choke

 意識だけが起きていた。まだ開かない目の、瞼越しに気配を探る。気怠げに動いた隣の体温が腕をすり抜け、足音を潜めようともせずギシギシ床を鳴らして風呂場に消えていった。真っ暗な視界で、高嶋は幾分かはっきりしてきた思考を組み立て始める。夕方五時からバイトだと言っていた松本が動き出したということは、今は昼過ぎ、二時か三時だろう。四六時中締め切られているカーテンからはいつも仄かな明かりしか漏れないから、恐らくいま目を開けても問題ないほどの明るさに違いない。あと数時間経てば照明をつけなくてはならないくらい暗くなり、その頃に彼は家を出てゆき、そうしたら自分は晩飯でも作って食いながら、明日提出しなければならないレポートをやるのだろう。二人の休日は大体そうして時が過ぎた。大体とは、バイト、レポート、セックス、そんなところ。すべてが必要不可欠なようでいて、すべて無くなっても生きていくのに支障がない気がすることばかりだ。なのにどれか一つでも欠けてしまうと自分が何者か分からなくなる気がすると高嶋は思う。大学生にとってレポートが必要とか不必要とかそういうことではなく日課や肩書を裏付ける事柄、そうであるが故の証や代償であるのと同様に、他の二つも高嶋には等しく思われた。

(だって、もうやめられない気がする)

 何故かとか、そういうことを考えても頭の悪い自分では答えに辿り着けないと分かっているので、高嶋はいつも考えることを止めた。何も見出さぬまま、けれどずっとこうしていられるようにできることはなんでもしようなどと思いつつ、かといって何をどうすればいいのか具体的には分からない。緩やかに、けれど確実に不変を求める。高嶋は漠然と、考えることをやめることが不変のためになるのだと思っていた。
 高嶋がそうしていちいち考えないようにするのには、もう一つ理由がある。松本のことを考えていると泣きそうになる時があるのだ。感傷の類でなく、ただ何かぐっと堪えなければ瓦解してしまいそうなものがこみ上げてきて、どうしようもないほど傷つけたくなるような、自分の何某かで相手の心を揺るがしてやりたい衝動がどくどくと全身の血管を駆け巡るのを感じて、涙が出そうになる。今もまた、昨日の松本の表情などを思い返して目尻に濡れた感触が広がり高嶋は眉を顰めた。なるべく大きくゆっくりと息を吸い込み、静かに長く吐いた。

「え、泣いてんの」

 心なしか低い声がすぐ隣で聞こえて、高嶋は薄っすら目を開けた。濡れた髪を無造作に掻き揚げ、顔を覗き込んできている松本が見える。どうした、と不思議そうに問いながら首にかけたタオルの端で高嶋の目元を擦ってきた。力加減がおかしくて、擦られた箇所がひりついたのに自然と高嶋は笑みを零した。優しいんだか、なんなんだか。いや、優しいんだけど。

(多分、そっぽむくんだろうな)

「心配してくれてる?」

 にやついてそう言った高嶋を見て、煙草に火をつけていた松本は一寸手を止め、目を逸らした。

「蒲団、濡らすなよな」

 ほら。予想通りの反応が返ってきて高嶋は笑みが止まらなくなる。先ほどまで寝転んでいた場所に胡坐を掻いて座り込み、髪からぽたぽた水を滴らせ、咥え煙草をふかしながら腕時計を手に巻き付けている松本の、タンクトップから伸びる白い二の腕に噛みつきたいと思う。つめたくて、柔らかくて、ほど良い弾力の歯触りを味わいたい。そういうことはなぜかこうしてただ取り留めもないことを話している時であったり、松本が他の何かに集中している時であったり、とかく「絶対に今じゃない」というタイミングでやってくる。それは正しく、高嶋が松本のことを考え、衝動に取り憑かれ、泣きそうになるという一連の流れである。またじわじわ目尻が熱くなってきて、高嶋は体を起こすと風呂場へ逃げ込んだ。衝動のまま行動に移すことが怖かった。
 意図しないうちに高嶋は松本の顔色を窺うことが癖になりつつあった。どんなことが嬉しいのだろう、どんなことで笑うのだろう、どんなことに胸を痛めるのだろう、どんなことで怒るのだろう。はじめは観察だった。小さい子供が初めて見た自分の知らない動物を観察して絵日記をつけるような感覚だ。そのうち実験になった。どうすればどんな反応を示すのか、そしてそれは自分と、自分以外で違いがあるのか。そうして一緒に住むようになり、身体を繋げるようになり、今は怖い。このままでは飼い殺すのではないか。自分はとてもひどいことをしているのではないか。だから高嶋はラインを探っている。どこまで許されるかの線引き。松本の顔色を窺い、まだ許されている、まだ傍に居られる、そのギリギリを数ミリずつ探り探り、歩を進めている。自分はいったいいつからこうなったのか、どうしてこうなったのか、と高嶋は熱いシャワーを頭から浴びて記憶を手繰る。けれどもよく分からなくて首を傾げる。

(何が足りないのか分からない)

 恐らく何かが欠けているから不可思議な感情が次から次に高嶋の脳みそを苛むのだと、思いこそすれ、自分に足りないものが自分で分かれば苦労しない。高嶋はうんうん言いながらシャワーを済ませて風呂を出た。松本がドライヤーを使っている後ろをすり抜け、そうだ、と冷蔵庫を開ける。買い物に行く必要があるのなら序に松本をバイト先まで車で送ってやれる、と思いつつ中を物色する。買い足さなければならないものはこれといって無い。が、今日行っておいたほうが後々都合が良いし、などという誰のためかの言い訳をしつつ、何を作ろうかと選択肢の少ない頭の中のメニュー表をぺらぺらめくった。

