脅迫

 ふたりの間には何もないよね。


「数学の補習うっかり寝坊してすっげぇキレられた」

「俺それ現国でやったわ」

「昨日の晩やってたゲームがさぁ」

「お前の言う晩ってもはや朝だしな」

 夏休みに入ってすぐの期末テストの補習授業。行かなければ日数が増えてしまうからと寝坊をしても学校へ行く。受ける生徒がそれほど多くない補習授業は藁半紙にずらっと並んだ問題を全部正解できるようになるまで解き続けるだけ。終われば帰れる。終わらなければ翌日もやる。補習三日目の今日だったが俺も麗も終われる筈がなく、明日も学校へ行くことが決定した午後五時の教室前。どうせ行くなら泊まりに来れば、と麗が言った。まあお前がいいならそうしようかな、って返した。

「夏休みの宿題って」

「え、お前やんの」

「いや、やらないと担任が怖い……」

「ああ……数学ね……」

 一緒にいるとくだらない会話ばかりで感情の起伏があまりない。くだらなさすぎて笑えることはたまにある。でもどちらかといえば無表情で、一言、二言、ぽつぽつ話しているような時間が主だ。どうでもいいことが大半で、どうでもよくないことは基本的に話さない。相手が困ること、狼狽えることをわざわざ口にして喜ぶことも、どうでもいいことだからそうする遊び。どうでもよくないことを話して、どうでもよくないことを聞いて、どうでもいいと思われたりとかどうでもいいと思ったりとか、そんなことを懸念しているのかも知れない。ただ単にどうでもよくないような空気が嫌なだけなのかも知れない。昔とは違う意味で慎重に、けれど不躾に、次に口にする言葉を選んでいる気がした。

「……」

「……」

 会話が途切れれば、互いに自分のことに没頭する時間があって。お決まりというほどでもないがワンパターンでもある流れに任せて身体を繋げる。頭の悪い高校生の欲望に忠実な暇潰しというだけで、だからどうと何があるわけでもない。都会でもない狭い町のそれでも決して小さくはない世界でそこがすべてである筈がないなどと希望を抱きながら、多分、違った景色の日常をいつの日かなどという大層な夢もまた口先だけの慰みだ。望んでいても叶わないし、望まなくても変わりはしない。その証拠に俺もお前もさよならするとき手は振らない。次に会う約束も特に要らない。どうせまた気づいたら隣に居てどうでもいい時間を過ごすことは分かりきった日常だから。それがそんなに悪いことだろうか? それがそんなにくだらないことだろうか? そういう気持ちがあるのも確かだ。

 補習は結局きっちり一週間かかった。

「終わった?」

「おー、三日も泊まって悪かったな。お前は?」

「俺も今日で終わった」

「そっか。じゃ、帰るわ」

「うん」



 そんなことは殆どないけどたまに本気で何もすることが無い時にはやっぱりお前のことを思い出す。連絡先は知っているからその気になれば電話をかける。例えばお前なら何もしなくても、横に居るだけで互いに存在の意義が成立している気がするからだ。そんなことも殆どないけど考えることがなんにもなくなった時なんかにはたまにそんなふうに考えたりもする。俺の存在の意義とお前の存在の意義がなんなのか、考えても分からない。けれど二人でいることに意味はなくていい。それは空を飛んでいるのに手放しで目さえも瞑れる安心感を齎すからだ。

 なのに。

「デートとかしてみる?」

「熱でもあるの?」

「手とか繋いじゃって」

「本気でキモいね」

 お前の冗談まがいの一言、二言が、だんだんだんだん恐ろしくなってきたんだ。聞きたくない言葉がそのうちお前の口から転がり出てきそうで堪らない。背後から忍び寄ってきて振り向きざま切りつけられるかもなんて思えてきてしまったんだ。なんてことはない日常やなんてことのない時間がすべて意味を持ったとき、お前と俺は今以上の未来を想像しなければならなくなって、更に深く考えた結果、気付いてしまう。自分の存在意義があやふやであることに。お前はそれを知っていて、俺はそれが恐ろしくて、だんだんだんだん、一歩先を歩いているお前の背中を祈るように見詰めている。笑うお前の目の奥にある子供の駄々のような願いが、俺から未来を奪おうとしている。
 やめてくれ。奪わないでくれ。探さないでくれ。考えさせないでくれ。意味など与えないでくれ。なんていう、俺の願いもまた子供のような駄々であってお前の未来を奪っていいわけがない。

 ふたりの間には何もないよね?

柘榴

 上手くは言えない、唇の端にこびりついた滓のような心地の悪さ。皮がめくれて血が出ているのが分かった時の舌に鈍く広がる後味の悪さ。そんなことを考えているうちぴったりと嵌る言い回しが思いつけなくて、いよいよ否定できない感情が押し寄せてきていると自覚した。特段なにかされたわけでも言われたわけでもないが、気に入らない、気に入らない、と思ってしまうのは止めようがない。これはどういった心境の変化だろうと、自己の内面を深く削り取ってまじまじ見つめるより先に、それはどういった心の表れかと相手の脳を勘ぐることに終始する。かねてより考えていたことも相俟って、もう自分の意志とはお構いなしに、まるで自分の心ではないみたいに勝手にすべてを仕分けて結論付ける。あとからあとから否定をするが目まぐるしくて追いつけず、一旦すべてを遮断したい、そういうつもりで目を背けた。

「なるほど、しのうか」

 すべてわかったと言いたげな言葉が飛んできて、俺は瞬きするだけの時間を過ごす。一旦すべて遮断した真っ白な目の前に投げて寄越された真っ赤な言葉が虹彩を焼いたから。瞬きをしながら意味があるのかないのかを理解するよりまず、無言の空気だけを凌ぐことにした。

「やだよ」

 それではどうだ、と思案のふりをするのも気に入らないのだ、何を言われても拒絶したい。大体、春の海みたいなその声色が良くない。ずっと目を閉じていたくなるのが良くない。身体中の力を抜いてゆったりと横たわりたくなるのが良くない。

「いやだ」

 何を言われてもそう返す、だから先にそう言い置く。まっすぐ見つめた目が虚を突かれたみたいいに見開いて、困ったように細められた。言葉に迷っている時の顔が見慣れたそれで、思わず笑いが込み上げる。どうすればいいのか考えているらしいのだ、そのどこかおかしい脳みそで。けれど結局思考など意味がない。彼は手を差し出せば引くのだろうし、爪先を差し出せば触るのだろうし、全部を差し出せば食べるのだろう。そうと分かっていながら目の前にいて、差し出すかに見せかけてぴたりと留まり、何を言われても拒むのに待つ。

(なあ、意味がないよな)

 それでいいから目隠しをして。口を塞いで音を拒んで。指一本動かせなくなるほど全部を奪ってくれたら跡形もなく消してしまえるのになと思う。お前のことなどわかりたくない。お前のことなど考えたくない。だからやっぱり差し出すしかない。

「それじゃあやっぱり、」

 胸の辺りに痛みが走る。痛いようで嬉しい気もして、悲しいようで気持ちが良い。
 そうだなやっぱり、しんじゃいたい。



(2020.04.30//柘榴)

「車の中で隠れてキスをしよう」

「中学行ってみようぜ」

 言い出したのは流鬼だったな。

 夜中、曲作りに煮詰まった流鬼から着信があって車を走らせマンションまで行った。俺も作っていた曲がひと段落したところだったし、小腹が空いていたから気分転換にファミレスでも行こうかと車を出したのだけれど、エントランスから出てきた流鬼は助手席に乗り込むと「いや、なんか適当に走って」と言ったっきり黙り込んだ。適当にと言われてもなあ、なんてブツブツ言いながら、行く当ても特になかったが取り敢えず高速に乗ることにした。走らせるなら、信号のない道のほうが自分としても気分転換になると思ったのだ。高速に乗ってすぐ、流れる案内標識を見て流鬼が興味もなさそうに言った。

「これどこいくの?」

「えーと、神奈川のほうかな」

「ふうん」

 それから何かぽつぽつ喋っていたけど、内容は殆ど他愛もないこと。俺は俺でスピードメーターとルームミラー、それからたまに覗き見る流鬼の横顔に意識を遣っていて、相槌を打てていたのか少し怪しい。はじめはガゼットの曲が流れていたのにいつの間にか勝手にラジオに切り替えられていたカーステレオからは知らない音楽が延々と流れていた。知らないくせにハンドルに置いた両手で小さくリズムをとったら、「知ってんのかよこの曲」と笑われた。流鬼が笑うと車内の空気が少し柔らかくなった気がした。それで冒頭。流鬼に道案内してもらいつつ、流鬼の母校に辿り着いた。道を覚えていると豪語していたのに実際うろ覚えも甚だしくて、迷いまくってやっと着いた。こっち、ここ右曲がって、いや違う逆だった、そこじゃなくてさっきの前のとこが逆だった。流鬼の道案内は思っていた以上に難解で、下手なゲームよりも面白かった。ここだ! と言って曲がった先にあったのが中学校じゃあなくて何かの工場だった時は二人で腹が捩れるほど笑った。

「あー……なんか意外に遠かったね」

「るーさんが間違えまくるから」

「人の記憶はあてにならないってことだな」

 校門の前に車を停めて外に出ると、夏の終わりの風が心地良かった。少しひんやりとしていて、鼻腔を擽る独特な匂い。ここが都会でないからか、それともこの時期、この時間だからか。そのどれもがそんな気がするけれど、恐らくそのどれとも違う意味を持った香りが呼吸をするたび俺の肺に満ちていく。

「このご時世に警報とかなんも付いてねぇって、田舎って感じすんなあ」

 聳え立つ古い校舎を見上げている俺の目の前で、流鬼が校門によじ登った。校門は開かないように施錠されているけれど、簡単に乗り越えられる高さだった。

「え、ほんとに大丈夫? 屈強な男とか来ない?」

 思わず辺りをきょろきょろ見回す俺を鼻で笑って、門の向こうから流鬼が手招きする。

「ないない! 絶対ない、見た。大丈夫だって」

「ていうか不法侵入……」

「この際そこは気にしないことにしよ」

 まずいでしょ、と思いながらも、手招かれるままに俺も校門を乗り越える。正直、口ではどうこう言いながら内心わくわくしていた。それをたぶん、流鬼は分かっている。にやにやした顔で「楽しいだろ」とでも言わんばかりに、門を越えてきた俺を見上げた。

「あー懐かし。あれ? こんなんだったっけなぁ」

 所々記憶と違う、と楽しそうに、あくまで小さめの声で思い出を辿りつつ校内を進んでゆく。そんな流鬼の後ろ姿は校舎の風景に合わなくて一寸面白い。校舎を外から眺め、教室はあの辺で、あそこでよく友達と飯食って、授業サボるのには空き教室がちょうどよくて。流鬼の思い出話には限りが無くて、聞いたことのある話、初めて聞く話、様々あったけれど、楽し気に話す横顔にさきほど車の中で覗き見ていた横顔が重なって、俺は相槌を打ちながら鼻を鳴らす。香りが濃い。

「ここ、忍び込もうぜ」

 指差した先にはプールがあった。流石にフェンスが高くてこれは越えられないだろうと思っていると、「こっちこっち」と裏手に促される。校舎側と違い、木や草が生い茂っている裏側のフェンスには一部、木の枝が大きくせり出しているところがあった。フェンスが木の重みで拉げ、足を掛けたら簡単に登れてしまい、流鬼はそこからプールサイドに飛び降りた。

「高校の時よくこっから入って勝手に遊んでたんだよな」

 まだそのまんまだとは思わなかったけど。どこか嬉しそうに言う流鬼に続いてプールサイドに足を着けると、全く知らない学校なのに、なぜか自分も懐かしいような気がしてくる。プールなんてどこも似たようなものか。かといって自分の母校のプールの景色なんてこれっぽっちも思い出せないのだけれど。プールの授業っていつまであったっけ。そんなことを考えて覗き込んでみた水面は透き通っていて、どうやら放置されているわけでもないようだ。隣にしゃがみ込んだ流鬼が手でぱしゃぱしゃと水を撫でた。そこまで丸くもない月の光は少し弱くて、優しい光が流鬼の立てる波に反射して広がってゆくのがきれいだ。

