」

「やだよ」

「被写体が欲しい」

「自分が写れよ、インカメラで」

 日が落ち始めたオレンジ色の光の中、画面の中の建物にピントを合わせながら麗は、それはなんだかなぁ、と笑った。今この瞬間、麗が俺から目を離した隙に、俺が足音も立てず建物の陰に身を隠して突然いなくなってしまったら麗は一体どうするだろうか。そして麗が、俺が目を離した隙に姿を消してどこにもいなくなってしまったら、俺はどうするだろうか。絶対にしないが、想像は容易い。光の届かない深い深い谷がいつでも俺たちの歩く道のすぐ傍にはあって、いつか前触れもなくそこへ落ちていくなんていうことは起こり得る。一人で落ちていくのならそのとき俺は、どうでもいいような話をした些細な今日の色彩豊かなことばかり、鮮明に思い出したりするんだろう。

 やっと歩き出した麗の隣を歩きながら、通り過ぎざま噴水に目を遣った。老人はもういなくなっていた。





(2020.10.14//グレースケールの谷)

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ぎりぎり

「晩飯なに」

 ミーティングの帰り道、駐車場からマンションの部屋まで歩いていて、エレベーターのボタンを押しながら流鬼が訊ねてきた。声は落ち着いていて、階数表示を見上げている横顔は穏やかだ。機嫌が良いわけじゃないが悪くもない、喜怒哀楽でいうところの、楽。かな? 俺の目にはそう見えるけれど、本心はどうだろう。なんであれ、二人で居るとよく見るその表情が俺は好きだと思う。

 逆に何がいい? そう問いかけると「逆に、って」と小さく笑って、唇がふわっと弧を描き目元が少し柔らかくなる。好きだなあ、俺はじっと流鬼の横顔を見ている、にやついた顔で。鏡で見たわけじゃないが、流鬼が横に居るとそれだけで頬が緩くなる自分を知っているから、わざわざ確認しなくてもそうだろう。

「えー……分かんない」

 分かんないのかよ、そんなやり取りをしながら、開いたドアから出てきた宅配便の人を躱してエレベーターに乗った。俺がボタンを押す前に、流鬼はさっさと階数ボタンを押してしまう。当然のように。何度も来ているから当然なんだけど。そんなことでまたふわふわ、足元から嬉しい気持ちが湧き上がってくる。他にはほら、エレベーターが到着するとまるで自分の家のようにすたすた迷いなく歩いていく後ろ姿だとか。最近よく履いているスニーカー、手に提げたコンビニの袋、ポケットに入っている財布、肩にかかっているトートバッグ、半袖シャツから伸びる日焼けのない腕、少し伸びた襟足、たまに覗く揺れるピアス、自分でデザインした黒のキャップ。恐らく遠くから見てもすぐ流鬼だと分かる。数歩後ろから眺めるその姿が、もう何度もここで目にしたたくさんの記憶と重なる。ごくごく薄い一枚の絵が幾重にもなることで立体感を持つように、上書きを繰り返し折り重なったことで細部まで再現された精巧で肉感すらあるリアルな映像が俺の中に出来上がる。

「夏なのに鍋、とかな」

 ずっと晩飯について一人で喋っている流鬼の口から笑い交じりにそんな言葉が零れている。その背に、夏だからこそ鍋、と返すと、「夏といえば、鍋」と言葉遊びを楽しみながら、俺の部屋の手前で立ち止まる。俺は楽しそうな流鬼を追い越して部屋の鍵を開けた。当たり前に行われる、もう何度も繰り返してきた一連の流れ。

 中に入るとすぐ荷物を置いて洗面所、暫くして出てくると冷蔵庫とソファーのあるリビングを行ったり来たりして忙しなく、そのうち静かになったと思ったらソファーに座ってスマートフォンを弄っている。俺は晩飯について考えながら、そんなふうにばたばたしている流鬼の様子に若干気を取られつつ手洗いを済ませ、取り敢えずキッチンで米を研ぎ始める。