「晩飯なに?」

 髪を乾かし終えた松本が高嶋の後ろから冷蔵庫を覗き込んできて、松本の痛んだ髪に良いらしい、彼の好んで使うトリートメントの匂いが微かに漂ってきた。高嶋は駄目だ、と思うと同時に、息を止める。けれど自衛も虚しく、一旦身体に入ってきた香りが脳に作用して記憶を呼び起こすから、殆ど意味を成さなかった。

「ねえ、晩飯」

 おい無視すんなよ、と不貞腐れたように唇を尖らせて答えを催促してくるのに短く唸って装う。自分の心の揺れがばれていないか、そんなことを気にかけながら顔を隠すように考えているふりをする。

「パスタかな」

「えーっ! 昨日もパスタじゃん!」

 おかしそうに笑って松本が離れていって安堵する。高嶋は、松本の距離感は一寸普通ではないとたまに思う。なにせ、こうして一緒に住むようになる前から松本はこうなのだ。誰にでもというわけではないが、気心が知れると途端にふらふら近づいたり離れたり、かといって本人に大した意味はないところが凶悪で手に負えない。そのくせ、こちらが触れると恥ずかしそうに苦笑を零す意味が高嶋にはよく分からなかった。今も、冷蔵庫から離れコーヒーを淹れようとマグカップを用意している高嶋の隣に着替えた松本が戻ってきていて、びったりくっつきながら俺も俺もと促してくる。さっき離れたのではなかったか。いつの間に、と、ああもうダメだ、とが綯い交ぜになって、インスタントコーヒーの瓶を置き頭一つ分小さい身体を緩く抱き寄せ、こめかみにキスをした。途端、噎せ返るような香りが高嶋を満たす。一生をこの香りに包まれて終えたい、そう思わせる、麻薬に似て中毒性を持ち、確実に高嶋の何かを蝕んでいく。

「……ちょっと、もう。なんか、お前の触り方がイヤ」

「え、それは酷くね」

 ぐい、と手のひらで頬を押し返されて、お互い笑って離れる。茶化されてまた安堵した。二人分のコーヒーを淹れながら、そんなことより、と取り繕うように話し出した松本の言葉に耳を傾ける。松本の話はいつも唐突に始まり、唐突に変わって、気づいたら終わっていたりする。ジェットコースターみたいに話し出して、一人で満足する。バッティングセンターで只管豪速球を打ち続ける松本を眺めているみたいだと高嶋は思う。高嶋も高嶋で話を聞くことよりもそんな松本を見ていることのほうが楽しくて、俺の話全然聞いてないよねと咎められるのは間々あることだ。
 二人分のマグカップを持って、蒲団の上でスマートフォンをいじっている松本に歩み寄り、右手のそれを手渡した。

「うっさんて」

「なに?」

 松本はスマートフォンに目を落とし、コーヒーを一口啜って言う。高嶋は返事をしながら床に放ってあった自分のスマートフォンを手に取る。バイト先の店長からメッセージが来ていて、意識がそちらに向いた。

「俺のこと好きだよね」

「うん」

 反射的に答えて、数秒、何を問われてウンと答えたのか分からなくなって、高嶋は顔をあげた。

「え?」

「え?」

 言葉を失くした松本と目が合った。高嶋も言葉を失くして、お互いに思考が完全に止まった状態で暫く見つめ合った。冷蔵庫が低く唸る音だけが耳に入ってきた。




(2020.02.07//choke)

fall

 電話は履歴からかける。一言二言のやり取りのためにメッセージを送っても近頃はすぐ通話で返されるため、着信履歴には殆どその名前が蔓延っている。出られない時もあるから、すぐ電話かけてくるのやめて。と一応そのたび苦言を呈しているものの、なんだか声を聞かないと落ち着かない、と返されて何も言えなくなる。
 松本は呼び出し中のコール音を聞きながら、傍らに積まれた本の上の、指輪やらネックレスやらと一緒に置いてある腕時計を見る。午後六時過ぎ、そろそろバイトが終わる時間だと思ったのに、電話の相手は出る気配がない。コール音がプツ、と途切れて、反射的に声を出そうとしたのを制するように甲高い女の電子音声が『留守番電話サービスに接続します』と言った。なんだ、と通話を切ってスマートフォンを枕の上に放ると、代わりに煙草を手繰り寄せる。

(どっかに落ちてってる、気がする)

 そんなことを考えながら一人、誰もいない部屋で床に敷きっぱなしの蒲団の上に寝転び煙草をふかす。見慣れた汚い天井は遠いようで近い。閉塞感と圧迫感とは時に人の心をこんなにも沈ませるものか。外は夕立で土砂降り。室内に響いてくる雨音が頭の中を侵食して思考の領域を狭くする。とにかく大学に近くて家賃が安いという理由で選んだアパートの部屋は、一人でいると息が詰まる。もう引っ越そうかな、と考えながら迫ってきた灰を灰皿へ落として、腕時計を見た。先ほどの発信から五分と経っていない。が、もう一度、と枕の方へ手を伸ばしたそのとき、ガチャガチャと鍵を開ける音と耳を劈く雨音に玄関を振り返った。