「……入りたくなってきたな」

 ぼそ、と誰に言うでもなく呟いたら、隣から悪戯っぽい声が聞こえた。

「入れば?」

 見下ろすと、靴を脱いで履いているスウェットの裾を膝下までたくし上げている流鬼と目が合う。瞳に水面の揺らめきが映っている。

「着替えも無いのに?」

「おー全裸で入れよ」

「それはさすがにアウトだろ、完全に不審者じゃん」

「そしたら通報してあげるね」

 足湯のようにプールサイドに座り、脛まで水に浸してばしゃばしゃ音を立てている流鬼は少年みたいに笑った。あれ、俺らいまいくつだっけ。倒錯的だな、と俺がしゃがみ込んで水面に手を伸ばした時、背中をとん、と押され、そのまま頭から水の中に落ちた。吃驚しすぎて鼻から水を吸い込んでしまい、急いで立ち上がり顔を出すと盛大に噎せた。やっぱり中学校のプールだから、立ち上がると水は腰辺りまでしかない。

「あっぶな! 頭打つかと思った!」

「あはははは!」

 流鬼は腹を抱えてプールサイドに笑い転げる。何がそんなに楽しいのか、ここに来てからずっと笑っている流鬼が、どんどん恨めしくなってくる。

「びっしょびしょだねえ」

「誰のせいだよ」

 プールサイドに上がろうと、横たわったままの流鬼の隣に手を伸ばした。その手に手が伸びてきて重なり、「寒い?」と尋ねられる。見上げてくる目には、今度は月が映っている。「意外に、めちゃくちゃ寒い」答えた俺にまた笑い転げると、着ていたパーカーを脱ぎタンクトップ一枚になって、躊躇いなく足先から水の中に飛び込んだ。

「え?!」

「いやなんか楽しそうだなって」

 狼狽える俺を尻目に、流鬼は服のまま水に入るって変な感じがする、とおかしそうにぷかぷか浮いた。髪まで濡らして、空を見上げた。

「すっげえ……寒い」

「そらそうだ」

「なんかこういうのっていいじゃん」

「青春っぽくて?」

「そう」

 暫くそうしてノスタルジーに浸るのかと思いきや、馬鹿馬鹿しそうに笑って、「あー寒い!」と流鬼はさっさとプールサイドに上がった。くしゃみが止まらなくなってきて、二人して震えながら車まで小走りで帰った。びしょ濡れのまま車に乗りたくなくて、俺はトランクに入れっぱなしにしていたブランケットを引っ張り出した。取り敢えず後部座席に乗り込んで上に着ていたパーカーを脱ぎ比較的無事だった七分袖のインナーだけになり、下は全部脱いでしまってブランケットを腰に巻いた。それを見てまた流鬼は爆笑していた。俺も流石に滑稽すぎて可笑しかった。流鬼は下を全部脱いで、無事だったパーカーを羽織ってさっさと助手席に座った。奇跡的にもう一枚あったブランケットで髪を拭き、寒い寒いとそのまま包まるようにして縮こまっている。

「これは確実に風邪コース」

「笑えないなぁ」

 運転席に座り、ナビを流鬼の自宅に設定していると、自分たちの格好が目に入ってきて何度か笑いが止まらなくなった。流鬼は鼻をすすってコンビニで珈琲でも買おうと言うが、どうやって店の中に入ろうか、策が無さ過ぎてどうしようもない。いっそびしょ濡れの服をまた着込んで行くか。それはどちらかというと申し訳ないし、深夜のコンビニに全身びしょ濡れのサングラス男が珈琲を買いに来る、なんて体験は俺が店員なら死んでも御免だ。

「……じゃ、帰るか」

 俺が言うと、流鬼は小さく頷いた。見遣った唇は紫色で、小刻みに震えている。けれどやっぱり楽しそうで、あまりにも可笑しそうで、複雑な心境の俺に気づきもせず校舎を改めて見上げた。

「やっぱいーな、なんか」

 満足そうに言うので、サイドブレーキにかけていた手の力を緩めた。

「なにが?」

 問うと「んー? 思い出っつーかなんつーか」なんて優しい声が返ってくる。その優しさは俺に向けられているものでなくて、流鬼だけに見えているだろう景色や、人々や、音やものに向けられているのだとはっきりと分かった。ここに着いたとき身体に入り込んできた空気がもう肺を満たしていたから、車の中なのにあの風の香りがする。流鬼が息をするたび漂ってくる気さえする。この空気の匂いは、流鬼にとっては懐かしさの象徴だろう。流鬼には、この空気のなかで生きていた時間がある。記憶がある。そこに俺はいない。

「……そうだよなぁ」

「え?」

 流鬼が俺を振り返った。その表情も声も、今の俺には見慣れたものだけれど。

「俺の知らない流鬼がいたんだなって」

 それが無性に感じられて、つい口からそんな呟きが転がり出た。当たり前のことなのに、どうしようもないことなのに。春の手触り、夏の味、秋の色合い、冬の音。俺の知らないこの場所で、時間を彩るすべての中で過ごした流鬼の姿を思い浮かべる。笑う、喜ぶ、悲しむ、怒る、プールサイドで見た、あのゆらゆら揺れる瞳を向けられた誰かが、そこにはいた。それを思うと、腹の底から恨めしい気持ちが込み上げてきた。次の瞬間にはどっと落ち込んだ。どうしようもないことを考えている、自分に呆れて、何より後悔した。

「なんだよ、面白いこと言うなよ」

 そう笑われたのに顔を上げると、身を乗り出してきた流鬼が俺の濡れた髪を邪魔そうにぱさぱさ払い、髪から頬に滴った雫を撫でつけるように拭って、ゆっくりとした瞬きのあと瞳を溶かした。

「いまは何百倍も面白いから」

 いつまで経っても思い出にならないんだよなぁ。

 その言葉を聞き終わるかどうかのところで唇が重なってきて、目を閉じた。頬を滑っていた手が肩にトン、と乗る。俺は両手で冷たくて柔らかい流鬼の頬を包む。濡れた髪を指先で梳くと擽ったそうに鼻にかかった息を零し、舌先で歯列をなぞると同じように返される。冷えた唇が互いの息と舌の温度ですっかり温まるまで暫くそうしていたが、何処か遠くからバイクのエンジン音がこちらに向かってくるのが聞こえ、思わず流鬼の肩にかかっていたブランケットを掴んで頭から被り助手席のシートを倒した。

「うわっ」

「しっ」

 エンジン音は大きな光と共に後方から近づいてきて、一瞬で通り過ぎて行った。通り過ぎて行ったことに安堵したものの、校門前に不審な車が停車していると通報されたらどうしよう、とまた不安が押し寄せてきて、慌てて身体を起こそうとした俺を、首に回った両腕がぐっと引き止めた。

「もうちょっと」

「えっ」

 ブランケットの中、間近にある瞳には何も映っていない。真っ暗で、お互いの顔しか見えなくて、鼻と鼻が擦れ合っている。息を吸うと、流鬼の匂いがした。仕方がないな、なんて考えながらもう一度唇を重ねると、楽しいだろ、なんて聞こえてきそうな弧を描いているのに苦笑する。舌をやわやわ縺れ合わせると、そこから全身がゆっくり痺れていく。流鬼が小さく吐息を零すたび、瞼の裏にくすぐったさが広がる。指先が首筋を辿るたび、微かな電流がそこに流れるようで心地良い。いつまでもそうしていたいと思う心とは裏腹に、咄嗟に取った体勢が思いのほか辛くて、俺は「ごめん、限界」と腰の痛みを訴えて身体を起こした。おっさんくさいなと茶化した流鬼は改めて俺を上から下までまじまじ見つめ、

「おまえの格好、ド変態じゃん」

と、自分を棚に上げて絶句した。



 高速を東京まで戻りながら、すっかり眠ってしまった流鬼の横顔を行きの時と同じように覗き見て、カーステレオから流れるラジオに耳を傾ける。鼻から大きく息を吸い込めば、いつの間にかあの香りはもうどこにもない。いなくなったのか、溶け込んだのか。それにしても冷静になってみれば今日のことはあまりにも馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しすぎて、多分このさき何度も今日のことを「そう言えばあの時」なんて言って笑うのだろうな。その時この車内の香りを思い出すのだろうか。どうだろう。むしろ車内の香りで、今日のことを思い出すほうが多そうだ。香りどころか、車に乗るたび。ブランケットを出すたび。曲作りに行き詰まるたび? けれど、やっぱり。あのプールサイドで、この車で、そのブランケットの中で、流鬼の揺れる瞳の先にいたこの日の俺を、俺は恨めしく思うのだろうな。



(2020.04.17//車の中で隠れてキスをしよう)

indulge

 喫茶店を出る時、アパートまでついてくるものだと思っていた松本に、鈴木は躊躇いもなく「今日はやめとく」と言って近くの駐車場まで歩いて行った。松本は思わず追いかけ車までついて行き、鈴木を見送ることにした。

「もう今日終わらせろよ、その変な喧嘩。答え出たんだから」

 自動精算機で駐車料金を支払いながらそう言いつけられ、松本は自分の足元を見つめた。改めて整理しようかな、などとそれらしい理由をつけて思考に逃げようとしても、田辺の不躾な一言が、城山の恋愛観が、鈴木の提示した新たな考え方と共に松本を責め立ててきて、確かに答えは出たと思わざるを得ない。それにもう考えることに逃げるのも疲れてしまった。松本はそういう言い訳で、強情な自分を押し込めた。

「喧嘩じゃねえし」

「あーはい、そうでしたね」

「心配しなくても終わらせるよ。お前が遊びに来れるように」

「頼むよ、全然行きたくないけど」

「なんでだよ!」

 鈴木の車が走り出してから、松本も残り少ないアパートまでの道を歩き出した。答えは出したにしろ、頭の中が纏まっているわけではない。変な言い方をして誤解されるとまた面倒なことになる。けれど、言いたいことは言っておきたいという気持ちもある。とにかく一生懸命なんとかするしかないし、結局はなるようにしかならないんだろうから、纏まらなくても自分の言葉で話そう。気持ちを固めた瞬間、アスファルトを踏むスニーカーは速度を速め、それほど長くもない家路を急いでいた。





 晩飯のあと高嶋が溜め直したらしい風呂に浸かりながら、気持ち悪い会話だったと松本は今更、強い後悔に苛まれていた。執拗に訊ね返してくる高嶋に半ば意地になって言い返していたが、言うまでもなく松本は(こいつ言わせたいだけだろ)と高嶋の甘えに気づいていて、それでも何度でも好きだと言った。結局は飽きて投げたけれど、「どうでもいいか」と笑った高嶋の顔を見た時、とっくに松本の記憶に住み着いているへらへら締まりのない顔がそれと重なって、やっとすべてが元通りになった安心感から力が抜けた。このとき松本は、『元通り』になったと思った。それは『何もかも無かった』ことになったと同意だ。松本が望んだのは『今まで通り』だったのだから。けれど、台所でいつものように身を寄せた松本を捉えた唇が微かに震えていて、一瞬視界の端に映った高嶋の目が揺れていて、これは何一つ『元通り』ではない、決して『今まで通り』などではないと、全身で理解した。松本にとっては『今まで通り』でも問題はない。しかし高嶋にとっては『今まで通り』ではいけない。そして、松本がそれを分かっている、ということを、高嶋には言葉にしてやる必要があると思った。きっといちいちそれを言葉にしなければ、高嶋は惑うだろう。松本の『いつも通り』がまた『何もかも無かった』ふりを高嶋に強いてしまうだろう。それは、高嶋のそういう性質を身に染みて理解している松本の脳に経験則として刻み付けられた、反射的思考だった。

(そうだった、面倒くさいやつなんだよ)

 そんなことは出会った頃から分かっていることだ。一緒に暮らし始めて更に強く、この出来事があって尚鮮明に、高嶋の面倒な部分をまざまざと見せつけられてきた。「好きじゃん」田辺の言葉が蘇る。違う、と松本は否定する。「好きだねえ」城山の言葉が浮かぶ。そういうのじゃない、と松本は退ける。「そういうことじゃん」鈴木の言葉が過る。どういうことだよ、と松本は突っぱねる。誰に言われても永遠に肯定することはないし、高嶋にすら面と向かって問われたなら絶対に肯定などしない。そういうことじゃない、と心のどこかでは未だ思っている。そんな言葉で簡単に納得できるならもっと早く答えは出ていた。未だに納得できていない。これは好きとかいう感情ではない。