「あ、そうだ忘れてたわ」

 放っておいても一人で喋っているが、突然思い出したように無言になる。大体、俺が全く聞いていないことに気づいた時か、仕事をしている時。キッチンから目だけリビングに向けると、トートバッグからノートパソコンを取り出してどうやらやり残した仕事を始めたらしい。ソファーの上で膝にノートパソコンを乗せ、スマートフォンを耳に当てて通話をしながらの確認作業。電話を切ったかと思ったら目は画面に釘付けになって、考え込んだり何かしきりに弄ったり。指先がキーボードの上を滑る、真剣な瞳に液晶の光が映り込む、脚が痺れてくると体勢を変え、たまに画面から目を離して思考する。

 やり始めると声をかけても止まらないから、晩飯の用意が済んで、食べようと言っても唸りながら先に食べといてと言われて、まぁいつものことだ。やっと作業から離れた流鬼が食べ終わるまで晩酌しながら付き合って、テレビを見て笑って、くだらない話で大爆笑したりして。笑った時に見える綺麗な歯が、口角の上がり方が、細められた目が、何度も見たくてくだらないことを言う。外から内へ入り、仕事から離れ、時が過ぎるごとに全身が無防備になっていくのが分かる。目で追うのが大変なくらい。それはそれは鮮明な、触れたくなるほどリアルな映像。

 なんだろうな。知り合って今まで長い時を一緒に過ごしてきて、よく知っている面もあれば、まだまだ知らない面も勿論ある。時が経つにつれて変化した部分、変わらない部分、新しく増えていくもの、どんどん減っていくもの。特に、疑問を感じることが減ってきたかも知れない。俺の中に流鬼はきっとこうだという固定概念がそれなりに出来上がってしまっていて、良くも悪くもそれが作用するんだと思うんだ。ほんのたまに生じる疑問が、目から入ってきて脳に染み渡ると途端に胸が詰まって息苦しくて、喉から何かどす黒いものが出そうになる。別に誰が悪いというわけではない。流鬼を責めることでもない。ただ、知らない、と口にするたび、視神経がちぎれそうなぐらいの奇妙な不快感で目を固く閉じたくなるし、どうして、なんで、と思うたび身体の内部が重たくなっていく。何度も言うが、別に誰が悪いというわけでもないんだ。それがまたいけない。逃げ場のない密閉された体内で膨れ上がる靄はどれだけ息を吐いても出てゆかず、息を吸うごとに体積を増し、そのうち喉からするする滑り出ていって取り返しのつかないことを口に出しそうになる。何度も何度も唾を飲み下して封じ込めに徹するけれど、息苦しさに喉は開こうとするしせり上がってくる衝動はやり過ごせない。そのうち咥内はからからに渇いて、そうなってしまうともう、首を絞めるしかない。自分で自分の首を絞め、息を止める。それでぎりぎり、保とうとする。眩暈のなかで自問を繰り返す。両脚は地についているか? 心臓は動いているか? まだ、人の形を保てているか。

 不思議とそんな時のほうが流鬼の話を聞いている。映像はノイズだらけで拉げているけれど音声だけが嫌に鮮明だ。





「あの店また行きたいんだよなぁ」

「なに?」

「あれ、お前と行ったんじゃなかった? ほら、中目の、すっげえ美味い肉の」

「中目黒なんか流鬼と行った覚えないけど」

「お前じゃないっけ……まあいいや、兎に角めっちゃ美味かったんだよ」

「へえ」

「今度行こうぜ」

「うん」





 あー、吐きそうだ。



(2020.08.25//きもちわるい)

smells like...

 古い映画の、フィルムが回る音。白黒で、その上に薄い茶のフィルターがかかっていてどこか奥行きのあるノスタルジックな色を想像する。動きはやっぱり滑らかでなく、カクカク動く映像がたまにぶれる。外国の草原だが、麦畑だか、何だか知らないけど、草の動きで風が吹いているのが分かる映像に、無理やり繋げたようなカットで映り込む人物。そうだな、少年かな、勿論外国の。ハンチング帽に開襟シャツ、サスペンダーに膝上丈のズボン。決して笑顔ではなく、表情豊かでもない。けれど膨らみのある頬は健康さを思わせ、長い睫毛に囲まれた色素の薄い目は力強く輝く未来を見ている。纏めると、ノスタルジックで雄大な爽やかさの中に一滴の力強い生命力。