「……寒い」

 びしょぬれの高嶋が震えながらドアを閉めた。

「……寒そう」

 答えた後、立ち上がった松本はバスタオルを取りに風呂場へむかう。その間に高嶋は玄関に鞄を置いて、水を吸い色の変わった薄手の上着を脱いだ。

「着替え出しとく」

 短く言ってバスタオルを手渡すと、鼻を啜って返事をする高嶋を風呂場へ促す。触れた身体が冷たくてぞくっとする。高嶋の濡れた上着を洗濯機に放って着替えを出してやっていると、服を脱ぎながら高嶋が一寸笑って「なんか、奥さんみたい」といつものヘラヘラした笑顔でこっちを見遣った、その唇が紫色でゾンビみたい。

(映画なら真っ先に殺されそう)

 松本と高嶋は大学受験を控えた夏の予備校で出会った。志望校が同じだったからか頭のレベルが同じだったからか、複数の教科でクラスが被り、隣の席に座ったのをきっかけにしてちょくちょく土日に待ち合わせ、図書館で勉強したり息抜きに遊んだりするようになった。二人は相性が良いのか悪いのか、愛やら恋やらの言葉を交わしたことがない。なのにも関わらず、二人はこの狭い部屋に一緒に住んでいる。飯を食べ、テレビを見て、ひとつの蒲団で共に寝る。それだけならまだ救いようがあるかも知れないが何を間違えたのかしてセックスもする。そして、それで互いに満足している。

(たぶん、俺もわりと序盤に死ぬかも)

 自分に言葉が足りないことは自覚していた。けれどよくよく考えてみても好き、や、愛してる、だなんて言葉が自分の中にない。高嶋との事を恋愛だなんて思ったことがない。ただ、繋がることが心地良くはある。触れることがいとしくはある。高嶋をじっと見ていると自然と指がのびている。頬、目蓋、唇、顎、どこにでも触れたくなる。殊に、長く伸びた前髪の、さらさら指を滑るのが好きだ。一人でいると、セックスのときに見せる眉を寄せた表情がたまらなく恋しくなる。頬の輪郭から首筋にかけて伝う汗を綺麗だと感じたことを思い出す。これはどうしたことだろう。これは自分だけだろうか。
 風呂場から聞こえてくるシャワーの音が窓の外で激しく降り続く雨音と混ざる室内で、松本は一人で云々考えた。しかしそもそも自分が何故そうなったのかが分からなかったため、相手にもそういった感情や理由があるのかなど、考えたところで松本には分からない。蒲団の上で寝転び煙草をふかす、遠くて近い天井が先ほどより気にならないことにも気づかない。
 高嶋がグレーのスウェットに身を包み、タオルで頭を拭きながら風呂場から出てきた。温まった身体から湯気が出ている。玄関に放置した鞄からノートや本と一緒にスマートフォンを取り出し、高嶋はパッとこちらを振り返った。

「あれ? 電話くれた?」

「あー、傘持ってってやろうかなって」

「え〜優しいじゃん」

「……暇すぎて」

 なんだ、暇つぶしかよ。そう言って笑う高嶋から身を捻って目を逸らした。見え透いた嘘は何のためか、松本は考えることを止す。純粋な好意を揶揄われると、別に、とか、そんなんじゃない、とか、何かにつけ否定したくなる自分の天邪鬼さに辟易する。出会った頃なら、でしょ、とかなんとか笑いながら返して、自分で言うなよなんて返されて、そんなやり取りを平気でしていたのに。風呂場から髪の毛を乾かすドライヤーの音が聞こえてきた。松本はふと、一緒に暮らし始めてすぐのことを思い出した。電気代高いから髪の毛短くしようかな、そう言った高嶋の言葉を、気にしなくていいじゃん、と遮ったこと。高嶋の少し長めの、やわらかくてさらさらした髪が気に入っていると言ったこと。
 髪を乾かし終えた高嶋が戻ってきて、松本の隣に座って煙草に火をつけた。

「あ、てか、るーさん今日飲み会だっけ」

 松本は腕時計を見た。ちょうど午後七時になろうとしていた。本当は高嶋のバイト先に傘を持って行ったその足で行くつもりだったし、今から身支度を整えて出てもギリギリ間に合うだろう。けれどサークルの飲み会など、酒が飲めない松本にはあまり気の進まない場である。高嶋の言葉に何も答えず、黙ったまま、高嶋が煙草を吸い終え「雨だし、車出すよ」と適当な上着を手に取って羽織っている間も、松本は蒲団の上に座り込んで宙を見ていた。

「どした?」

「……いや、ウン。雨だしなあ」

「雨だね。あと今日やたら寒いから分厚めの上着のほうがいいよ」

「そうだよねえ……ぶあつめがいいよねえ……」

 よく分からない会話だな、と高嶋が笑う。車のキーをくるくると手遊びしながら濡れたスニーカーを玄関の隅に追いやって、これでいいか、と所々剥げたサンダルを履こうとしている。適当に着込んだ上着はぶよぶよでよれよれの褪せた水色。まあちょっと車運転するだけだもんな。近所のコンビニに行くような気分だよな。でもなんか、

「だっせえなあ!」

「ほっとけよ!」

 くだらない会話で笑い合うと、変に安堵した。高嶋の笑い声が耳に心地良いせいで、もう立ち上がる気になれなくなった。松本は高嶋のせいにして、笑いながら寝転がった。

「えっ? 行かないの?」

「いや、おまえがダサすぎて行く気失せたわぁ」

「おれ関係なくね?!」

 自分も黒のスウェットで大して変わらない格好のくせに面白がって笑う。松本に起き上がる気配がないので、高嶋は「なんだよぉ」と間延びした声を出しながら上着を脱いで車のキーを戻す。すたすた歩いてきて、また松本の横に座った。松本はうつぶせに寝転んだまま煙草を手にする。肘をつき上体だけ起こして火をつけると、隣から高嶋の煙草を持つ指が伸びてきた。促すように顔が近づいてきて、当然のように松本は咥え煙草を近づけて火を分けた。