(でも、そう言えば安心するんだろ)

 これは高嶋にとって『今まで通り』ではないのだと、そこには明確に互いの感情の自覚と確認があったのだと、松本だけが理解しても意味がない。そもそも松本が出した答えは、何のためだったのか。そもそもこの問答は、誰のための問答だったのか。全部が全部、高嶋が納得するためのものではないか。松本は、なんて贅沢な奴なんだと思う。自分は高嶋を甘やかし過ぎていやしないかとすら思う。

(でも、仕方ないじゃん)

 自分のために毎日、得意でもない料理を作る。自分のためにわざわざ、バイトのシフトを調整する。自分のために必死で、自分の感情を押し殺そうとする。もともと、愛されることに弱い性質だと自分で分かっている松本が、こんなにも好きだと全身で示されて、死んでも言わないけれど、可愛いなと思わない筈がない。
 それで、松本はできるだけ、できるだけ声に気持ちが乗るように、短い言葉にすべてを詰め込んで、もう二度と高嶋が惑うことのないように丁寧に、丁寧に、「好きだよ」と呟いた。二度と言いたくないから、二度と言わせないでという願いも込めて。

「風呂いいよ」

 髪を乾かし終え、レポートの続きをしている高嶋に声をかける。立ち上がって浴室へ向かう高嶋と入れ違いになる形で松本は蒲団の上に座ると、煙草に火をつけテーブルに広げられたままのレポートを眺めた。相変わらず素っ頓狂な字だな、と見ていて笑いが込み上げた。汚いのではなく不恰好で、けれどどこか味があって、何より高嶋らしさが出ていて、変に愛着が湧いてくるのが少し不思議だ。字は名前よりよっぽど如実にその人を表しているように思える。他人からしか分からない、その人となりが見える。暫く見つめていると何についてのレポートなのかが気になってきて、冒頭から目を通し始めた。けれど字にばかり気がいって内容が頭に入って来ず、松本はまた思わず笑いそうになる。何度も初めから読み返してやっと内容が頭に入ってくるようになったが、結論まで書き終えられていないレポートは結局何が言いたいのか分からず仕舞いで、少し損した気になった。

「面白い?」

 松本がテーブルの上にレポート用紙を放った時、風呂から出てきた高嶋が訊ねてきた。

「ぜんぜん」

 言い捨てると、「そりゃそうだろうな」と高嶋が笑う。あとちょっとで終わるからやっちゃわないと、と言ってテーブルの前に腰を下ろし、資料を広げペンを走らせ始めた。蒲団に寝転がり頬杖をついて煙草を吸う、松本に横顔を向ける形で、高嶋はレポートに集中している。その横顔をじっと見ていて、ふと松本は予備校の頃のことを思い出す。いつものように特に楽しくもない講習を受けていたら、ある日、明るめの髪を長く伸ばした背の高い男が視界に入ってきた。ちょうど今くらいの角度から見えた横顔で、額から鼻筋、少し厚ぼったい唇から顎までが綺麗な形だなと思った。長く伸ばした前髪で目が見えなくて、正面から見たらどういう顔をしているのだろうと気になった。

(初めて正面から見た時は笑いそうになったな)

 そのくせ、話すようになり、笑いかけられるようになって、眠たそうな一重の目が笑うと溶けるように優しくなるのを知って、高嶋が笑うと松本もついつい頬が緩んでしまうことに気づいた。気づいたのは、いつだっただろう。松本は高嶋から視線を外さず、少しだけ記憶を探してみる。そして、気づいたら、という言葉は便利だと松本は思う。自分ははっきりと自覚するより、なんとはなしにゆるゆる自覚することのほうが多いらしい。

(やっぱり字ってのは、人となりを表してんだなあ)

 残り少ない煙草を消してもう一本取り出すが少し躊躇い、高嶋を見遣る。表情が真剣で、まだ終わりそうにないと思い火をつけた。が、二口程吸ったところで、高嶋が声を上げてペンをテーブルに置いた。

「あー! 終わった!」

「おつかれ」

「髪乾かしてくる」

 勝手に行けよ、と思うけれど、当然高嶋も了解を得たいわけではないから、松本が返事をしようがしまいが関係なく立ち上がって洗面台へ向かった。松本はまだ半分も過ぎていない煙草を消すと、枕を引き寄せ目を瞑った。

 照明を消し、蒲団に潜ってくる感触で意識が浅く浮上する。抱き込んでいた枕が引き抜かれ、なんなんだと声を上げようとすると、代わりに優しい布の感触がした。なんだろう、高嶋のスウェットの感触だ、柔らかい、温かい、ああこれは腕か。順番に時間をかけて理解する。首の下に差し込まれた腕では頭の座りが悪くて、いくらか身動きしそれでも定まらず寝返りを打ったら、顔が高嶋のスウェットに埋もれた。鼻からゆっくり深く息を吸うと高嶋の匂いがした。肺が満たされて、身体中が温まっていくのを感じる。松本の頭のてっぺんから指先まで、余すところなくじんじんと満足感でいっぱいになる。全身の筋肉が弛緩し、背中に回った腕にすべて委ねてしまうと、意識もまた薄れ始める。真っ暗な世界で、あるのは匂いと感触だけで、たったそれだけだというのに。

(……やだなあ、こんなんだったっけ)

 それは松本が初めて感じる、名状し難い愉悦だった。



(2020.02.22//indulge)

paradox

 タイミングが悪い、と高嶋はいつも思う。何かする時、何かされる時、松本に関することは基本的にタイミングが悪い。電話をかけてからそういえば授業中だったと思い出す。電話がかかってきた時はスマートフォンに意識がいっておらず出そびれる。帰ってくるだろう時間を想定して風呂に湯を溜めておいた日に限って、松本から「ちょっと寄り道して帰る」などというメッセージが来る。試験が迫っているこんな時期に松本の寄り道は珍しく、高嶋は松本からの折り返し電話に出られなかったことを悔やんだ。声を聴けばまだ安心できたかも知れないと、不安が募っているのならばその根本をどうにかしなければそんなことは単なる気休めでしかないと分かっていて、それでも高嶋は気休めが欲しかった。

(逃げた俺が悪いんだけど)

 松本の反応を恐れて自ら逃げてしまい、高嶋はあの一連の出来事すべてを無かったことにした。そんな高嶋に戸惑いながらも徐々に順応し松本も元に戻っていったのは、松本が心の底でそれを望んでいたからだと痛いほど分かった。身を引き裂かれるような思いだった。できれば最初からやり直したい。初めて話したあの日に戻りたい。そこからやり直すことができれば、何もかも上手くいくのではないか。そんなできもしないことを考え、考えるたびにできるわけがないと失望し、許されていた『今まで通り』だけを拠り所とした。けれど、高嶋の『今まで通り』はどうやら松本にはそうではなかったようだ。ここ数日、高嶋は明らかに避けられていると感じていた。無防備過ぎた松本のゼロ距離は目に見えてゼロ距離ではなくなり、気を付けて離れているのが肌で、表情で、声で分かる。それでも高嶋は探り探りだったボーダーラインのギリギリを、今までは許されていたじゃあないか、というような開き直りで松本に押し付けた。そうして今日、松本はまだ帰ってこない。

(いままでどおり、がダメなら、全部ダメじゃん)

 もう指先を数センチ動かすことすら億劫なほどの倦怠感に包まれ、高嶋は蒲団の上で天井を見上げていた。溜めた風呂はとっくにぬるま湯になっているだろう。作りかけの晩飯も台所でどんどん新鮮さを失っていく。タイマーをセットした炊飯器だけが湯気を立て始める。切った野菜の断面が黒ずんで瑞々しさをなくすように、高嶋の傷の断面もこのままからからに乾き、表面の細胞が死んで、そのうち棄てるしかないものに成り果てるのだろう。そうなった頃に突き付けられるなら痛みもなく受け入れてしまえそうで、どうせなら早くそうなりたい。そう望んでそうなれるものでもないくせに、と高嶋は身体を起こして台所を見つめた。結局、高嶋は松本が好きだ。何かしてあげた時、喜ぶ顔を見ると嬉しい。自分の言葉に松本が笑うと嬉しい。高嶋の話を聞きながら、緩く笑って相槌を打つ。自らひっついてくるくせに、高嶋が不意に触れると口元を歪めて嫌がる。高嶋が作った褒められたものでもない料理を、文句は言っても必ず食べる。苦手なものを箸で除け高嶋に寄越し、俺に食べてほしくないって言ってる、などという子供のような言い訳をする。どれをとっても高嶋には捨て難い愛おしさだった。だから、怠惰が恋慕に負ける。先ほどまで何もかも億劫だったのが、立ち上がって再び包丁を握る。

(我ながら変なところでメンタル強いな)

 やることなすこと空回ろうが、火を見るよりも明らかに避けられようが、言葉にして突き付けられないうちは自分の権利を行使しできるだけのことをしよう。それが自分の信念だと、高嶋は大きく深呼吸をして、晩飯の準備を再開した。




「ただいまぁ」

 どこかそわそわしながら松本が帰宅した。その頃にはもう高嶋は晩飯の準備を終えていて、今日出された課題のレポートに取り掛かっていた。

「お帰り、長い寄り道だったね」

「……そうでもねえだろ、言うて一時間くらいじゃん」

 松本が上着を脱いで綺麗にクローゼットにかけている間、高嶋は机に広げたレポートや資料を片付ける。立ち上がって台所に行き、鍋の乗ったコンロに火をつけながら「先に風呂? それとも晩飯?」と松本を振り返ると、クローゼットの前で松本は高嶋から目を逸らしたまま頭を掻いた。そうやって佇んでいるのをどうしたのかと見守っているうち、よし、と小さく独り言ちて、テーブルの辺りを指差し、短く言った。

「そこ座って」

「……え」

「話あるから」

 一瞬、心臓を握り込まれたような胸の痛みに息が止まった。辛うじて細い呼吸を繰り返し、唾を嚥下すると大袈裟な音が鳴る。話がある、と言われているのに、僅かな唇の隙間からはどうでもいいことが次から次へと零れ出た。

「……でも、晩飯もうできるけど」

「話したい」

「風呂、先に入ったほうが」

「うっさん、座って」

 戸惑う高嶋に松本は焦れるでもなく急かすでもなく、先に自分も座って、言い聞かせるように促してくる。声音はどこか優しい。それが余計に高嶋を脅かした。タイミングが悪いにも程がある、と高嶋は自分の不運を呪う。しかし果たしてこれは不運なのだろうか。自ら招いた今日が結果なら、すべて不運ではなく自業自得なだけだ。高嶋はできるだけゆっくりとコンロの火を消して、台所を整え、松本の待つテーブルまで歩み寄り正面に座った。狭い部屋に置いた小さなテーブルでは、松本との距離は一メートルに満たない。どうしても顔を見ることができず、高嶋は胡坐を掻いた自分の足首を凝視した。
 暫くして、松本は穏やかな声で言った。

「お前のこと好きだわ」

 高嶋の反応を待たず、松本は言葉を繋げる。

「でも、恋愛とかじゃないっていうか」

 静かな部屋に広がる松本の声があまりに穏やかで、高嶋は瞬きも忘れて思わずその声に聴き浸る。一生聞いていたい声だと思う。それなのに、一音一音はっきりと紡がれていく言葉は高嶋をじわじわ蝕む毒のように追い詰めてくる。

「友達、でもなくて……今のままがいいんだよね」

 今のまま、と言われた時、高嶋はふと顔を上げた。声だけでは真意を測りかねた。松本はテーブルの隅の辺りを見つめながら、「そういうかんじ」と締め括った。何がどういう感じなのか、高嶋の頭の中ではクエスチョンマークが踊り狂った。『今まで通り』がいいなら、何故露骨に避けたのか。友達ではないという『今まで通り』は、松本の中では友達ではなかったのか。悲しんでいいのか喜んでいいのか分からず、え、という短い言葉を繰り返すだけの高嶋がなんとか一つでも疑問を晴らそうとして纏まらない言葉をぽつぽつ零し出すと、松本は「あ、待って、違う」と突然高嶋をまっすぐ見つめた。