「……全然わかんねえ」

「だろうね、言ってる俺が分かんない」

 なんでこんな話になったんだっけ。えっと、風呂上りにテレビを見ていて香水とかアロマの話になって、匂いを言葉で表現して説明するって難しいな、という会話の流れからこんな遊び感覚でわけの分からない品評会みたいのが始まったんだっけ。麗は家中にある匂いのするものを集めてきて、これは、こっちは、じゃあこれは、と代わる代わる俺に嗅がせて感想を求めるので、だんだんと何を言ってるのか自分でも謎な表現になってきていた。

「えっとじゃあ次は俺の香水」

「えっヤダあの金融屋みたいなやつでしょ?」

 そろそろ鼻がおかしくなりそうだ。ルームフレグランスやアロマディフューザーなんかは俺も好きな匂いだったりしてまだ良かったが、そのうち柔軟剤や入浴剤、シャンプーやトリートメント、歯磨き粉に食器用洗剤などなんでもかんでも嗅がされすぎて、既にだいぶ匂いに酔って気持ちが悪い。そこに眩暈がしそうなこいつの香水なんか身体に入れたら吐いてしまいそうだ。

「ちゃんとなんか、こう、なんとかして」

「もういいって。金融屋以外うまい言い方ないって」

「その言葉を使わずになんか、こう、どうにか」

 最初は言葉遊びみたいで面白かった。だけど笑ったり成る程ななんて納得したりしつつも何か、欲しいものと違ったみたいな顔をされ続け、ここまでくると辟易してくる。何がそんなに欲しいのか、まあこいつのことだからなんとなく分かってはいるのだが、口にしたくなくて面倒だ。けれどどれだけ嫌がってもしつこくぐいぐい目の前に翳してくるので、これで最後だからと念を押して仕方なく手に取った。

「げえ、うわ、もうほら蓋開けただけでうわ、もう金融屋」

「ええ〜、もっと他に無いの」

 鼻を近づけすんすんと何度か嗅いでみた。頭の中に浮かぶのは、ギラついた、いやらしい、それっぽい、気持ち悪い、金色の腕時計、ジェルで固められた髪、派手なスーツ、浅黒い肌と悪趣味なネクタイ。あと、散弾銃で撃たれたみたいな穴のあいた靴。困惑気味にちらりと隣にいる麗の顔を見たら、俺の顔をじっと見て言葉を待っている。引き結ばれた唇が命を懸けた賭けでもしているようで、唾の飲み下す音さえ聞こえてきそうな気がする。

「……お前」

「……なに?」

 分かっているのか分かっていないのか、変な顔で俺を見ている。気分が悪くて仕方が無い。吐きそうで堪らない。

「お前、香水つけんのやめたら?」

「え〜」

 でた、今欲しいのはそれじゃない、みたいな顔だ。ニヤついているくせにちょっと不満そうな目をしていて、腹が立つ。

「あーもう終わり! 気持ち悪い」

 残念そうに声を上げつつも、もう俺が一切の興味を失くしてソファから立ち上がったから、渋々集めてきたものを元の場所に戻し始めた。よくもまあそれだけ集めたな、という量を行ったり来たり戻しているのを尻目に、大袈裟でなく匂いに酔って気持ちの悪かった俺は外の空気を吸いにバルコニーへ出た。

 日も落ちてからだいぶ経つ深夜、今日は風があって湿気もあまり気にならない。外気を思いっきり吸い込むと、先程まで嗅いでいたどれとも違う、自然だったり人工的だったり、他人行儀なのに親しみもあるような、新鮮なようで懐かしい複雑だけど爽やかな匂いがした。改めて難しいなと思う。要するに、ちょっと爽やかな他人の家の匂い、という感じだ。そんなことを考えながら、持ってきたペットボトルの水を飲む。風呂上がりに冷蔵庫から出したので今はもう常温に近い。ずっと喋っていたから、喉を流れていくのが心地良い。深く息を吸い込んで、ゆっくり吐くのを繰り返していたらそのうち気分の悪さも和らいだ。