「明日なんもないんだっけ」

 考えるように宙を見ながら高嶋がぽつんと呟いた。松本は一瞬、お前の予定なんか知るか、と思ったけれど、高嶋の視線がこちらを向いて、自分が問われていると悟る。

「俺はバイトあるよ」

「何時から?」

「えーっと、」

 身を捩って壁際に置いてある通学用のリュックを手繰り寄せ、シフト表を取り出す。先日貰ったばかりの新しいものを開き、自分の名前の欄を確認して、「五時から」と言いながら松本は顔をあげた。
 目の前に高嶋の髪があって、ふわ、とシャンプーの匂いが鼻腔を掠めて、唇に柔らかい感触が広がった。え、と思った頃には離れていった。口づけられた、と理解した途端口元が緩んだ。

「うっさんさぁ……」

 苦笑交じりに溜息みたいな声が出る。松本はこういった高嶋のぬるっと懐に入り込んでくる空気が少し気恥ずかしかった。セックスの前の雰囲気を醸し出されると、妙にむずむずする。髪をぐしゃぐしゃに掻き毟りたくなるような、胸をがりがり引っ掻き回したくなるような。両腕で身体を摩りたくなるような。

「だってもうやるしかないじゃん」

「なんでだよ!」

 あはは、と笑って煙草を吸っている高嶋につられて笑いながら、松本はシフト表を片付ける。リュックをまた部屋の隅に追い遣って、そういえば今日バイト先で、と楽しそうに話し始めた高嶋に身を寄せ、一つしかない灰皿に灰を落とす。中身の薄い高嶋の話を聞きながら、こいつ本当に話が浅いよな、と思いながらも、相槌を打っていると自然に笑みが零れている。高嶋の煙草が先に終わって、数十秒の後に松本の煙草も終わる。

「でもさ、俺のポケットにその倉庫の鍵があって」

「ってことはお前のせいじゃん」

「そう、そんでヤッベェと思って、なんとかしてこう、隠蔽しようと」

「はは! 隠蔽すんのかよ」

 高嶋の手が松本に伸びてきて、二人して這いずるように蒲団に転がりながらも、くだらない会話は続いた。唇が合わさっても、高嶋の手が松本の肌に触れても、松本の手が高嶋の服を潜っても、会話は続いた。松本の時折笑いの混じる声が途切れ途切れになって、相槌もまばらになる頃、高嶋の話もまた途切れ途切れになる。二人の言葉が徐々に吐息にすり替わっていく。海の底に沈んでいくみたいに、ゆっくりと、じっくりと、時間をかけて二人の意識は会話を忘れる。





「……あめ、ッやんだ?」

 揺すぶられながら松本が小さく訊ねてきて、高嶋は一瞬だけ意識をカーテンの閉め切られた窓の外に遣った。

「っん? ……いや、降ってる」

 なんだ、まだ、降っているのか。雨音が少し静かになったように思えたけれど、どうやら夕立から本格的な雨になったらしい。目を瞑って耳を澄ますと微かに聞こえてくる雨音は優しい。暗く狭い部屋で、薄い蒲団の上で、発熱したみたいに火照った身体がぐらぐら揺れている。身体の両脇にある汗ばんだ高嶋の腕を辿りながら目を開けると、暗闇に慣れた目が浅く息を吐いている高嶋を捉えた。奥を突かれるたび瞬いてしまう視界の中、薄く眇められた目と目が合う。汗が、高嶋の輪郭を伝って滑ってゆくのが見える。ふる、と高嶋が頭を振って幾らかしずくが松本の顔に降りかかった。唇の端に落ちた一滴がくすぐったくて、松本は唇を舐めた。

「……エッロい」

 高嶋の声が身体に響く。繋がったまま話されると、相手の声が自分の身体の中で震えるような心地がする。松本は恐らく、これは自分だけではないと思う。松本が体感しているように、いま松本が何か話せば高嶋もそう感じるのではないだろうか。

(そういうの、なんていうんだっけ)

 骨伝導っていうんだっけ。いや、違うなあ。ってか骨伝導ってなんだっけなあ。松本の思考が揺れる。とにかく何か、と目を開けて、高嶋の首に腕を回して抱き寄せた。耳に唇をくっつけて、肺から押し出されるように溢れる息の合間に、脳みそをかき混ぜて問いかける言葉を探した。そうだ、そういえば、今日何か考えていた気がする、と一人でいた時のことを思い出した途端、口から言葉が零れた気がした。

「……ッ……ん」

「……え?」

 聞こえなかったのか、高嶋が窺うように顔を上げて髪を撫でつけてくるけれど、なんて言ったの、と聞かれても何も答えられなかった。自分は何を言ったのだろうか。大体、高嶋といると、思考を放棄している気がする。なのに、一人でいると何かとぐるぐる考えている。そしてまた、高嶋と二人になるとそんなことはすべて忘れてしまっている。ましてこんなゆったりと繋がるセックスの最中は、深い深い谷の底、静かで暗い海の底、そういうところにいるような気がする。時間の止まった世界で、二人だけの生き物が、他の何もいない、そんなことに疑問を持たない本能のままの姿でただ毎日息をしているような。それは安息と呼べるのかも知れない、と、松本は深く息を吸い込む。

 雨は未だ降っている。松本の思考を濡らし、ふやかせ、溶かしていく。
 窓の外には目もくれず、雨が止むまで落ちていく。



(2020.01.20//fall)