「言い方がおかしかったな。とにかく俺はお前が好きらしくて、今まで通りがよくて、たぶん、えっと、そもそもとっくに友達って感じじゃなかったじゃんって」

 松本の目はしっかりと高嶋を見ていて、あくまで自分の希望を真剣に伝えようとしているのが分かって、高嶋は何を言われているのか把握するのに時間がかかった。待って、と言って目を逸らし、言われたことを頭の中で反芻する。考えても考えても、好きだけど恋愛ではなく、恋愛ではないけど友達でもないという意味が分からなくて高嶋は思わず笑いながら首を捻った。

「……いや、なんかよく分かんないんだけど」

「あ、大丈夫、俺も分かんないから」

「いや、じゃあダメだろ!」

「いんだよもう細かいことは! 考えるの疲れたもん」

 深刻そうに話し始めておいて、気づけばお互い笑っている。松本が笑うとその場の空気が柔らかく和んだ気がして、高嶋は全部がどうでもよくなってきた。けれどそれはあの日、松本の答えを待って放棄したものとは真逆の位置にある、逃げではない満たされた思考の放棄だと浮つく気持ちが告げていた。

「好きだって言ってんだからもういいでしょ」

「いい、のかなあ。俺はまだよく分かんないなあ」

「何が分かんないの、もう好きだっつってんだからあとどうでもいいじゃん」

 松本の言葉通りもうどうでもいいくせに、高嶋はごね続けた。そのたび松本は好きだと言った。照れる素振りも甘い雰囲気も全く無かったし、告白の返事をされているというのにドラマチックでもロマンチックでもない、狭いアパートの部屋で小さいテーブルを囲み、中途半端な距離で顔を突き合わせ、そんな状況がまぎれもなく夢じゃなく現実だと高嶋に告げていて、あまりにも日常的なことがこの上もなく高嶋の胸を締め付けた。

「どういうこと? もっかい説明して?」

「だからあ、そもそも俺らの関係ってもう友達じゃなかったでしょ? で、お前も俺も好きだってなって、でも恋愛じゃなくて、恋愛じゃないんだけど、今まで通り友達でもなくてぇ……えーとなんだっけな……まぁ、だからそういうことよ」

「いや最後がよく分かんない」

「ええ? 何がわかんないわけ」

「友達じゃないし、恋愛でもないけど、友達でもなくて、……で、どういうこと?」

「……だからあ」

 説明しようと思えば思うほどこんがらがってしまうのか、ごね続ける高嶋に松本はとうとう堪りかねたように「あー!」と唸りながら背後の蒲団に転がった。

「どうでもいいじゃんそんなことはぁ」

 顔を腕で隠しながら、今更遅れてやってきた照れを隠しているのか、面倒くさくなって呆れたのか、上擦った声で小さく呟く。高嶋は頬が緩むのを抑えられなくて、抑える必要もないかと思いながら、ずっと心の底から湧いてきていた言葉をやっと口にした。

「どうでもいいか」

 腕の隙間から高嶋を見遣った松本が、げんなりと身体を投げ出した。完全に呆れられたと高嶋は思う。けれどそこには危機感も焦燥もなかった。恐らく松本は責めないからだ。高嶋の予想通り、松本は寝そべったまま不愉快そうな顔を隠そうともせず高嶋を見ながらも、どうでも良さそうに言った。

「腹減った。晩飯なに?」

 高嶋が答えず笑って立ち上がり準備の済んでいる台所に向かうと、「なんだよ無視かよ」と言いながら追ってくる。身を寄せて高嶋の手元を覗き込んできたから、すかさずこめかみに唇を押し付けた。

「……なんでお前って、そう気色悪いの」

 口元を歪めてそう言う松本がそれでも身体を離さないのは、高嶋の唇が震えていたからだろうか。微かに目元に滲んだ涙を見られたくなくて顔を背けたことを、高嶋は死ぬまで後悔するだろう。

「好きだよ」



(2020.02.20//paradox)

realize

 期末試験が近づいてくるに連れ、高嶋のレポート量は増えていき、週末は松本も試験勉強に時間を費やすようになった。どちらが言い出したわけでもないが、週末に集中していたセックスは自然と無くなった。二人ともそれどころじゃなかった。一学期末も同じようになっていたからそのことについては別段気にもしていなかったが、それに伴っていつもより一層増える高嶋のぬるっとしたスキンシップを妙に意識するようになってしまっていた。あんな告白があった後で、あんな反応をされた後で、よくもここまで元通りに振舞えるものだと松本は高嶋の精神を疑った。そして自分だけが意識しているようで癪に障った。

(受験の時は死ぬほどメンタル落ちてたくせに)

 いつも通り大学で一日授業を受け、松本は今日もあまり頭に入ってこなかったなと筆記用具を片付けながら溜息を零した。そうしていつも通り、教室を出てスマートフォンを確認すると、高嶋から着信がきている。少しの逡巡の後に折り返したが留守番電話に繋がった、これもいつも通りだ。そういえばこちらから電話をかけると必ず出ないのではないかと松本は一瞬変に疑りかけたが、いや、そもそも電話をかけること自体、折り返しを含めても数回しかないのだった、と思い直す。松本の何倍も、高嶋からは着信がある。そしてそれはいつも「声を聴かないと落ち着かない」などという理由で、不必要なまでに松本のスマートフォンを震わせた。心なしか松本は普段であれば気にしないようなそんな些細なことにまで焦燥を煽られていた。自分でもよく分からないのだが、高嶋に恋愛対象として好かれているということを改めて自覚してから、それに応えなければならないような衝動がぐいぐい松本の背を押すのだ。普段通り接してくる高嶋の態度がそれに拍車をかける。普段からこんなにも、好かれていたのかと分かってしまう。それ自体が嫌ということではなく、あまりにも明確にはっきりと松本の目に映るので、一種脅迫のようにさえ思えてきていた。

(……なんか、今日帰りたくないな)

 今日の授業はすべて終わってしまった。先日のように部室に行って誰かしらと交流を図るのも悪くはないが、また田辺に会って同じことを言われると心が荒む気がした。それに時期はもうすぐ期末試験、今のような夕方の時間帯は何処へ行っても試験勉強のために人が多くなる。今松本が行っても座れる席は無いだろう。さてどうしようか、と思いつつも、足は校門へと向かっていて、このまま云々考えながら家に着きそうである。松本が一歩を躊躇った時、上着のポケットに右手と共に突っ込んでいたスマートフォンが震えた。




「なんか久しぶりじゃん」

 アパートと大学のちょうど真ん中くらいにある喫茶店に入ると、奥の席で片手を上げて合図した鈴木に近寄りながら松本は笑顔で声をかけた。時間帯の妙か他には誰もいない寂れた喫茶店だが、昼間はわりと学生が入り浸る。人がいないことに松本は少し安堵した。

「え、そうか? 前いつ会ったっけ」

「うっさんが中古の冷蔵庫買って、運ぶの手伝ってくれたとき」

「それ夏だよね、てことはまあ三ヶ月ぶりくらいか」

 めちゃくちゃ久しぶりじゃん、と鈴木が笑って、松本もだからそう言ってんじゃん、と笑う。鈴木は高嶋の幼馴染で、高嶋と知り合ってすぐ紹介された。というよりも、予備校帰りに飯を食おうと二人で近くのファミリーレストランまで歩いていたら鈴木とばったり会って、その流れでなぜか三人で晩飯を食べたのが最初だった。人見知り同士の二人は最初こそあまり喋らなかったが、高嶋が間を取り持つでもなくあまりにもいつも通りのため、自然に素のまま接するようになった。それからは三人で会うこともあれば、鈴木と二人で買い物に行く時もあった。なんにせよ高嶋と同じくらいに頻繁に会っていたから、三ヶ月ぶりなどは二人にとって頗る久しぶりの感覚であった。松本の中で高嶋が静であれば鈴木は動、鈴木には一緒に馬鹿みたいなことをして騒ぎたくなるようなシンパシーを感じていた。大学に受かり高嶋と住むと言った時は真剣な顔で「俺も誘えよ!」という冗談を吐き、引っ越しの際も「お前らと違って就職組の俺は忙しいから」と言いながら荷物運びを手伝ってくれた。面倒見がよく、友人を大切にし、周りの空気をよく読む。繊細過ぎてたまに面倒くさくなるところもあるが、松本にとって鈴木は良き友だった。

「で、なんだよ。喧嘩でもした?」

 仕事で近くまで来たから、そう電話がかかってきて、アパートに寄ると言うので、思わずこの喫茶店を指定した。松本の記憶が正しければ高嶋の今日の帰宅時間は松本より早い。恐らく松本が先ほど受けた最後の授業中、高嶋は帰宅している。鈴木には悪いが、高嶋がいないところで先に話したいことがあると言うと何か察したのか、電話で詮索することもなく喫茶店で会うことを承諾してくれた。運ばれてきた珈琲にミルクを入れながら、松本は喧嘩ではない、と口ごもりつつ話し始めた。

「なんか、俺のこと好きだって」

「へえ」

 へえ、って、淡白過ぎやしないか、と思ったものの、もしかして高嶋から話を聞いていたのかも知れない。二人は幼馴染だから、相談していてもおかしくない。松本はそれならそれで話が早いなと思い、早々に本題に入った。

「俺はべつに……なんかアレだけど、今更おかしいけど」

「……ん?」

 鈴木が何の話だという顔で松本を見るので、松本は言ったことが伝わっていなかったことを悟る。かと言って自ら細かく説明するのはさすがに気恥ずかしく、これはそもそも俺が相談すべきことなのだろうか、と今更尻込みする。

「いや、あいつが……えっと、友達じゃなくて、そういう」

「……あ、え? あいつの彼女かなんかがお前に好きだって言ってきたってこと?」

「え? 待って待って、おまえ話わかってる?」

「全くわかんねえ、何の話?」

 これは恐らく高嶋からは一ミリも聞いていない、松本は頭を抱えそうになりながら、言ってもいいのかどうかと一瞬躊躇したが、どうせどうにかなったならすぐにわかる話だと腹を括って最初から説明した。鈴木は逐一、喫茶店の窓ガラスが割れるかと思うくらい大きな声で盛大に驚いていたが、魔の一週間について最後まで話し終える頃には逆に静かになっていた。
 松本が言葉を止めると、鈴木は自分のアイスティーをストローでぐるぐるかき混ぜ、一息で半分ほど一気に飲んでしまうと、噛み締めるように言った。

「自業自得じゃん」

 ハッキリと言われ、そんなことは分かっていると言いかけて口を噤む。松本は珈琲のカップを見つめながら「だよな」と一言絞り出した。そんな松本を気遣ったのか、鈴木はどっちが悪いとかそういう話じゃないけど、と言葉を続けた。

「そうなったからには返事しないってのは有り得ないだろうし、あいつもだけどお前もずっとモヤモヤしたままになるし、何より放ったらかしてていい話でもないだろ」

 正論だと思った。その通りだ、正しすぎてぐうの音も出ない。松本が小さく「分かってる」と呟いたのを聞き、鈴木は一等優しい声で「俺はどっちも大事なダチだから」と松本を宥めた。

「そのさ、お前が悩んでるのは恋愛として好きかどうかってこと?」

「……んまあ、そうかな。厳密に言うと恋愛にしたくないっていうか」

「ちょっとよくわかんねえけど」

 松本にもよく分からないのだから鈴木に分かる筈もない。恋愛にしたくないのは、そうだと思えないからなのか。単に気恥ずかしいからなのか。そのどちらもそうであるような気がするし、いまいち的を射ていないような気もした。最初はそもそも、これは恋愛感情ではないと思った。けれど城山の話を聞いて、そういう恋愛もあるならこれも恋愛感情と呼べるのかも知れないと思った。そうすると「どうして恋愛でなければならないのか」という疑問が浮かび上がってきてしまった。そうでなくても築かれていた現状の関係性に満足していたし、恋愛感情だと自覚せずとも成立していたのに、突然その関係性に名前が付くのが、付けなければならないことが、なんだかおかしい、なんだか嫌だと思ってしまった。