「湯冷めしない?」

 片付け終えたらしい麗が自分もサンダルをつっかけて外に出てきた。俺が開けっ放しにしていた窓を律儀に閉め、隣に立って、あの家のカーテンいつもちょっとだけ開いてて目に入るたび怖い、とかなんとか景色を指差して語り始める。最初は特に感想も無く聞いていたが、電信柱の話になった辺りで飽きてきた。この話まだ続くのかな。湯冷めするわ。

「うっさん、あったかいお茶いれて」

「え、お茶?」

「それ飲んでから寝る」

 まだノンカフェインの残ってたな、と一人でぶつぶつ言いながら麗が凭れていた手すりから離れ窓を開けると、室内から微かに流れてきた空気が鼻腔を掠めた。驚いて息を止めた。外に居ながら嗅ぐとこんなにも分かるのかと、中に居るともう分からなくなっていたことに。欲しがられていた言葉が頭の中に大きく浮かんだことに。驚くほどむしゃくしゃした。いや、どうせならどうにか別の言い回しで表現してみようとして、暫く考えて、いい言葉が出て来なくて参った。

「……」

 やっぱりなんでもいいから、香水はつけといてもらおう。




(2020.07.29//smells like...)

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ワールドエンドシネマ

(LUCY)



 そのとき胸を占めている感情はたった一つだろうと思っていた。



ワールドエンドシネマ




 蝉の声が妙に大きく聞こえていた。薄暗い部屋で天井を見上げている。薄暗いのは照明が消えているからでなくて、目の前が半透明のグレーがかった膜で覆われているからだ。実際、照明はついていた。恐らくずっとついている。ゆらゆら揺れる蝋燭の炎が微かに視界の端にある。まあ、なにせ消した覚えがないのだから、消えている筈がない。つけた覚えもないが。半透明の膜は薄くも分厚くもなく、柔らかそうな質感にもどこか硝子くらい張りつめているようにも見えた。触ったわけではない。全身の神経系が機能していないらしく、指一本動かせないどころか全身の触覚がない。そもそも首から下の身体があるのかどうかすら分からない。ただ見えているだけ、聞こえているだけ。視覚と聴覚だけはあるらしいので、目と耳だけの生き物になったような感覚だ。ふと、今まさに思い至ったが、どうやら呼吸はしているらしい。なんせ息を吸う、吐くという行為自体を意識してできる。そして嗅覚もある。何か嫌なにおいが充満している。ただ肺が膨らんでいるとか、酸素を体内に取り込んでいるような感覚は無くて、もしかすると「呼吸をしている」のではなく、何かを吸っているような、吐いているような気分になっているだけかも知れない。だから、嗅覚も匂いがする気がしているだけなのかも知れない。とすると、ずっと耳殻に響いている蝉の声も目の前の視界また、そうだろうか。そんなことを考えているのだから一応脳は物事を考えられる程度にはきちんと働いているらしい。だから膜に覆われている視覚を、蝉の声に殆ど埋め尽くされた聴覚を、あまり意味があるように思えない嗅覚をめいっぱい使い、今の状況を理解しようと努めた。けれどどうにも儘ならない。ああ、思えばずっと、何もかも儘ならなかった。

 思い出した。そういえば一緒に砂利道を歩いたことがあった。どこか目的地があったわけでなく、決して近くないが遠くもない場所へ行くため。それは確か、何か重要なことがあって。そうだ、誰かを探していたのだと思う。今のように蝉の声がうるさくて、すぐに汗ばむほどの熱気が立ち昇っていて、日差しは容赦なく皮膚を焼いた。空は高いくせに近く思えるくらい白い雲が大きかった。風なんかそよとも吹かなくて、じわじわ噴き出る汗は肌を滑って、空気さえ全身に纏わりついているように感じられた。蝉の声ばかりが思い出されて、連れ立って歩いたというのに会話がこれっぽっちも思い出せない。何も話さなかったのかも知れない。大切な人だったと記憶しているのに顔も思い出せない。多分、あまりに蝉がうるさくて、あまりに日差しが痛くて堪らなかったんだ。そんなことばかり明確に覚えているのだから。そのうち耐え切れず歩くのも億劫になってきて、それで確か陰へと言って、木陰のほうへと進んでいるうち暗い暗い砂利道に入ったのだったか。砂利道の先は多分、歩いているうちに目的地になっていて、暫くそこに居たと思う。靄がかかったようではっきりと思い出せないけれど、多分かなりの時間をそこで過ごした。気づいたら来た道を一人で戻っていたのだが、その頃には日が暮れていて、暑さはすっかりなくなっていたのだから。季節が変わっていたのだと思う。雨が降っていて、そこらじゅうに蔓延った湿気がとても不快だったし、足元からは冷ややかな空気が伝わってきて、身体を芯から凍えさせた。来た道を引き返していたのに元居た場所に帰ろうとしていたわけではなく、しかし目的地はあった。そしてその時にはもう探していた人はどこにも居ないことが分かっていた。悲しい、哀しいと、胸を痛めながら歩いていた。なぜだろう。理由があったような、なかったような。まあいいか。

