グレースケールの谷

 世界から光が消えたらどうするだろう。



「なに見てんの?」

 きょと、とした顔で声を掛けられ、振り向いた先に麗がいて、俺は自分が喫茶店に居たことを思い出した。昼過ぎの時間帯、観葉植物が多い全体的にグリーンとブラウンを基調に整えられた小洒落た店内は年齢層が若い人に人気があるらしい、そこそこ騒がしくて話し声や笑い声が一気に耳に入ってくる。

 天気の良い昼間とはいえ少し肌寒さを感じ始めた十月の初旬、制作作業の合間の息抜きに、二人で出かけることにした。特に何も決めず外に出て適当に街を歩き、ふらっとばかりに店に入った。楽器屋、本屋、服屋、インテリア雑貨に電化製品。さすがに歩き疲れ、喫茶店で一息つこうとちょうどいいところに目に付いたこの店に腰を落ち着けたのだった。

 入口から遠い窓際の席で暫く珈琲を飲みながら足を休め、麗が用足しに立って、ふと窓を見たら気になって注視した景色。完成したばかりの大きな商業施設がある広場の噴水、その石の縁に腰かけている老人。天気が良くて真っ青な空には雲がなく、老人はずっと新聞を広げて動かない。外よりも薄暗い店内からは窓枠の向こう側が切り取られた別世界に見えた。しかし全く動かない老人の様子を見詰めているうち気づけば視点はぼやけ、意識は脳の中にあったらしい。

「もしかして寝てた?」

「寝てねえよ」

 正面のソファーに腰かけた麗に揶揄われて妙に気恥ずかしい気持ちになる。

「そんなことより、思い出したんだけど」

 席を立つ前に話していた内容、など覚えているわけがなかったので、きっと俺が口にした話はそれとは全く関係のないことなんだろう。思い出したとは言ったものの、特にこれといって何か重要であったり特別なことでもない、わざわざ話すようなことではない単なる日常の、くだらない、他愛もない話だ。他愛もない話、というのは、時として自分の重大な秘密と同じくらい話す人を選ぶ。ケースバイケースで色んな感情があるけれど、口に出すことが恐れ多いような、無駄な話に付き合わせるのもなんだかなぁといった感情が先立つ相手には話せない。俺にとってそれがどれほど辛いことであるかは、本当の孤独にならなければ一生分からないことだ。あの老人には、そういう話をする相手がいるだろうか。俺は聞いているのかいないのかよく分からない顔で珈琲を飲んでいる麗に向かって喋り続けながら、そんなことを考える。あの老人には、そんな他愛のない話があるだろうか。誰かに言いたくて仕方ない面白いことや、誰かに聞いてもらいたい辛いことが、あの老人の日常には起こっているのだろうか。

「そんで……」

 思考が込み入ってくると言葉が止まった。先ほどまで自分が何を話していたのかさっぱり分からなくて、あれ、と思わず唇の端に笑いが滲んでくる。

「……寝てる?」

「……起きた」

 おかしそうににやにやと笑う麗の顔が見られず俺は珈琲を啜った。麗につられて肩が震え、笑い声を殺しきれなくて珈琲はなかなか口に入ってこなかった。

 それほど長居するつもりはなかったが、もうすぐ日が落ちるかという時間に店を出た。少しだけ耳障りな鐘の音の鳴るドアを開け、外気を鼻からゆっくり吸い込む。もう少しで空は色を変え、夕暮れを過ぎたら藍色になる。こうして外を歩き半日も過ごすと、つい先日まで気にもしていなかった昼間の時間帯の短かさに気づき、もう夏も終わるのが分かる。厳密にどこまでが夏でどこからが秋かは知らないけれど、空気の匂いは明らかに夏から秋のそれになっているように感じられた。

「ついでに晩飯食べて帰る?」

 後ろから遅れて出てきた麗に訊ねると、「うーん……え、何食いたい?」とスマートフォンの画面を見ながら訊ね返された。食べて帰るかどうかを訊いたのに何が食べたいのか訊いてくるのは会話の流れがおかしいだろ、そう思うことは今更もう殆ど無い。慣れたもので、何の引っ掛かりも覚えず「特にない」などと返してしまう。そんな日常はまるで寄せては引いていく波のようだ。波打ち際に立って、足元の砂が攫われていって、踵や爪先が徐々に呑み込まれていくあれと同じ擽ったさと心地の良さを感じる。ぎらぎらに尖ったガラスの破片が丸くなるまで波に撫でられたように、些細な取っ掛かりが滑らかな平地になるまで寄せては返す時間を過ごした。それはお前にとって何だろうか。気にも留めない日常だろうか。

「なんでもいいじゃん」

 決めあぐねてその場に根を生やしかねない麗の袖を引っ張って、人の妨げにならないよう喫茶店の入り口から退かせた。じゃあ色々見て決めるか、とやっとスマートフォンから目を離すと、今度は大型商業施設のほうを見てカメラモードを起動し始める。

「え? 撮る? 要る?」

「いやあ、なんか良いなって」

 確かに出来たばかりで綺麗だし随所に拘りの窺える近代的なデザインとはいえ、海外でもあるまいし、撮るほどのものには思えなくて首を傾げてしまう。

「ちょっとるーさんそこ立ってよ」

「やだよ」

「被写体が欲しい」

「自分が写れよ、インカメラで」

 日が落ち始めたオレンジ色の光の中、画面の中の建物にピントを合わせながら麗は、それはなんだかなぁ、と笑った。今この瞬間、麗が俺から目を離した隙に、俺が足音も立てず建物の陰に身を隠して突然いなくなってしまったら麗は一体どうするだろうか。そして麗が、俺が目を離した隙に姿を消してどこにもいなくなってしまったら、俺はどうするだろうか。絶対にしないが、想像は容易い。光の届かない深い深い谷がいつでも俺たちの歩く道のすぐ傍にはあって、いつか前触れもなくそこへ落ちていくなんていうことは起こり得る。一人で落ちていくのならそのとき俺は、どうでもいいような話をした些細な今日の色彩豊かなことばかり、鮮明に思い出したりするんだろう。

 やっと歩き出した麗の隣を歩きながら、通り過ぎざま噴水に目を遣った。老人はもういなくなっていた。





(2020.10.14//グレースケールの谷)

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