「煮詰まってんなら、一旦考えるのやめてもいいじゃん」

 鈴木が明るい声を出したので、松本は顔を上げた。

「大事なのはお前らがどうしたいかだし、そこに何が必要かは話し合えばいいんだから、正直にお前が思ってることあいつにぶつけて、それであいつがお前の気持ち分かってくんないんだったら、俺が殴るわ」

 最後の一言に笑ってしまって、松本が笑ったのを見て鈴木は更に「そりゃあもうボッコボコにしてやる」と畳みかけてくる。それは高嶋が可哀想すぎるな、と松本は想像してまた笑えた。
 アイスティーを飲み干して、鈴木は頬杖をつき斜め上を見上げる。

「恋愛にすんのが嫌って、なんかこうアレか、あー、キスとかそれ以上はしたくないってことか」

 言った後で「なんか気持ちわりいな」と零す鈴木に、松本は珈琲をスプーンでかき混ぜながら、それは別に、と答えた。

「それ以上もうやっちゃってるし」

 鈴木は頬杖からずり落ちると、今度こそ喫茶店の窓ガラスすべてが割れたのではないかと思うほど大きな声で驚き、両手で顔を覆い天を仰いだ。

「……分かった、なんかもうそこから間違ってんだわお前ら」

「え? どゆこと?」

「普通そういうことは好きなもん同士がやることだって話だよ、なんでわかんねんだよ」

 そう言われても困ると松本は思った。そもそも恋愛対象は同性ではなく、しかしそういう世界があることはインターネットを通して知ってはいて、嫌悪感よりも興味が勝ってしまったし、悪く言えば一時の感情で始めてしまった。それが凝り性の高嶋が妙に研究し始めて、徐々に悪くなくなっていって、最終的に何よりも気持ちがよくなってしまったのだ。

「なんだよじゃあもう、そういうことじゃん」

「どういうことだよ」

「考え方変えてみろよ、好きとか恋愛とかは取り敢えず置いといてさ。あいつと一緒に住めなくなって、そういうこともできなくなっていいのかどうか、で考えればいいじゃん」

「……え」

 松本は両手で包むように持っている珈琲カップを摩った。そういうことでいいのだろうか。それでは、どんどん俗物的になっていっているのではないか。けれど改めて考えてみれば、それだけは驚くほど簡単に答えが出た。

(……なんだよ、そんだけか)

 詰まるところはそういうことなのだろう。悩んでいたことがぱっと散って、すとんと一つの答えが胸に残る。今の安息がすべて失われることを避けたくて、自分は答えを先延ばしにしていた。関係性に名前を付けたくないのは、そうすることで始まっていないものが始まってしまう、それが嫌なのだと。自覚というのはこういうことなのだろう、松本は顔を見られたくなくて、思わずテーブルに突っ伏した。

「嫌なんだろ」

 鈴木がにやついているのが顔を見ずとも声で分かってしまい、松本は吐き捨てた。

「……別に、死ぬほど困るわけでもない」

 そういうとこだよなあ、と鈴木が呟いて、アイスティーのグラスを煽って氷をガリガリ噛み砕いた。その音を聞きながら、本当にそういうところだな、と松本は失笑した。自分の強情も噛み砕いてもらえればいいのにと、冷めた珈琲を少し揺らした。



(2020.02.19//realize)

appease

「好きだね」

「しつこい」

「は?」

 驚いたような声で松本は我に返った。目の前には購買で買ったらしいオレンジジュースを差し出している城山がいて、「あれ〜もしかして僕いま喧嘩売られてます〜?」と言いながら松本の顔をまじまじと見つめている。いやなんか変な夢見ててねゴメンね、と適当に謝りながらオレンジジュースを受け取った松本を訝しげに見遣り、城山は丸いテーブルを挟んで向かいの席に座った。田辺と別れて授業を受けた後、一コマの空き時間を潰すため松本は学内のラウンジを訪れていた。殆ど授業の被っている城山とは、特に約束していなくとも空き時間にここでよく会う。

「ていうか、なんでジュース?」

 手の中のまだ冷たい紙パックを見つめている松本に、城山はまた驚いて目を見開いた。

「いやいや、さっき何か飲むかって声掛けたらオレンジって言ったじゃん」

「え……そうだっけ?!」

「マジで寝てたの? 無意識に俺をパシらせたんです? いや流石だわ」

「あー! 思い出したわ!」

 松本が笑って咄嗟に思い出したと嘯いても、ひっどいひっどい、とそう言い続ける城山の表情にさほど苛立ちは見えない。そしてやはりそれほど気にもしていないのだろう、すぐに話題を切り替えた。

「ていうかさっきの空き、いなかったよね」

 松本は紙パックに附属のストローを差し込みながら、部室で田辺と喋っていたと答える。城山は田辺って誰だっけ、という顔をしながらも、特に訊ねてくることもなく缶珈琲を啜った。

「部室行くの珍しくない? 遠いんでしょ部室棟って」

「うん最初こっち来たんだけど、なんかめちゃめちゃ混んでたんだよね」

「先週から旧校舎の工事始まったじゃん、そこで授業してた学部がこっちの校舎でやってるらしいから多分そのせいだよ」

「工事? ふーん」

 そういう案内は掲示板に貼り出されているはずだが、見た覚えがない。掲示板は学部の校舎に必ずあって、その日の休講情報や授業変更等の案内が当日朝に貼り出されることがあるため、登校すればまず確認する。高嶋曰く大学のホームページでも確認できるらしいのだが、学部内事情だろうか、最新情報の更新が遅いため掲示板を見たほうが早いし急を要する変更等はそれほど無い。松本がそう言うと、高嶋は現代的じゃないと言った。そう言うなら一言二言の連絡くらいメッセージで送ってこい、と松本は返した。それに口元を緩め、まあいいじゃん、と高嶋は笑っていた。

「なんかあれだね、もう二学期も終わるね」

 城山は落ち着いた声でゆっくり話す。田辺のように大声や早口でまくしたてることが無いため、話していると余計なことまで口走ってしまいそうになると松本は思う。けれど松本のテンションが高くとも、城山にはあまり関係ないらしく、また逆に城山のテンションが高くとも、松本にはあまり関係がない。ただ二人とも、相手のテンションが低い時には少々気を遣う、そんなような関係だった。

「んー、早いよねなんか」

 答えながら松本は確かに、入学式の日のことがつい昨日のことのように思い出せるなと思った。年始は受験があったし、新しい生活に慣れるため忙しなく過ぎていったこの一年間には特にこれといって思い出深いこともない。振り返ってみればくだらない日常を過ごしてきた。そして思い出せる大体の出来事には高嶋がいて、松本は複雑な気持ちになる。学校のことより、高嶋と生活を共にした時間のことばかり思い浮かんできた。春は新しい生活のため二人で買い物に行った日のことが、夏は泥のようにセックスにのめり込んでいた毎日が、秋は雨が多くて薄暗い部屋に二人でいる浮遊的な感覚が。頭の中にこびりついているあのへらへらした笑顔が自分に向けられている映像が、嫌に鮮明で溜息が出た。

「冬になると気分が落ちてくるのなんなんだろうね」

「え、俺はそんなでもないけど」

「俺は落ちちゃうんだよね〜クリスマスも孤独に過ごすんだろうな〜とか考えて」

 城山が残念そうに溜息を吐いた。松本はといえば、そういえばもうすぐそんなイベントがあったな、とクリスマスのことなどすっかり忘れていた。今年は高嶋と家でケーキでも食うのだろうか、と想像してみたが、あまりにも普通の日常と代わり映えが無いなと思う。イベントといえば、そういえば六月に高嶋の誕生日を祝った。日付が変わった時に時計を見て思い出し、おめでとうと言うと、自分で冷蔵庫からケーキを出してきた。なんで自分で用意してんだよ、と松本が笑うと、覚えてくれてるとは思わなかった、と失礼なことを言われたのだった。

「じゃあ何でそんなに落ち込んでるわけ」

 落ち込んでいる、と言われ、松本は口元を歪めて唸った。落ち込んでいるわけではないのだ。出口の見えない考え事に気が沈んでいるだけで、どうしていいかわからないことばかり松本に降りかかってきて儘ならない状況に溜息が出るだけで。

「……落ち込んではない」

 言い淀んでいると、城山はそれ以上何も言わなかった。その代わり、恐らく気を逸らそうとして話題を変えた。

「同居人の飯って美味いの?」

「別に普通」

「毎日作ってくれてんだっけ」

「でもカレーとかパスタとかばっかで、大したもんじゃないよ」

「いやいやいや……作ってもらえるだけいいじゃん」

 そういうものだろうか。一緒に住むにあたって家事はある程度分担しようと話し合い、掃除や洗濯は松本が、料理や生活用品の買い出し等は高嶋がやることになっている。お互い生活していくうえで嫌にならない程度に、負担にならない程度に手を抜いてやろうという話だったが、そう言われてみれば毎日、家に帰ると晩飯が用意されていることに気づいた。高嶋の帰りが遅い時などは前日の残りがあるし、バイトも高嶋は土日の朝から夕方までしか入らないため、松本が晩飯に困ることは無かった。

(……ん?)

 ということは、松本の帰りの時間や自分の帰りの時間を考慮したり、バイトの時間を調整したりして、松本が家に帰れば必ず晩飯があるよう配慮しているということなのではないだろうか。と、そこまで考え至り、松本は思わず緩みかけた口元を手で押さえた。

(健気かよ……)

 今更ながら、松本が気づいていなかったとはいえ、気づいてしまえばこんなにも顕著なものなのだろうか。俺のこと好きだよね、と言ったとき、きっと高嶋は鳩が豆鉄砲食らったような顔をしていたのだろうから、もっときちんと見ておけばよかったと後悔する。

「え? なになに、その反応」

「え? なにが?」

 反射的に出した声が裏返って、城山が声を上げて笑う。

「いやいやいや、わかりやすすぎでしょ」

「いやいやいやいやいや。なにが?」

 取り繕うように返す松本を指差しながら、「ほらもう反応が!」と城山が本当におかしそうに笑うので、松本は意地になって「何がそんなにおかしいんだよ」と声を荒げた。

「前から思ってたけど、同居人の話になるとすっごい思い出し笑いするよね」

「してねえよそんなに」

「自分で気づいてないんでしょ。仲良いよねホント」

 城山は高嶋を知らない。それどころか同居人が男か女かも伝えていないので、城山は相手が松本の何なのかを把握していない。ただ、同じ大学の別の学部にいる誰か、ということを知っているのみである。

「一緒に住んでて嫌になることとかない?」

「全然あるよ、そんなの山ほどある」

「例えば?」

「靴脱いだら直してって言ってるのに脱ぎっ放しにするし、上着も脱いだらその辺に置くし、靴下丸めて洗濯機に入れるし、あとどうでもいいこととかですぐ電話かけてくるし」

 言い始めると止まらなくなってきて、松本は思いつく限りいつも高嶋にやめてと怒鳴っていることを例に挙げる。堰を切ったように話し出した松本が数分後、(なんでこんな話してんのかな)と疑問に思って話すのを止めてしまうまで、城山は缶珈琲を啜りながら時折うんうんと相槌を打ちつつ聞いていた。松本が言葉を止めて、沈黙が数秒流れて、城山は自分から聞いておいて全く興味がなさそうに「ふうん」と言い、

「好きだねぇ」

と締め括った。
 松本はもう溜息も出尽くして、額に手を当て項垂れた。

「……今の話で、なんでそう思うわけ」

「だって、そんなに山ほど嫌なことがあるわりにさ、楽しそうじゃん」

「楽しそう……?」

「またしてたしね、思い出し笑い」

 松本は苦々しく「してない」と言いながら、両手で顔を覆うように撫で擦った。その様子を見てまた城山が声を上げて笑った。
 それから松本が話題を変えようと全く関係のない話を振ったあと、何度か過去の恋愛や自分の恋愛観についての話にもなったが、城山はもう同居人のことには一切触れてこなかった。そういうところが付き合っていて楽だと松本は思う。城山はなんだかんだ面倒見が良く、神経質なところが玉に瑕だが、人の顔色をよく見ている。松本は(そういえば最初ってなんで仲良くなったんだっけ)と少し思い出そうとしたが、全く覚えていなかったため止した。
 空き時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、松本は城山と連れ立って次の授業の教室へ移動した。その間に高嶋に折り返しの電話を掛けたが、繋がらなかった。