 いつの間にか蝉の声が止んでいる。目の前は真っ暗で、あの半透明の膜はどうやらもう無い。夜になったのだろうかと漠然と考えた。けれどどうやら先ほどまで居た場所と違うらしい。匂いも柔らかいような、心地いいような、そうだあの砂利道の場所のような匂いがしている。そのうち、うとうと、瞼が重たくなってきた。睡眠欲があることに驚いたが、もしかすると数時間前にもこうやって眠ったのかも知れない。こうなった覚えがないのに、ずっとこうでいたという気もしないからだ。ということは、つまり、……つまりは、………………だめだ、瞼がどうにも重たくて、脳の働きも呼応して鈍くなっている。思考が溶けていくのを感じ、抗うのを止めて目を瞑った。すぐにぷつんと糸は切れた。

 どれくらいか経って、瞼が開いた。目の前は依然真っ暗だったけれど、窮屈さを感じて気づいた。手がある。胴があって、足があって、触覚がある。ついでに言えば身体が横になっていることも自覚できた。狭く、堅い箱の中だろうか。微かに木の匂いがした。それに土の匂いもする。目を瞑る前の、砂利道の記憶と同じ匂いだ。そう思ったら、あれは砂利道ではなく、正確には山道だったということを思い出した。足元は土と砂利だったけれど、あの日は確か、大切な人と連れ立って山へ入ったのだった。何故か、そして誰かをこのまま思い出せそうな気がして必死に脳を探った。しかし、人影らしき映像がはっきりと形を成す前にこめかみの辺りにドンと鈍い、貫かれるような痛みが走り、意識は霧散した。何度やってもそうなった。そのうち、「まあいいか」と呟いた。

 驚いた。声が出た。喉が渇いているのか、酷く罅割れていたが声が出た。目を瞑る前とは明らかに違う状態に、期待で胸が騒ぎ始めた。そうだ、動かそうと思えば動かせるのではないか。思い至って、必死に指先を動かそうと力を込めた。腕を持ち上げ、上体を起こそうと、狭く暗いここから出ようともがいた。初め、身体はぎこちなく痙攣するだけだったが、動け動けと信号を送っているうち動きが滑らかになっていった。ただ、力はまだあまり入らないらしい、自分の身体を、自分の居る場所を探るのに動かすだけで精一杯だった。目の前には板らしきものがあって、どうやら狭い四角い箱の中に居る。背中がぴったりくっついているから、世界の重力関係が変わっていなければ仰向けに寝転んだ状態だ。身体に力さえ入ればここから出られるかも知れないと、それから只管身体を動かす練習を始めた。けれど、いつまで経っても出られそうになかった。不思議なことにそれから眠気は一度も来なかった。長い長い静寂が続き始めたのだ。昼夜の感覚もなく、耳に届いてくるのは自分の呼吸や身じろいだ音だけの狭い空間で、気が狂いそうなほど長い時間を過ごした。