「近くて遠くて触れられるのに届かない」

 些細なことで始まった。
 どうせいつもそんなところ。繰り返す衝突は、近すぎたから。この距離を離せば問題ないのだ。けれどどうしても離れられない。離れることは考えられない。なのに傷つく。おかしいね。思えば思うほど、簡単なことが難しい。



「なんでわからないの」

 きっかけは複雑だ。どれが要因で、なんて簡単にわかったら事態の収束は容易かったのかも知れない。こうして何時間も引き摺って口論になって止まるところを知らないのは簡単ではないから。できればいますぐにでも終わらせて抱き合って眠りにつきたい。腕の中のぬくもりに、喧嘩したことを後悔なんかして何もかも水に流して忘れちゃって。時が経ってふと思い返し、馬鹿みたいだねって笑い合いたい。そんな未来など思い描いたこともないのに、何故かこういう時ほどやけに望んでしまうものらしい。終わらせられたらそんな未来も嘘じゃない。
 けれど悲しいかな、俺の中のどこにも、終わらせられる言葉が見当たらない。

「ごめんね、俺が」

「そうじゃないって。謝ってなんて言ってない」

 どうすればいいのかわからないから言葉に詰まる。そうして何も思いつけなくて謝罪の言葉を口にする。そんな俺に君は言う、そうじゃない、謝って欲しいなんて言ってないと。けれど俺にはわからないよ。何を言っても空回りする。君の神経を逆撫ですることしか言えない。だから謝ることしかできない。こんな俺でごめんね、その意味を汲んで君は溜息を吐く。俺と言葉を交わすことに疲れて。

「……もういい。不毛だな」

 諦めたように君が感情の昂りを地に落とす。低い声音が俺を脅す。最後を突きつけられているかのよう。それを望むの? 君が俺に? それならそうなるしかないのだろう。

「……そうだね」

 あっさりと言ってしまえる俺は屹度何もわかっていない。君の苦悩も悲しみも苦しみも。だから君は淡々とした俺の言葉に傷ついて、ほら、また気持ちが収まらなくて眉を寄せ舌を打つ。かわいい顔が歪んでいるね。いつも笑っていて欲しいなんて、言っていた俺が君にそんな顔をさせている。できないことばかり口にするのが得意なんだ。どうしようもない、こんな俺では。

「どうにもならないね」

 君の唇の端がぴくりと動いたかと思うと、俺を睨んで一層声高に詰め寄った。

「なんでそうなの、なんでおまえは、」

 けれど俺は動かない。表情も、見えやしないがなんとなく酷い顔をしているのはわかる。俺を見る君の目が怯えているようにすら映るのだ。何が悲しいの、何が怖いの、何が辛いの。そう訊ねて、俺の所為だと言うなら、多分、そうだろう。

「……おかしいね」

「……何が」

 部屋着の袖から覗いた指がきつく握りこまれて、白くて赤い。そんなに握ってしまったら掌に痕でも残りそうで、この瞬間も俺はそんなことで気が気じゃない。視線を逸らして足下を見つめる眼鏡の奥の睫毛が震えている。怒りなのか悲しみなのか、判別つかなくてそのどちらもなのだろうと勝手に結論付けてみる。目の悪い君は部屋の中でだけ眼鏡をかけた。その姿を見るのが好きだった。誰も知らない君を手に入れた気になれたから。

「誰よりも近くにいると思ってた」

 身体も心も寄せて、誰よりもわかった気がしていた。けれど。

「一番欲しいものは、どうしたって手に入らないんだ」

 引き結んでいた唇を緩め、君は笑った。

「じゃあどうということない、お前は俺の一番じゃない」

 だからとっくに手に入ってるだろ、そう言わんばかりにまっすぐ見詰められてしまって、俺は途轍もない喪失感に胸を抑えた。どうして君はそうなのだろう。どうして君はこんなに俺を悲しくさせるの。いとしいなんて気持ちは消えない。無くなる気配もない。それでもどうしても確信が消えない。この頑固な確信を打ち消すほどの、信じられるほどの確証が何もないから。

「それでも俺は一番なんだ」

「だからなんなの」

「流鬼が一番大切で、何よりもいとしくて、だから絶対に手に入ったなんて思えない」

 どこまで思えば手に入れられるの? 好きだと思えば思うほど、欲深くなる心がじわじわ忍び寄る最後を感じて何も己のものにはならないのだと知る。手に入ったと思える瞬間などは絶対に来ない。二度と君に触れられない未来ばかりがこんなにも近くに感じる。気配を殺して背後に佇んでいる孤独が笑う。だから言ったじゃあないか、と笑って、優しく俺を憐れんでいる。

「……お前の言うことは、ちっとも俺にはわからない」

 そう呟いて俯いた肩が小さく震えている。その姿に胸を掻き毟られる。強張った身体を今すぐ抱きしめて安堵したい、その体温に触れて。触れようと思えば触れられる距離。なのに届かない指。伸ばしても、君のすべてを俺のものにはできない。

 消えない不安が言葉に代わってすべりおちていった。

「届かないなら」

 屹度君は俺がいなくなっても君のままで生きるのでしょう。

「早く離れればよかった」


(屹度俺は君がいなくなっても君を想って生きるのでしょう。)

「花食い」

 蝉が鳴いていた。うるさいくらいに。覚えている外の音はたったそれくらい。茹だる暑さの夏。景色を焦がす太陽より、思考を奪う不愉快な湿気より、何よりも胸を痛めつけて離さない幸せで満たされていた。最後の最後まであなたは紛れもなくあなただったから、断言してもいいよ。どんなあなたもいとしくて、あなたの言葉を繰り返し耳に響かせて、胸を痛めた数をかぞえて。昼も夜もあなたで満たされていたから、何も怖くなかった。