 授業を受けながら松本は、城山の言葉を思い出していた。

「思い返してみると、自分の中では一気に燃え上がるようなものが『恋愛』って感じはするんだけど、たまにさ、家に帰ったら居て欲しいなって思うような、あ〜こいつのこと好きだわ〜っていう気持ちが晩飯食ってる時にしみじみやってくるみたいなさ、なんだろ波長が合うっていうのかな、そういう人と付き合った時のほうが不思議と長続きするんだよね」

 その感覚は松本が高嶋へ抱いているものに少し近い気がした。そういう気持ちで繋がる関係も『恋愛』と呼べるのなら、高嶋のことが好きで、これはきっと『恋愛』なのかも知れない。けれど、松本はどうしてもこの関係を『恋愛』とは呼びたくないと思った。



(2020.02.18//appease)

incite

 問題が解決しないうちは発熱したり魘されたりが続くかもしれないと思っていたけれど、案外松本の日常には平和が戻っていた。あの一週間が嘘のように、何もなかったかのように高嶋は二度とあの時の質問を投げかけてはこなかったし、松本から口に出すこともしなかった。ただ、考えて、と言われたことを自分なりには考え続けていた。今まで通り接してくる高嶋を見ていると、好きじゃなければそもそも一緒に住んだりしない、くらいは言えばよかったなと後悔している。けれど、高嶋が訊ねてきた好きかどうかはそういうことではないのだろうから、言ったところでなんの意味もないことも分かっていた。
 松本が高嶋に訊ねたのはどういう意味か、もしもあのとき高嶋にそう問われていたら確実に「友達としてという意味だ」と答えていただろう。それは天邪鬼な自分が吐きそうな尤もらしい言い訳だ。そうでないことは明白なのに、と松本は口を歪める。一緒に住んでいるばかりかセックスまでしているのに今更友人として好きかどうか訊ねるなんて頭がおかしいではないか。そして、高嶋の回答が友人として好きだという意味ではないことも分かっていて、その回答を聞き高嶋の態度や様子の何故が解明されたことにすっかり満足してしまって、自分はどうなのかと問われることなどは想定外だった。松本はそこまで考えて自らの最低さに溜息を吐いた。

(まあ、ふつう訊くよね)

 そもそも恋愛においては、相手に真っ向から好きだと言うほうだと松本は思っている。これまでの恋愛で数こそ少ないが、松本から相手に好きだと言ったことも勿論あるのだ。思ったなら口にするし、思っていないことは口にできない。あの日問われて、考えろと言われて、乱雑にとっ散らかった頭の中で松本は一生懸命考えたけれど、どれだけ脳の海を掻き回しても高嶋に対して恋愛感情の好きという気持ちが見つからなかった。かといって好きじゃないと言うわけにもいかないし、他に何と言えばよいのかも分からない。自分の高嶋に対する感情に名前があるのかなどは考えたこともない。それで言いあぐねていたら、結局高嶋が折れた。
 松本にとって恋愛の好きと、高嶋に抱いている感情とは根本から違っていた。前者は胸が高揚し、わけもなく馬鹿なことがしたくなったり、四六時中会いたくなったりするようなものだ。ならば後者はというと、高嶋に対してはそういった「動」の感情ではなく、「静」の感情のほうを強く感じていた。一緒に居て楽しい、けれど、どちらかというと安息とか、安寧とか、心が落ち着くというほうが当てはまる。身体が触れると体温が心地良いと思う、声が聞こえるとずっと聞いていられると思う、身体を繋げると凹凸が重なるように自然のことのような気がする。アパートの部屋に一人でいると他人の家のように妙に落ち着かないくせに、高嶋がいると何処よりも安心できる自分の家だと思える。松本の中でそういうものはもう、恋愛感情ではなかった。

(好き、じゃない、絶対)

 松本は一人でうんうん頷いた。それだけは確実に分かっているのだと。だからそれより、自分の高嶋への感情を一言で表せる言葉が何か考えなければならない。どうしたものかと、手にしたスマートフォンの着信履歴を眺めた。先ほど授業中にかかってきた高嶋からの不在着信が表示されている。松本と高嶋の所属学部は違うので、当然一日のコマ数も帰宅時間も勿論違ってくる。しかし授業の開始・終了時間は変わらないということは、入学初日に確認し合ったことだ。曜日毎に違うコマ数や帰りの時間についても、夏休みが明け学期が変わった時に改めて伝え合っているのだから、今日のこの時間帯、松本が授業を受けているということは突然の休講などというイレギュラーでも起こらない限り高嶋も知っている筈なのだ。

(こいつ、出れないって分かっててやってない?)

「悩みごと? 珍しいじゃん」

 軽薄な声が聞こえてきて目を向けると、訪れた時には松本しかいなかった筈のサークルの部室にいつの間にか一人増えている。サークルの規模がそこまで大きくないため部室というよりは物置のようになってはいるが、一応は長机が一台、パイプ椅子が数脚ある。扉から最も離れた奥のパイプ椅子に腰かけている松本の隣の椅子に腰かけながら声をかけてきたのは、同級生の田辺だった。松本とは学部が違うためここでしか会うことはない。同級生とはいえ、田辺は二回留年しているので一応先輩ではある。しかし初対面から年上だと思えなくて、松本はこの二つ年上の人に敬語を使ったことが無かった。

「珍しいってなにどういう意味」

「いや、難しい顔してるのは初めて見たなって」

「俺だって人並みに悩む事ぐらいあるわ」

 あはは、と大声で笑う田辺こそ悩む事などなさそうに思えて、松本は今日何度目か分からない溜息を吐いた。

「で、何」

「ん?」

「そんなに悩んでるなら相談くらいのるよ」

「ええ……お前に相談かあ……」

 なんでそんな嫌そうなんだよ心外だな! と大して心外でもなさそうに笑って背中をバンバン叩かれた。力加減というものを知らないのかな、と思うくらいに痛かった。その痛みに半ば無理やり押される形で、松本はぼそぼそ話し始めた。

「いや……まあ、友達の話なんだけどね、俺じゃなくて」

 魔の一週間のことを掻い摘んで説明し、こういう感情は相手になんと言うべきか、何なのかが分からなくて悩んでいる、俺じゃなくて友達がね、とそこまで言うと、じっと押し黙って話を聞いていた田辺が突然思いっきり顔を上げ、廊下にまで響き渡るのではないかというくらいの大声でたった一言、たった一言で松本を串刺しにした。

「好きじゃん!」

 一瞬、時が止まったのかと思うほど松本はその一言に硬直した。しかしすぐに、違う、そういうことじゃない、ていうか声でかいな、と気を取り戻し改めて説明しようとした。伝わりづらかったのかも知れない。再び「あのね」と口を開いた松本に、田辺はにべもなくもう一度言い放った。

「それはもう好きでしょ、好きってことじゃん!」

「いや、待って待って、違うんだって」

「いやそれ以外ないでしょ、お前はその相手のこと絶対好きだよ」

「だから俺の話じゃなくてぇ……」

「この際どっちでもいいよ! 好きでしかない!」

 頑なに好きだと言い張られ、自分の話ではないと言っているのにそんなことはどうでもいいと田辺は松本の言葉に言葉を被せ矢継ぎ早に独自の理論を展開していく。聞いているうち、そうなんだけど、そうじゃなくて、しか言えなくなってしまい、松本は相談などするべきでなかったと後悔でいっぱいになった。

「何で迷ってんの? 何が気に入らないわけ? 俺には全然分かんないんだけど! 俺がお前の立場だったらもう速攻で好きって言う、俺だったらね」

「うっわあ! うるさい! もういいわ帰るわ!」

 長机に放り出してあったリュックを掴み、うるさい、好きでしょ、うるさい、好きじゃん、うるっさい、と応酬しながら田辺を振り返ることもなく松本は部室を出た。好きではないと言っているのに、好きでしかないと言われ、恐らく彼とは価値観が違うのだろう。次の授業に向かいながら松本は(だから、好きとかじゃねーんだよ。なぁ?)とすれ違う学生に心の中で問いかけた。そのたび、その学生の背後から田辺が現れ、「好きじゃん!」と言われる幻覚が見え、一旦落ち着こう、と空を仰いだ。



(2020.02.14//incite)

issue

「お前は俺のこと好き?」

 恐らく地獄に飛び降りるくらいの勇気を振り絞って言った。高嶋の心臓はずっと早鐘を打ち続けていて、今にも破裂するかと思うほど胸の中で暴れ回っていた。無かったことのようになっていた言葉を、その返事をわざわざ蒸し返してくる松本に、もうどうにでもなれ、という気持ちが胸の殆どを占め嘘偽りなく答えたものの、松本がどこか満足気に「そっか」と答えて終わろうとしたのに慌てた。どうしてもう一度聞いてきたのか、その答えを知りたくなってしまった。けれど慌てて訊ね返したものだから、高嶋の口からは何よりも気になっていたことが零れ出た。言ってしまった後で言わなければよかったと思った。しかしだからこそ、何が何でも逃がすわけにいかないと思った。松本の、ばつが悪くなるとすぐに逃げの姿勢を見せる性格は理解していたしそういうところを何度も仕方がないなと見守ってきた。かわいらしいとすら思っていた。しかしここばかりは逃がすわけにいかない、たとえ身体を押さえつけてでも返答が欲しかった。でなければ自分の気持ちのやり場が無くなる。それも、一つ屋根の下に居て、だ。しかし、そんな高嶋の決心を知ってか知らずか、何を聞かれたのか分からないような裏返りかけた「え?」のあと、松本は上体を起こし座り直すと、自分の頭を抱え始めた。
 高嶋は煙草を消して松本に正面から向き直り、重ねて訊ねる。

「俺は好きだけど、るーさんはどうなの」

 どうって、と困ったように言いながら、どうしてそんなことを聞かれるのだろう、とでも言わんばかりに見張られた松本の目と、高嶋の目が合う。瞳が僅かに揺れていて、松本の動揺が見て取れた。目を逸らされないよう瞬きも忘れてじっと見つめ続ける高嶋の気迫に押される形で、松本は小さく口を開く。

「……考えたことなかったし」

 今にも逃げよう、逃げようと揺れる瞳がけれど逸らせなくて、身体だけ少しずつ高嶋から逸らせてゆく。そうして松本が少しずつ逃げを打つのを見ている高嶋の視界には、既に松本以外何もない。松本のためにと部屋中を湿気で満たしたせいか、頭の中にまで響くどくんどくんと五月蠅い心臓のせいか身体が熱くて堪らず、高嶋は震える指を握り締め渇いた喉で浅い息を繰り返した。

「じゃあ考えて」

「んん……考えとくわ」

「今」

「いま?!」

「うん、今考えて」

 高嶋の性急さに松本は、そんなこと言われても、と困惑と苛立ちが綯い交ぜになった表情で眉を顰め、ぎこちない動きで首を傾ける。そのうち唸りながら引き攣った笑みを浮かべ、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる勢いを利用して顔を伏せた。それで、高嶋は射止める視線を今度は松本の全身に浴びせながら、松本が自分の目を見てくれることはもう二度とないのではないかという気がしてきた。そう思うと更に焦り逸った気持ちが、時間の体感を狂わせる。一秒を一分に、一分を一時間に。そして、どれくらいこうしていればいいのだろうという不安がどっと押し寄せてくる。そもそも終わりがいつかが分からない。この距離で、目も合わせず、触れもせず、互いに座ったままどれくらいの時が経てばまた身を近づけ、目を合わせ、触れ合うことが叶うのだろうか。返答次第ではもう一生叶わない。しかしその返答を待つこの永遠のように感じられる気の遠くなるような時間も、終わりが分からないのだから既に『一生叶わない』の延長線ではないのか。ならば自分はいったい何をしているのだろうか。高嶋がこうして自分の言動の意義を見失いそうになっていても、目の前で松本は頭を抱えて顔を伏せているばかり、一向に何も言おうとはしない。

(やばい、吐きそう)

 緊張のせいで何かが腹の底からせり上がってくる。胃がひっくり返りそうなくらい痛い。なのに松本は、本当にどうすればいいか分からない、もう逃がしてくれと可哀想なくらい身体を縮こめている。高嶋は、冗談ではない、逃げたいのもどうすればいいか分からないのもこちらで、早くこの緊迫感をなんとかしてくれと懇願したくなってきた。そして怯えているかのように見える松本の反応に、泣きそうになった。そうしたら、絶対に今じゃない、そういう悪癖が高嶋の全身を襲った。

