脅迫

 ふたりの間には何もないよね。


「数学の補習うっかり寝坊してすっげぇキレられた」

「俺それ現国でやったわ」

「昨日の晩やってたゲームがさぁ」

「お前の言う晩ってもはや朝だしな」

 夏休みに入ってすぐの期末テストの補習授業。行かなければ日数が増えてしまうからと寝坊をしても学校へ行く。受ける生徒がそれほど多くない補習授業は藁半紙にずらっと並んだ問題を全部正解できるようになるまで解き続けるだけ。終われば帰れる。終わらなければ翌日もやる。補習三日目の今日だったが俺も麗も終われる筈がなく、明日も学校へ行くことが決定した午後五時の教室前。どうせ行くなら泊まりに来れば、と麗が言った。まあお前がいいならそうしようかな、って返した。

「夏休みの宿題って」

「え、お前やんの」

「いや、やらないと担任が怖い……」

「ああ……数学ね……」

 一緒にいるとくだらない会話ばかりで感情の起伏があまりない。くだらなさすぎて笑えることはたまにある。でもどちらかといえば無表情で、一言、二言、ぽつぽつ話しているような時間が主だ。どうでもいいことが大半で、どうでもよくないことは基本的に話さない。相手が困ること、狼狽えることをわざわざ口にして喜ぶことも、どうでもいいことだからそうする遊び。どうでもよくないことを話して、どうでもよくないことを聞いて、どうでもいいと思われたりとかどうでもいいと思ったりとか、そんなことを懸念しているのかも知れない。ただ単にどうでもよくないような空気が嫌なだけなのかも知れない。昔とは違う意味で慎重に、けれど不躾に、次に口にする言葉を選んでいる気がした。

「……」

「……」

 会話が途切れれば、互いに自分のことに没頭する時間があって。お決まりというほどでもないがワンパターンでもある流れに任せて身体を繋げる。頭の悪い高校生の欲望に忠実な暇潰しというだけで、だからどうと何があるわけでもない。都会でもない狭い町のそれでも決して小さくはない世界でそこがすべてである筈がないなどと希望を抱きながら、多分、違った景色の日常をいつの日かなどという大層な夢もまた口先だけの慰みだ。望んでいても叶わないし、望まなくても変わりはしない。その証拠に俺もお前もさよならするとき手は振らない。次に会う約束も特に要らない。どうせまた気づいたら隣に居てどうでもいい時間を過ごすことは分かりきった日常だから。それがそんなに悪いことだろうか? それがそんなにくだらないことだろうか? そういう気持ちがあるのも確かだ。

 補習は結局きっちり一週間かかった。

「終わった?」

「おー、三日も泊まって悪かったな。お前は?」

「俺も今日で終わった」

「そっか。じゃ、帰るわ」

「うん」



 そんなことは殆どないけどたまに本気で何もすることが無い時にはやっぱりお前のことを思い出す。連絡先は知っているからその気になれば電話をかける。例えばお前なら何もしなくても、横に居るだけで互いに存在の意義が成立している気がするからだ。そんなことも殆どないけど考えることがなんにもなくなった時なんかにはたまにそんなふうに考えたりもする。俺の存在の意義とお前の存在の意義がなんなのか、考えても分からない。けれど二人でいることに意味はなくていい。それは空を飛んでいるのに手放しで目さえも瞑れる安心感を齎すからだ。

 なのに。

「デートとかしてみる?」

「熱でもあるの?」

「手とか繋いじゃって」

「本気でキモいね」

 お前の冗談まがいの一言、二言が、だんだんだんだん恐ろしくなってきたんだ。聞きたくない言葉がそのうちお前の口から転がり出てきそうで堪らない。背後から忍び寄ってきて振り向きざま切りつけられるかもなんて思えてきてしまったんだ。なんてことはない日常やなんてことのない時間がすべて意味を持ったとき、お前と俺は今以上の未来を想像しなければならなくなって、更に深く考えた結果、気付いてしまう。自分の存在意義があやふやであることに。お前はそれを知っていて、俺はそれが恐ろしくて、だんだんだんだん、一歩先を歩いているお前の背中を祈るように見詰めている。笑うお前の目の奥にある子供の駄々のような願いが、俺から未来を奪おうとしている。
 やめてくれ。奪わないでくれ。探さないでくれ。考えさせないでくれ。意味など与えないでくれ。なんていう、俺の願いもまた子供のような駄々であってお前の未来を奪っていいわけがない。

 ふたりの間には何もないよね?