「麗」

 声が聞こえた気がして振り返った。光の差し込む広い温室を見渡してみるが、誰もいない。とうとう暑さで頭がおかしくなったかな。それならそれで願ったり叶ったりなのだが、頭がおかしくなったかなと冷静に考えられるうちは屹度まだ正常なのだ。いつになったら何も考えられなくなるくらい気が違えるのだろうか、そんな途方もないことを考えながら自動スプリンクラーのスイッチを入れた。か細い音を立てあちらこちらで細かい霧が立ち込め始める。途端に温室の湿度が増す中、生き生きとみずみずしく光を反射する緑の葉や色とりどりの花たちをぐるりと眺めた。どれもこれも毒々しいくらいに美しいのに、その花びらは少し強く指で触れただけで触れた場所に痣をつけてしまう。凛とした姿でそこに立っているのにその実、なんとも弱く果敢ない。ならばせめて美しいままで、と、まだ死など考えたこともないだろうその生を手折る己の所業を日に日に肯定している。そう、これは仕方のないことだから。

 触れかけた花弁から指を引っ込める。花弁に触れるのは最低限でなくてはならない。足元に置いていた一抱えの銀の器を持ち上げると、温室の入り口にある申し訳程度の手洗い場で蛇口を捻って一センチほど綺麗な水を張った。そして手にした銀の鋏で、花の首を切り落としていった。次々と。

「おはよう」

 もう朝っていうほどの時間でもないけどね。そう脳の片隅で太陽がちょうど真上にあることを呪いながら庭先から縁側の襖を開ける。銀の器を静かに置いて、服の裾で濡れた手を拭った。開けた襖のその向こう、照明のない部屋の真ん中に敷かれた蒲団に座り込んでいる牡丹の着流しを羽織ったその人は、静かに振り向いて俺を一瞥した。

「……麗」

 その声を聞いて、やはり先程声が聞こえた気がしたのは勘違いではなかったのだと確信する。少し前から起きていたのだろう、待ち惚けたと拗ねたような声色で、忌々しげに、急かすように俺を呼ぶと、流鬼は立ち上がることもせず少し寝乱れた着流しの合わせを直した。

「ごめんね、開き切ってる花を探してたら、案外時間かかっちゃったかな」

 よいしょ、と無意識に口から零しつつ履いていたつっかけを脱いで縁側から中に入る。無意識に掛け声を出すなんて俺もおっさん臭いなあ、と自分を憂いつつ、銀の器を持って流鬼の蒲団まで運んだ。

「はい。どうぞ」

 流鬼はじっと器の中で隙間なく犇めき合あっている花々を見て、口許だけで一寸笑った。

「赤いのが、好きでしょう」

「そう」

「白いのは」

「それなり」

 流鬼は手を伸ばして、ぷかぷか浮いている一番大きな椿の花を手に取り掌に乗せるとその赤色を目を細めて見詰め、また笑う。

「赤い」

 そうだね。言いながら器を挟んで流鬼の向かいに座った。正面から見た流鬼はやはり日に日に痩せていっている。もともと白かった肌の血色はどんどんと色味を失くし、見ているぶんには陶器のように冷たい。そのくせ、滑らかでみずみずしい。触れるとやわくて折れそうなほど。見入る俺の視線などどうでもいいのか、気づいていないのか、流鬼は掌に乗せた赤い椿の花弁に唇を寄せて短い接吻をして、その椿と同じくらいに赤い唇をひらき、百合の花よりも白い歯でさく、と花弁を割いた。実際、音はない。殊更に柔らかく弱い花弁の花を選び差し出している。しかし屹度流鬼は綺麗な花ならなんだって喜んで手を伸ばすのだろう。

 花を食う奇病に犯された流鬼は毎日こうして日に何度かの食事をとる。他は何も口にせずただ花だけを欲しがり、やがて花になり死んでしまう。しかし花を食わなくても死んでしまう、避けられない死の病。彼の身体にはもうどれだけの花弁が詰まっているのだろう。毎日こうして流鬼のために育てた花を差し出し俺は想像する。胸のあたりから下腹までその白い肌をメスで裂き開けたら、この世に存在している全ての美しいものをかき集めても敵わないほど綺麗に違いない。想像だけで、眩暈すら覚える。あまりに美しくて、目の前で掌を真っ赤な花でいっぱいにしてたどたどしく咀嚼する彼がまたあまりに純真無垢な様だから、それこそ彼の終りに相応しい姿だと思うのだ。

「麗」

 また名前を呼ばれた。彼の手、口許に見惚れていた視線を上にずらす。その瞳の中に俺は映っていないのに、彼は俺をまっすぐ見つめて、器からすくい上げた両手いっぱいのいくつもの花を俺に差し出した。

「うん」

 俺は少し彼のほうに腰を屈めて、両手でそれを受け取った。流鬼は花の器となった俺の手をそっと両手で支えた。触れた肌は濡れていて、ひやりとして、俺の熱を逆撫でた。そうして始められる行為の記憶を脳に広げ思わず唾を飲み込んだ俺の手から優しく、ゆっくり、到底食事とは思えない動作で花を食い始めた。唇が指を食む。歯がもどかしく皮膚を撫でる。水がいくつか指の間から垂れて手の甲から腕を辿って肘まで何本か筋を描き、流鬼が花弁を噛むたびに冷たい花の血液がそれにのって俺の腕にささやかな色を塗るように滴る。そうしたら真っ赤な舌でそれを舐めとる。喉を嚥下させるたび恍惚の色を浮かべた目を緩慢に瞬く。手に乗せられた花を全て食い終わるまで見つめ続けなければならない、外で喧しく鳴く蝉の声で隔絶された、何よりも煽情的なその光景を。いよいよ俺の頭はおかしくなっていく、そういう錯覚に溺れる。赤い花々を食っているあいだ、頬、腕、着流しの合わせ目から覗く肌が薄ら赤く色づくのがまた狂おしい。流鬼が花を食うたびこうして、その姿を見て、この上ない喜びを感じて瞼を震わせた。