(ああもうだめだ)

 高嶋は松本のほうへ身を乗り出すと、驚いて身を竦めた松本をできるだけそっと、思いつく限りの優しい思い出を頭に浮かべて抱き締めた。きっと今の松本の全身で唯一柔らかいであろうその髪に顔を埋め鼻から一気に息を吸い込むと、ぶわ、と身体中が何かに包まれるような心地がして、指先までじんとした痺れが走った。顔を上げて口から息を吐くと、吐けば吐くほど、肺に溜まった毒も同時に吐き出されていく気がした。

「……なんでもいいか」

 すべての毒が口から出て行った後は、そんな言葉が出た。松本に逃げられたくないと、逃がさないと決心していたのに、散々追い詰めるうち自らを追い詰めていって、結局は高嶋自身が逃げてしまった。その言葉のやり取りにどれほどの意味があるのだ、考えたこともないという人に考えろと答えを迫ったところで、きっとどんな言葉でも受け入れられない。高嶋はそうやって自分に言い訳をする。結果的に松本は逃げていない、自分が逃げたのだから、気持ちのやり場などどうとでもなる、と。そうしたら、驚くほど一瞬で、緊張も胃の痛みも身体の熱も鎮まって、喉の渇きだけが残った。

「ごめん。なんか……うん、もういいや」

 そう続けると、腕の中の松本の身体が徐々に柔らかさを取り戻していくのが分かって、高嶋は腕の力を強めた。「なんなんだよ」と苦々しい声が聞こえてきて、答えずにいると、大体いきなりそんなこと言われても困る、と非難の言葉が続く。自分のことを棚上げして高嶋を責める松本の声が、それでもいつものように勢いや元気がなくて、言わなければよかったと、なんなんだろうと自分でも思うけれど、もう全部どうでもよかった。どうでもよくなってしまった。少し躊躇った後、身体を離して言った。

「ごめん、わけわかんなくなっちゃった」

 そう笑った高嶋を見て、松本は「俺は最初からわけわかんない」と苦笑しただけだった。その目に明らかな安堵の色を見つけてしまい、高嶋は鎮まった心臓に小さな棘が刺さったのを感じた。そしてそれが顔に出てしまうのを恐れ、台所で未だ沸騰し続けている鍋と薬缶の火を止めに行くためその場を離れた。






 松本がバイトに行くのを車で送り、スーパーに買い物に行ってから帰ってきて、高嶋は一気に脱力した。深く長い溜息を吐いて、玄関の扉を閉めたその場に座り込む。

『うっさんて、俺のこと好きだよね』

『うん』

 先ほどの会話を思い出して、高嶋は顔面から火が出そうになる。言われて反射的に答えた時、暫く沈黙し目が合ったが、松本がスマートフォンにまた目を戻したため、その間に頭を大学受験よりも回したのではないかというくらい回して、何を言われたのか、どういう意味なのか、どう返せばよいのかを必死に考えた。

『嫌いな奴と一緒に住んだりしないし』

『ああ、うん。そっかぁ』

 松本の反応がどう見ても思い付きで発した一言だと物語っていたし、友人として、という意味で言ったのだろうと、返事も聞いていなかったのだろうと高嶋は自分の中で無理やりに結論付けた。それを裏付けるように松本は高嶋が何を言ってももう上の空だったし、何事もなかったかのようにバイト先まで送られると車を降りる直前、晩飯はパスタ以外にして、と笑った。
 高嶋はもう忘れようと思った。きっと松本も思い出さない。それどころか、覚えてもいないだろう。ただ友人として好きか嫌いかの話をしただけだ、それに当然のことを答えただけだ、何の問題もない。高嶋は一生懸命考えることを止めようと思った。いつものように、この関係が長く続くように。けれど駄目だった。考えることを止められないどころか、泉のように溢れ出してくる気持ちを抑えられない。高嶋は自覚してしまったのだ。

(分かってなかった)

 自分に何が足りないのだろうとずっと考えていた。松本のこととなると高嶋の中に生まれてくる不可思議な感情の源泉がなんなのか、ずっと分からなかった。それがやっと分かって、高嶋は背筋が凍るような思いでいっぱいになった。

(今更、今更過ぎて)

 元々、声をかけてきたのは松本だった。予備校でよく見かけるなと思ってはいたが、模擬試験の時に盛大に寝坊して時間ギリギリに教室に入ったら隣の席になった。恐らく松本もギリギリに来たのだろう、高嶋が来た時にはまだ席に着いたところといった様子で、松本は上着を脱いで鞄から筆箱を出していた。松本がそのとき高嶋のことを知っていたかどうかは知らない。ただ高嶋もまた幾つかの教科でクラスが被っているな、というだけの感情しか持ってはいなかった。試験監督官が時計を見て開始の合図を告げたのに高嶋も慌てて準備を済ませ、問題用紙をめくったところで、隣から、あ、と小さく声が聞こえたが、それどころではなかった高嶋は黙殺した。カリカリとマークシートを塗りつぶす音と問題用紙をめくる音だけが響く教室で、途中、あまりにも問題が解けず諦め気味になった時、隣の松本の様子が目に入ってきた。そういえばあとかなんとか言っていたな、と思いながら眺めていると、どうしよう、と言わんばかりにソワソワ前を向いたり手元を見たりしていて、どうやら消しゴムを忘れてきたらしい、それで試験監督官に言おうか言うまいかしているようだった。その姿があまりに可哀想に見えて、高嶋は持っていたまだ新しい消しゴムを二つに割り、差し出した。最初の試験が終わり、松本は試験監督官に駆け寄ると一言二言交わし、消しゴムを借りられたらしい、無言で戻ってくると気まずそうに消しゴムの片割れを返してきて、高嶋も無言で受け取った。五教科の模擬試験は昼飯を挟んで夕方に終わる。精神力も体力も持って行かれて溜息しか出なくなっていた高嶋に、帰る準備を済ませた松本が少しの躊躇いの後、話しかけてきた。飯行かない? とだけ。
 それから志望校が同じということが分かると少しずつ予備校外でも会う回数が増え、夏が過ぎ秋を超え冬が来て、いよいよあと数日後には運命の試験だという頃に、高嶋は「受かったら、一緒に住もう」と提案をした。松本は迷う様子もなく快諾し、受験を終え自己採点の結果きっと二人とも合格ラインだろうという希望が見えたので、二人でアパートを探した。この時から松本のことを意識していたのかどうか。定かではないが恐らく少しは友人以上の何か、複雑な気持ちをほんの少しだけ持っていたのだろう。水の入ったグラスに赤ワインを一滴落とした程度の、薄っすらとしたものだったと高嶋は思う。そもそも高嶋には友人というものが幼馴染を合わせて二、三人くらいしかいない。好きなことだけして必要なだけ学校に行っていたらそうなって、流石に入れるところでいいから大学には行っておこうかなと思いついたところで担任に相談すると予備校を進められた。そんな高嶋なので、友人の中では一番気に入っているのかも知れないとか、一番一緒にいて楽だとか、それくらいにしか思っていなかった。恋愛対象も男ではなかったし、松本のことが女に見えたこともない。けれど、松本の距離が高嶋に物理的に近づくと、そのまま触れることが自然な気がした。特に一緒に住み始めてからは隣に座ったり近くにいたりすると、必ず身体のどこかが触れる。触れると、もっと触れてみたくなって、それがどうしてなのか考えもせず、高嶋はやってみようと言った。松本は悪ふざけの延長のように、興味本位だけでいいよと答えたように見えた。それが最初のセックスで、最初こそ散々だったが、どうすれば良くなるのかなど調べて実践を繰り返し、それが高嶋には新しいゲームのように面白かった。二回目こそ痛いからと嫌がった松本も高嶋に押される形で付き合い、恐らく五度目か六度目になって漸く高嶋がコツを掴んだ。それからはもうお互い暫く病み付きになった。高嶋は初めて松本が自分の手で自分の身体の下で乱れに乱れた時、その光景だけで達してしまうかと思った。動かす度にびくんと跳ね震える肌が、細められた目元が、そこに滲む涙が余りに煽情的で、耳に届いてくる言葉にならない声が高嶋の思考を掻き消して、セックスがこんなに気持ちが良いものだったのならきっと今までの行為はすべてセックスではなかったのだと価値観が変わってしまうほどの快楽だった。
 昼夜問わず、どちらが言うともなく、突然始まり際限なく求めあうようにのめり込んでいたのが徐々に落ち着いていき、夏休みが終わる頃には高嶋は、一回一回を大切にしようと思うようになっていた。行為が激しさを増せば増すほど食べることも寝ることも忘れてそればかりしていたくなり、身体には疲労が溜まりどんどん瘦せていったし、更に何度もバイトを無断欠勤してクビになったことで二人とも一旦頭が冷えた。日常生活に支障が出ない程度、一回一回を味わうようにゆっくりと。そうしてみれば驚くほど満足感が高かった。そして松本に触れたいけれど触れない、そんな生活の中で、高嶋は自分の中に妙な衝動があることに気づいたのだった。

(自覚しなきゃよかったなぁ)

 真っ白のレポート用紙を目の前に、ペンを持つ右手は微動だにしなくて、高嶋は先に晩飯の用意に取り掛かることにした。パスタ以外と言われて買ってきた材料を並べ、カレーを作り始めた。
 夜の十時過ぎ、帰ってきた松本は何の感想もなくカレーを食い、食べ終わった食器を流しに置きがてら「これ三日くらい続くんでしょ」と忌々しそうにカレーの入った鍋を見つめていた。松本の予言通り、カレーは三日続いた。
 高嶋は忘れることに決め、それに徹した。自分からは二度と蒸し返さない、自覚した感情もどうにかして折り合いをつけようとした。そうしなければ一緒には居られなくなってしまう。松本との生活すべてにひずみが生じる。それだけは避けたいと、その一心でなんとか上手くいっていた。そしてやっといつも通りに戻ってきたと思ったその日、帰宅すると松本が魘されて寝込んでいて激しく動揺した。思いつく限りのことをしたし、このまま気が付く様子がなければ救急車を呼ぶか負ぶって車に乗せ病院へ行こうと思っていた。大袈裟かも知れないが、魘されていた松本がふっと静かになった瞬間、このまま息が止まって死ぬのではないかと思ったのだ。微熱だと分かってから少し落ち着いて、松本がおかしそうに笑ったのを見た時に漸く、心の底から安堵した。全身から鉄の皮が剥がれ落ちたようだった。
 カブトムシがどうとか言う松本に返事をしながら、高嶋は心の中で自分に言い聞かせた。もう自覚してしまったのだから、自分の気持ちだけは否定も無かったことにすることもできない。松本のことはきっとずっと前から友人だとこれっぽっちも思っていないし、これからも思えない。けれどそれでも、松本が高嶋を友人だと言えばそれで良いと。このまま友人としていれば、この狭いアパートで二人の時間が続くのならそれで構わないと。けれど松本がそれ以上を望むなら、その時は。
 煙草に火をつけ、横目で盗み見る。高嶋の言葉に笑いながら、松本は少し遠い目をして天井を見ていた。話すのを止めると、鍋と薬缶の沸騰する音だけが部屋に響いていて、煙草を吸い終わったら止めに行こうと高嶋は灰皿に灰を落とす。暫くそうしていて煙草が半分ほど燃え落ちたとき、落ち着いた静かな声を高嶋の耳殻が拾い上げた。

「こないださあ、お前に俺のこと好きだよねって言ったじゃん。……おまえなんて返事した?」

 まっすぐ見つめてくる松本の目を見られなくて、真意を測りかねて、じっと答えを待たれてしまって、高嶋は言い淀んだ。返事を聞いていなかったからもう一度訊いたというのであれば、前と同じように茶化してしまえばよかった。けれど実際は聞いていて、その上でもう一度尋ねてきているのだとしたら。高嶋が曲解したと思い、それを正そうとしているのだとしたら。悩みに悩んだけれど、考えれば考えるほど高嶋には正直に言うほかもう道が残されていないように思えた。僅かな希望を抱いてしまったから。