 そのうち瞼を閉じているようになった。開けていても希望が無いのは辛かったから。そうすると妙に心が落ち着いた。木や土の匂いもまた優しい気持ちになれた。そうやっていると、もうこのままずっとこうしているほうが良い気がしてきていた。思えばずっと、何もかも儘ならなかった。こんな風に静かに時を過ごしたことは、僅かしかない気がするのだ。ただ、こうしていたかった。大切な人とじっと目を瞑って、静寂に耳を傾けるような時を過ごしていたかった。奪われたような、仕方のないことだったような。うまく思い出せないが、今こうしていることはずっと望んでいたことのように思えた。大切な人が誰だったのか、思い出そうとすると相変わらずこめかみが激しく痛んだから、もう思い出すことも止めた。今の自分には必要が無いと強く感じられたからかも知れない。そうしていたら、少しずつ、ひとりきりでこうしていることに罪悪感が芽生えてきた。孤独感ではなく、罪悪感だった。その罪悪感は原因も定かでないのにむくむくと膨れ上がって、どんどんと思考を埋め尽くしていって、どうにもしようがなくなって、誰かも分からない人に向けた謝罪を呟くことにした。何度も何度も呟いた。聞いているのは自分だけの、意味のない謝罪を繰り返した。意味がないのに、指折り数えた。数えることで罪悪感を薄めたかった。そのうち分からなくなって何度も同じ数字のあいだを行ったり来たりしたけれど、構わなかった。罅割れた声は掠れ、意味がないばかりか言葉にもならなくなった空気の音がするだけの喉で、微かな吐息を吐き出していたある時。本当に突然、全身を風が吹き抜けた。

「あーれ? まだ寝てる?」

 耳にきん、と静寂を叩き割るような声が響いて、眉を顰めながらゆっくりと目を開けた。そこには、見渡す限りの満天の星空があった。

「なんだぁ、起きてんじゃん」

 その声と共に、視界にひょこっと顔が飛び出してきた。驚き、何度か瞬いて、焦点が合いその顔をしっかりと捉えた時、じく、と何故だか胸が痛んだ。

「おはよお」

 そして、屈託のない笑顔が広がった。その笑顔を見て涙が出た。よく分からない。ただ、失望と、絶望と、希望と、愛を、一緒くたにしてぎゅっと詰め込んだような、そんな感情で心臓がどくんどくんと音を立てて動き始めたのだけは、はっきりと分かった。次には嬉しさと、哀しさと、申し訳なさと、心苦しさが込み上げてきて、ぎこちない身体をなんとか動かし身体を起こして笑いかけた。

「はじめまして。君は誰?」

 きちんと声になっていなかったのか、目の前の人は首を傾げて困惑したあと、俺に笑いかけた。満面の笑みが目から溢れ出す涙で揺れて、無性に抱き締めたくて堪らなかった。



(2020.07.22//ワールドエンドシネマ)

独立の日

 親に勘当されて一世一代の大博打のつもりで家を出た。その時付き合っていた女の家に言われるまま転がり込んで、一緒に住み始めると途端に重たくなる女が多くて何度か転々として。けれど結局、県すら跨いでいない場所に今も留まっている。そんなことを漠然と考えていたらとても遠くに来たわけでもないくせに早々とどこへ行っても無駄な気がしてきてしまって、さっさと手軽に挫折感なんか味わった。どこへ行っても真新しい気持ちになんかなれやしないと悟って、いや、もともと分かっていたことだったなどと嘯いてみる自己防衛が、我ながら痛々し過ぎて救いようがない。全部自分で選んできたことだと、自業自得だと、傍から見ればどうしようもない人間だなと言われて終了する人生だ。生まれる家が選べたら、脳味噌の出来が人より優れていたら、出会う人が選べたら、人生の分岐でリセットできたら。間違えない悔いのない順風満帆で華々しく幸せな人生が送れたのだろうか。でも駄目だ。選択肢の数は生まれながらに決まっていると思うのだ。自分には二択しかなくても、三択四択ある人間もいる。それでいえば自分よりもっと選択肢のない人間もいる。頭が良くて、見目が良くて、周囲に恵まれていたとしても、何か一つに恵まれなかっただけで選択肢がたった一つの人生になることだってある。そう考えれば自分はまだ見知らぬ誰かよりは幸せなのかも知れない。そういう思考になったからといって、だからなんだ? 今の現状を今までの人生を喜べるのか愛せるのか幸せだと思えるのかは、俺の勝手だ。だから世界が止まって見えるのも、俺の勝手。