 目に見えるほど日に日に何か変化があったわけではなかったが、流鬼の身体は確実に衰弱していて、それは振る舞いであったり表情であったり、そういったもので曖昧にしかわからなかった。そしてそれを裏付けるかのように、ある朝、流鬼は左目をなくした。

「痛くない」

 俺の問いかけに「特に」と首を振った流鬼の左目には名前の知らない赤い花が大量に咲いていて、眼窩を埋め尽くしていた。茎や根が血管のように眼球に這い、皮膚の下に這い、盛り上がっている。触っても、痛くはないらしい。

「これじゃあ外に出られないね」

「いい、庭ぐらいにしか出ないから」

 そうは言っても、通りがかった人に見られては何かと大変だろう。俺は包帯を持ってきて、流鬼の左目を覆った。少し広めに覆えば、花はきれいに隠れた。

「気分がいいなぁ」

 そう言って流鬼は縁側まで這っていくと、俺を振り返って手招く。

「おいで」

 そうして俺を縁側に座らせるとその隣に腰かけ、肩に凭れた。

「風が気持ちいい」

 睫毛を伏せてそう呟く日の光を吸いこんでいく白い肌を、指を伸ばして撫でた。触れた頬は、その下に何も無いかのように柔らかかった。

「……流鬼、寝るの」

「……少し」

 風に浚われそうな小さな声で言って、流鬼は目を閉じた。風が吹くたびさらさら流れる髪が俺の首筋を擽った。寝息も立てず静かに動かなくなった流鬼の身体をそっと抱き抱え、膝に頭を乗せるようにして仰向けに寝かせた。包帯の通っている額を撫で、指で髪を梳き、掌で熱を移すように頬を包み込んだ。血の気のない肌と違い艶やかな赤色を皮膚の下に色づかせている唇に耳を寄せると、微かに息が漏れているのに安堵した。嗚呼未だ自分は、怖いのだろうか。覚悟をして臨んだ筈の、狂おしいくらいにいとしくて堪らないこの人と過ごす日々が、少しずつ終りに向かって時間を刻むのが。起こさないよう流鬼の手をとり、指を絡めて握った。その感触すら危うくて、輪郭がぼやけているように感じる。視界が揺れて目を細める。確かめたくて、目に焼きつけたくて、瞬きを惜しんだ。この人は怖くはないのだろうか。避けられない終りに向かう変化を享受して涙も見せない。くちづけようか迷っていたら、俺の戸惑いが肌から伝わったのか閉じられていた瞼が薄ら開いて笑った。

「……麗」

 優しく指を解いた手に首を抱き寄せられくちづける。微かに甘くて、屹度もうそれほど遠くないのだと思う。

 頭がおかしくなって仕舞えば、恐怖など完全に捨ててしまえるのかも知れない。けれど、頭がおかしくなって仕舞ったら、こんなにもいとしく思うこともなくなってしまうのかも知れない。感じられる全てを覚えていたいから、このままでいいのだろう。このまま正常なままで、あなたで心を刻んでいく幸せ。それはこの瞬間だからこそ得られるいとしさ。普通では得難いいとしさ。あなたの傷が心に染みて、死ぬまでずっと、心はあなたのものだから。



 蝉の鳴く声。肌を撫ぜる生ぬるい風と、景色を全て白く塗りつぶすような日の光。目に飛び込んでくる色彩が焼き付いて心を満たす時間、そして日々。



夏の花の芽吹いた甘さの。



(2014.08.22//そのゆるやかな死の、眩暈がするほどのいとしさよ。)

「愛」

(※しんでしまったはなし)


 心臓が痛い。


【愛】



 どれくらいの間こうしているのだろう。俺は腕時計で、もういったい何度目なのかもわからない時間の確認をする。針は午後十一時と十数分を指している。そもそもこの場所に来た時この針がどこを指していたのかがわからないから、腕時計を見たところで現在の時間以外に得られるものはこれといって無い。ここにこうして、どれくらいが経ったのだろう。そんなことばかり気にして落ち着かない。どうしてそんなにどれくらい経ったのかが気になるのか。その理由がわかっていながら俺はそれでもなお、何度も何度も時間を確認しつつこの場所に居続けている。よくよくわかっている。いうなれば自分から赴いた。この足で歩いて来た。すべては自分の意思だということ。けれど、誰かのせいにした。

 目の前の光景を直視し続けていたのは体感時間では一時間ほどだろうか。もっと長いような気もする。映画のように気が付いたら一時間も経っていたというあっという間の感覚でありながら、もっと長い時間それを見ていたと感じられるのは終わりが見えないからだろう。一向に終わりがない。映画なら展開で『もうすぐ終わる』と感じられるが、いつまでもいつまでも終わる気配がない。何度か、ああ、終わるのか、と思った瞬間もあった。けれど続いている。終わる、いやまだ続く、やっと終わるのか、いやまだ続いている。その繰り返しでそのうち何が起こっても終わりだとは思えなくなってきた。終わりようがないのだろう。ああ、終わらないのだな、終わりがないのだ、そう思えたら途端にこの場から逃げてしまいたくなって、頻繁に腕時計に目を逸らすようになった。もう見たくないしさっさとここから出ていきたい。腰を上げて足を動かして身体を翻して。気持ちはそうあれども、身体はちっとも動きたくないらしい。腰は重たく地面に沈み続けているし、足は神経が通っていないかのように沈黙している。首から上だけが俺のもので、あとは全てつくりもののようだ。