(2020.02.13//issue)

dissolve

 そういえば秋も終わるんだったな、と松本は大学からの帰り道ふと目に入ってきた枯れた銀杏並木を見て変に感慨深い気持ちになった。教授の都合で午後の予定に穴があき、そんならもう帰るか、と食堂で適当に昼飯を食べたあとは何処に寄るでもなく徒歩七分のアパートまでゆっくりと歩いていた。帰宅後にアパートで昨晩の残りを食べる選択肢もあったのだが、高嶋がまだ帰っていないため自分で用意しなければならない。それは松本の中ではできれば避けたい面倒事の一つだったし、買って帰るとなると一旦アパートを通り越したところにあるコンビニまで歩かなければならない面倒が発生する。多々ある面倒事を避けようとした結果、学校の食堂が一番合理的な気がした。合理的だなんて、気まぐれにしか考えないくせに。松本は近頃、自分がどんどん分からなくなっていた。

「俺のこと好きだよね」

 数日前自分の口を突いて出た言葉が蘇ってきて、松本は風邪対策につけているマスクに隠れるように縮こまる。

(なんだよそれぇ……)

 あのとき松本はなんの感情も持たずそう言った。だから、高嶋の返答も実はよく聞いていない。え、と言って目が合った後、何かヘラヘラ笑って言っていた気がするが、スマートフォンに届いていたメッセージの返信に気を取られ、ああうん、そう、と気のない相槌を打っただけだった。そして時間になると、買い物に行くという高嶋の車に乗せてもらいバイトに行き、バイトを終え帰宅すると晩飯を食べ、レポートが終わんねえと騒いでいる高嶋を只管揶揄って先に寝た。そうして週末が終わり平日の朝になると、二人して学校に行き、アパートの部屋では馬鹿みたいな話ばかりして、レポートに追われながら夜には一つの蒲団で眠る、変わりない日常を三日も続けた。
 四日目の昨夜、風呂に入っていて松本は叫んだ。そんな言葉が口から出た自分に、四日も経って今更死ぬほど驚いた。湯船に潜って(うううわあああああ)と盛大に叫んでしまった。口に出した時は、思ったこともなかった、というか、考えたこともなかったのだ、高嶋が自分をどう思っているのかなど。しかしそれもおかしな話で、厳密に言えば自分が高嶋に感じていることを高嶋も同じように感じることがあるのだろうか、というところまで考えが及んでいたのは確かなのだから、それは「考えたこともない」というには当てはまらない筈である。そしてそれは加減乗除すればいつかは好きだとか嫌いだとか何らかの感情の解に結びつく因果性を持っているというのに、松本の中にそういった方程式の概念が影も形もなかったため、松本にとっては「考えたこともなかった」のであり「なんとも思っていなかった」とせざるを得ない、所謂「どうすればいいか分からない」で頭の隅に放置され存在も忘れ去られた難解な文章問題であった。それが急激に、どこからか方程式が現れ勝手に値を代入し解を導き出してきた。それを唐突に理解したのだ。
 端的に言って衝撃の事態であった。

(今、完全に序盤で死ぬ人間に成り下がってる)

 映画やドラマなどの物語上あまり好ましくない展開であり、そんなようなことが自分に巻き起こっている現状に、身体中が警鐘を鳴らしている。脳だか胸だかに発生した危険因子の細胞、もしくはどこからかやってきて体内に寝床を作らんとしている悪性ウィルスを、手遅れにならないうちに破壊せんとしている。だから、心臓はうるさいし発熱したように全身が気怠く頭痛もするのだと、松本は頭を左右に大きく振った。振って、叫び出したいような心地の悪さを払拭しようとした。けれどなかなか頭は晴れない、胸はむかむか詰まりゆくばかり、ああもうなんなんだこれは、気持ちが悪くて仕方がない。そんなふうにして頭を振り時には走ったり何度もぶつかりそうになったり倒れそうになったりしつつ、なんとか無事アパートまで帰った。
 アパートの部屋に入って松本はすぐさまシャワーを浴び、部屋着に着替え、寝た。眠るしかなかった。もしかすると風邪をひいたのかも知れない、だから思考がおかしくなるのかも知れないなどという一縷の望みにかけた。昼飯を済ませてきて正解だったと独り言ち、目を瞑るとすぐにやってきた睡魔に身を任せて眠りに落ちた。



 部屋に充満した湿度と何かが煮えている音で目が覚めた。枕元のスマートフォンを手に取り見ると夕方の四時、どうやら三時間ほど眠ったらしい。身体の気怠さはとれていない。頭の中も晴れていない。それどころか衣服の下に薄い膜が張っているみたいに身体中ぞわぞわして、熱いのに寒い、そして汗でびっしょり濡れている。これは本格的に風邪だ、と思うと心のどこかがすうっと軽くなった気がして、松本はゆっくり寝返りを打ちまた目を瞑る。

(なんだ)

 心配する必要などなかったんじゃあないか。松本は与えられた安心感に、もう何も考えなくていいのだと背中を撫でられているような心地がした。

「るーさん、起きた?」

 高嶋の、身体の芯に響くような低くて優しい声が聞こえて、声のしたほうに身体ごと向けると、額に高嶋の冷たい手が触れてきた。

「……?」

 頭が回らなくて目を何度か瞬きながら見遣ると、いつもヘラヘラ緩んでいる口元が至極真剣に引き結ばれている。何かそんな大変なことでもあったのかと起き上がろうとすると、ああいいから、と慌てて制された。

「俺もさっき帰ってきたばっかなんだけど」

 これ、と体温計を手渡され、面倒だなと思いながら服の下に潜り込ませる。脇の下に挟むんでよかったっけ、と同時に、そういえばうちに体温計なんか常備してたかな、という疑問が浮かんできて、もしかしてわざわざ買いに行ったのだろうかと傍らの高嶋を見た。やはり真剣な表情の高嶋はコンビニのビニール袋をあさって冷却シートを取り出し、松本の額に否応なしに貼りつける。

「……いや、まだ熱測ってないじゃん」

「や、もう、触ったらわかった」

(じゃあ体温計要らないじゃん……)

 何こいつ、と松本は台所のほうへ向かう高嶋の後ろ姿を眺めた。確かに帰宅してすぐなのだろう、部屋着に着替えることもなく今朝一緒に出た服装そのまま、ばたばたと歩き回っている。松本の目には、アパートにいる高嶋が外出着のまま、というのがなんだかちぐはぐに映った。最近では高嶋の姿を思い浮かべる時必ず部屋着というくらい松本には珍しい光景で、やっぱりだせえな、等と考えられるほど外出着姿をまじまじ観察することも久しい。玄関に目をやると、あれだけ脱いだら直せと言っているのに脱ぎ捨てられた靴があって、適当に置かれたのであろう鞄が転がっている。台所では、加湿器の代わりに薬缶と鍋で湯を沸かし水蒸気を発生させているらしい。

「ちょっと俺、電気屋行ってくるわ」

 高嶋が上着と車のキーを片手に持ち、財布をジーンズの尻ポケットに突っ込みながら松本のほうを振り向かず言った。

「……え」

「やっぱ加湿器ないと。部屋の湿度大事って親も言ってたし、あとなんかこないだテレビでも見たし」

「……いや、いいよ大丈夫」

「鍋とか薬缶だと、ずっとってわけにいかないし」

「大丈夫だって……そんな大袈裟にしなくて」

「あ、ついでになんか食いもん買ってくるよ、ゼリーとか」

「ねぇ、ちょっと」

「あと……」

「うっさん!」

 俺はカブトムシじゃないし、というセリフが頭の中に浮かんでいたのに、こちらを見ず出かける準備をしながら話している高嶋を見ていたら思いのほか大きな声で呼び止めていた。びた、と動きを止めた高嶋が驚いた顔で松本を見つめてくる。松本も内心、自分の声の大きさに吃驚している。そこにちょうど、ピピピピ、という控えめな音で体温計が割り込んできた。確認すると微熱程度の数値で、溜息が出た。

「……ん、熱ないから」

「それは嘘だろ」

「ないもん、ほら見てみろって」

 高嶋に体温計を手渡すと、あるじゃん微熱じゃん、とかなんとか言いつつも、安心したように強張っていた顔が少し緩んだのに松本まで安堵する。正直、体温計を見るまではもう少しあるかと思っていただけに、微熱程度で大慌てされたことが逆に恥ずかしくなってきた。

「お前が大袈裟すぎて俺まで不安になったわ」

「だって帰ってきたらお前、汗だくで魘されてて、触ったらめちゃくちゃ熱くて」

「えっ」

 絶対に高熱だと思った、とテープの巻き戻しのように財布も車のキーも上着も元あったところに戻していく高嶋が言うには、帰ってくると松本が汗だくで魘されていて声をかけても揺すっても起きず、そのうち静かになって苦しそうな息遣いだけになったため、慌ててコンビニに行き体温計や冷却シートなど思いつくものを買ってきたのだそうだ。特に夢の記憶がなかった松本には寝耳に水の話だが、眠る前に散々あれやこれや悩んでいたことを考えると魘された原因としては高嶋以外にあり得ない。自業自得だ、と言いかけるが、その言葉は自分にこそ当てはまるような気がして口にするのを止した。

「よかったわ、お前がこのまま飛び出して行ってカブトムシ用のケージとか木くずとか買ってくんじゃないかって」

「なんでカブトムシ」

「おまえ湿気がどうとか食いもんゼリーとか、俺のことカブトムシみたいに言うから」

 言いながら面白くなってきて松本が笑うと、高嶋も笑う。やっとあの神妙な顔からいつものにやついた表情に戻って、松本は頭の中の靄が晴れていくのを感じる。そしてやはり、高嶋と居ると考えることを放棄している自分に気が付く。

「虫と思ってるやつとやるって、サイコパス通り越してもう、やばすぎるでしょ」

 高嶋の相変わらず語彙力のない言葉が変に耳馴染みが良いことも、松本はできれば考えないでいたいのにと思う。けれど、そうして何も変わらず何も考えずにいるとまた魘されて熱を出して、こうやって大慌てされるのかもしれない。カブトムシ扱いは二度と御免だ、と松本は腹を括る決意をした。恐らく自分は心のどこかで逃げていたいと思っていて、ずっと逃げ回ってきて、きっとそのつけが回ってきたのだ。そろそろ男らしく向き合ってやろう。

「こないださあ、お前に俺のこと好きだよねって言ったじゃん」

 急になんの話だ、と言わんばかりに、隣に座って煙草を吸っていた高嶋の腫れぼったい一重がぱちぱち瞬いた。ぶっさいくだな、と思いながら、じっとその目を見つめる。

「おまえなんて返事した?」

「……え? え……んんん」

 唸りながら今度は気まずそうに目を逸らされて、その様子にやけに頭にきた。松本が聞いていないと思って適当な返事をしたのか、それとも二度は言いづらいことを言ったのか。どちらにせよ想定していたものより数倍苛立つ反応を見せる高嶋の言葉を待つ。暫く一人で斜め上のほうを見たり、下を向いて何か考えたり、たまに覗き見するように松本の反応を窺ってきたり、高嶋はめいっぱい時間を使って悩んでいるようだった。そのうち、息でも止めたのかと思うくらい顔を逸らしたまま静かに動かなくなって、蚊の鳴くような声で一言、

「うん」

 と呟いた。

「そっか」

 松本は満足した気になって、深く息を吸い込んで、吐いた。なんだ、自分は結局高嶋の返答が気になっていたのだ。一気に身体が軽くなったような、悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなるほどに清々しい気分だ。そうかそうか、と言いながら、もうひと眠りしようと蒲団を被り直す松本を、高嶋の声が引き止めた。

「おまえは?」

「え? 何だって?」

「いや、だから……」

 言い難そうにしながらも、決して逃がしたくないという瞳が松本を見据えてくる。なんなら腕を掴まれているのかと思うほど。思わず自分の腕を見て、掴まれてはいないことを確認して、また高嶋の顔を見る。高嶋はゆっくりと、何か決心したように言葉を繋げた。

「お前は俺のこと好き?」

「……え?」

(なんだそれは)

 考えたこともなかった。松本はまた新たな問題が浮上したことに、いつまでこの気怠い状態が続くのかと絶望を感じて頭を抱えた。



(2020.02.11//dissolve)