「なんで公園?」

 今の俺の精神状態にそぐわない暢気な声に顔を上げたら、麗が目の前に立っていた。へらへらした顔で携帯電話を片手に俺を見下ろして。眉毛が無いのは今日のライブでメイク前に全剃りしたから。瞼がいつもよりいっそう重たそうなのは今が深夜だから。地元のヤンキーも着なさそうな裾もほつれ首回りも伸びきっているスウェット姿にサンダルなのは、多分俺が突然呼びつけたから。

「……寝てた?」

「そりゃあね」

「なんだよ、いつもはゲームしてんだろ」

「打ち上げで酒飲んだし」

 欠伸をしながら目を擦るから、申し訳ないことをした気になった。それで(ああ、やっぱり俺ちょっと落ち込んでんな)って気分が沈んでいることを認める。取り繕うようにベンチ代わりにしているブランコを前後に揺すった。

「なんかここ、来たことないのに見覚えあるなぁって」

 そう言う俺を見て携帯電話をポケットにしまうと、麗は隣のブランコに座った。

「ここ俺ん家の真裏だよ」

 そりゃ見覚えあるでしょ、なんて笑ってすいすいブランコを漕ぎ始める。俺は話の腰を折られたような気分でブランコを止めた。

「……でも来たことないし」

「え、初めて俺ん家来た時ここで待ち合わせたじゃん」

「ちげぇよそれ別の公園でしょ? もっとむこうの」

「いやここだよ、むこうの公園で待ち合わせてたのに流鬼が間違えてこっちの公園に着いちゃって、俺がれいたと迎えに来て」

「逆だって、ここで待ち合わせてたけどむこうの公園で会ったんだって」

「いやここだよ」

「絶対ここじゃない」

「あーまあいいや、そんなことより」

 途中からなんとなく麗のほうが正しいような気がしたが、前述の思考も相俟って認めるのが恥ずかしくて意地でも譲らないでいたら、麗はブランコから降りた。

「取り敢えず俺ん家行こ」

 取り敢えず、と言われて、そう取り敢えず、と自分に言い訳でもするように頭の中で繰り返す。何の用だと問われたらなんと答えようか、なんて一応考えていたのに、麗はそれ以上何にも聞いてはこなかった。もしかすると、もう何度目か知れない俺の「逃亡」に勘付いたのかも知れない。ブランコの足元には大きなボストンバッグを置いていたから。

 他人の実家に深夜に上がり込んで一体何がしたいのだろうかと、誰にも責められないと逆に自分のしていることが自分で嫌になってくる。できればもっと「こんな時間に困る」とか、「一体どうしたの」とか、問い詰められて責められたかった。逃げたいというだけの衝動で出てきた以上、何を聞かれても何も言えない。だからこそ、馬鹿だなと他人に言われて納得したかった。自分で自分が嫌になることほど惨めなことは無いからだ。けれど、そもそも、逃げたいという衝動の根源がそれである以上、そんなことは今更関係が無い。

(とっくに俺は俺が嫌なんだ)

 だからきっと、俺に執着する人間から逃げたくなるんだろう。狭いベッドで背中合わせに寝転んで数分、くっついた他人の背中の温かさが変に居心地が悪くて、起き上がってベッドを降りる。麗はさっさと眠ってしまったらしい、よっぽど眠たかったのだろう。逡巡の後、結局その辺に脱ぎ捨てられていた麗の上着を手繰り寄せると、その辺に平積みになっていた雑誌を枕にして床に横たわった。背後のベッドからは寝息が聞こえてきていた。




「……曲?」

「そう。作ろうと思って」

 昼過ぎに起きてコンビニまで食べ物を買いに行き、戻って来た時にそう言った。我ながら言い訳がましいなと思いながら。あぁ、だから俺ん家まで来たのかぁ、と独り言のように呟いて壁に掛けてあったギターを取り、麗はコンビニの袋を床に置いてベッドを背に座り直した。俺は俺で何度か来たことのある勝手知ったる麗の部屋を四つん這いで漁り、まだ何も書かれていないぐちゃぐちゃの五線譜を数枚、漫画と漫画の間から引っ張り出す。紙ぐらいきっちり直しとけよ、とぶつぶつ言いながら床に広げて皺を伸ばした。

「なんかいいなぁ」

「何が」

「こうやって一緒に曲作るって」

 またよく分からないことを言い出したな、と俺がそれ以上追求しないから、麗はギターを弾き始める。曲を作るために来た、というのはあながち嘘ではない。実際に昨日のライブが終わったらシングルを出すための作業に取り掛かるという話になっていたのだから、麗も言い訳がましい俺の台詞に納得したのだ。けれど真実そのために来たわけではないから、俺のやる気はどれだけ必死にかき集めてもすぐ散り散りになった。やる気がない時にやってもしょうがない、ということで漫画を読み始める。そうすると麗はゲームをし始める。漫画に飽きるとそれを見たり、一緒にゲームをしたりしていると、簡単に一日が終わる。何もしていないと何かしなきゃという漠然とした不安が押し寄せてくる。だから騒いで時間を潰す。何もしていないのに腹が減ると無駄に生きている気がする。だから考えないことにする。そういう風に過ごしていると、不思議なくらいの安息が俺を包んでいる。たまにれいたが遊びに来て、三人で笑い合って、たまに思い出したようにバイトに出かけて、疲れたら眠って。

 そんな調子で、麗の家に来てから矢のような速さで一週間が過ぎた。そのことに、別れたつもりの女からのメールで気づいた。一瞬で現実に引き戻されたような気になった。時間が巻き戻ったかのように、精神状態が一週間前に戻る。逃げたい、逃げたい、逃げたい。そうやって安息に逃げ込んで、一週間も過ごしたのに。まだ俺は逃げたいのか。けれど、今度はどこに?

 一言だけのメールを返して、携帯電話を閉じた。




「明日出てくわ」

 寝支度をしている時に言った。ベッドに寝転んで携帯電話を弄っていた麗は顔を上げ俺を見て固まった。

「え? 帰れるの?」

 やっぱり女の家から逃げてきたことには気づいていたらしい。元の場所に帰れるのかと問いかけられ、俺は思わず口籠って、要領を得ない返答をする。

「……いや、まあ、宛てがないわけじゃないし」

 じゃあどこに行くのかと言いたげな顔でじっと見上げてくるので、目を逸らさざるを得ない。後ろめたいわけではない。しかしはっきりと正直に別の女の家に行くなどと言うのはどうにも憚られた。ベッドに滑り込んでさっさと背を向けてしまう。床で寝たのなんか最初の日だけで、身体が痛くて仕方が無くて次の日からはずっとこうしてベッドを間借りしていた。狭い、とか、いつまで居るんだよ、なんて冗談みたいに笑って言われて、いつまでも居てやろうかって冗談で返して笑っていた。いつまで居るんだよと言いながら、嬉しそうに見えたから。けれど、だからか。なんだか、ここにきて出て行くというのが後ろめたくなってしまった。麗と居ると楽しくて、それまで悩んでいたことを嘘みたいに無かったことにできた。深いことなんか何も考えなくなって、未来への不安を感じても馬鹿騒ぎをして忘れてしまえた。多分俺は追い詰められないと駄目なんだ。安息に浸かると手も足も動かさなくなって、脳細胞を殺して息をするだけの生き物になってしまうらしい。俺だけが駄目になるならいいが、多分俺は傍にいる人に甘えて巻き込んで落ちぶれていく。

「寝た?」

 暫く静かだった部屋に麗の声が響いた。変にはっきり聞こえてきて思わず目を開けたけれど、すぐに固く瞑った。背後に感じる麗の背中が熱い。

「ずっと居てもいいのに」

 起きていると思って言ったのか、寝ているからこそ言ったのか。どちらにせよ、聞かなかったことにした。ずっとっていつまでだよ、お前ここ実家だろ、それどういう意味で言ってるの。色んな返答が頭に浮かんだけれど何を言っても藪蛇な気がして、掻き消した。まだ一緒には居られないと分かってしまったから。多分俺は、お前とは離れたくないんだろう。

 ここを出たら部屋を借りよう。自分で探して住もう。女の家じゃなく、自分の家に。そうして逃げ場を無くてしまおう。すべては安息を得るために。



(2020.07.16//独立の日)

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