 どこかに行きたいわけではない。ただここにいたくないだけ。そんな漠然とした考えで胸を痛めているなんて、自分でもおかしいとは思っている。おかしいとは思っているのにどうにもしようがない。ここまで来たのは全て自分の選択の筈なのに、全てにおいて何かや誰かのせいにして、今ここに自分がいることを辛く思っている。わかっている、ひどく子供で我儘だ。そんな俺にも逃げ場が無くなる事態はこれまでにも何度かあった。自分の意思でそうした、自分が選んだ選択肢だと、言い切らなければならない路の分かれ目が。その時の俺の決断が、何もかも人のせいにしてきた俺が自分の責任を背負うことが、どれだけ不安に塗れながらの苦渋の決断だったのか、屹度ずっと自分の決断を背負ってきた君にはわからないだろう。あまりわかって欲しくはないけど。そんな身を引き千切る思いでやっとのことで手を伸ばしたのに、掴んでみると案外となんでもないことだったりもして。背負うだなんだ考えていた自分が馬鹿らしくなったりもした。今となっては思い返すと少しばかり笑えるという話。昔のことを思い出すときはいつもそう、後から考えるとなぜあんなことで悩んでいたのだろうと滑稽にすら思えてしまう。でもその時その人生の中の一瞬に過ぎない時間の胸の痛みを、くだらないことだというのは違うと思っている。

 腕時計を見る。午後十一時も終わろうとしている。早いようで遅い。俺はまだ立ち上がれない。そこに居続けている。目の前を直視できず、何度も腕時計に逃げながら。

「目を逸らさないで前を向け」

 はっきりとした声が頭に響くのに直視できない。前なんかもう見れやしない。何時間も前から見つめ続けているのは足元、自分のつま先、腕時計、閉じた瞼の裏側だけだ。

「いつ終わってもいいように」

 いつか君が笑って言った。その言葉に縛られて、俺はこの場所に居続けているのだろう。いつ来るのかわからない終わりを待っている。終わる気配なんかないのに、君はいつか終わると言ったんだ。いつかは終わる、突然終わる、なんの前触れもなく、或いは前触れに気付かず、目の前の出来事が全てうそのようにゆめのようにまぼろしのようにあわくぼやけてもろくくずれてきえさって、風に乗って流れていくまるでなにもなかったかのように。そして俺はそれを知っている。なにものもいつかは終わりを迎える。この目で見てこの身をもって体験したことだ。それならば、いつか唐突に終わるなら、目を逸らし気づかぬうちに早く終わってしまえばいい。見ることが辛く悲しい目の前の光景などは。

「俺はおまえに、ずっと泣いていて欲しい」

 その時君は、ひどい言葉を優しい声で呟いて、温かい掌で俺の頬を撫でたんだ。君の手が濡れていくのが嫌で、思わずその手を握った。柔らかく少し冷たいその手に、決断の時だと言われている気がしたのに。目を瞑った君の顔を見て、決断しろと言われたとわかったのに。それからずっと逃げてきた。真っ白な君の肌を目に焼き付けて、忘れてしまわないようにと瞬きも惜しんで見つめ続けた。けれど全ては記憶に過ぎない。徐々に霞がかかっていく君の姿を見たくなくて、何度も何度も目を逸らした。認めたくなかった。けれど、もう逃げられないんだ、俺は心のどこかでそう思っている。何度も何度も時計を見るのは目を逸らしたいからだけじゃない。いつまでもこうしていられないとわかっているから。ここから動けないのは、自分の足でここへ来たのにそれを否定するようで嫌だったから。胸は相も変わらずぎりぎり痛む。足は震えて一歩を拒むし、重たい腰は縫い付けられたように地面について離れない。それでも俺は背負わなければならないのだ。大丈夫だ、屹度、掴んでみればなんてことはない。言い聞かせて、戦慄く唇を引き結んで、握って手に力を込めて。

「おまえは俺を忘れていく」

 最後のつもりで、目の前にいる、あの時の笑顔で止まったままの君を見た。ひどくぼやけて何枚もフィルターがかかったようなその光景に、涙がぼたぼた目からあふれた。俺はとても残酷だ、酷い人間だ、君を忘れてしまう、最低な人間だ。あんなに忘れたくないと思っていたのに。目の前の君は俺にそう告げているようで、だから俺は見たくなかったんだ。

「忘れることは、人間に許された生きていく術だから」

 生きていくために君を忘れるなら、君を覚えているうちに死んでしまいたかったのに。君は俺に最後まで、消えてなくなるまで、目を逸らすなと言った。

「だからおまえに、俺を忘れることを恐れて泣いて欲しい、そう願ってしまう」

 直視しなければならない現実は、いつも自分の醜さを突き付けてくる。
 君がいないと上手に息もできない。それでも命は終わらない。できれば今すぐ終わりたい。けれど君が望んだことだから、君がくれた生きていく理由だから、泣きながら終わらない毎日を過ごすよ。

 そうして俺は何度目かわからない決断をした。
 首に押し当てたナイフを持つ手をそっとおろして泣いた。


「おまえが好きで、いとしくて、たまらない」

 ひとりはとてもつらいのに。

ゆがみひかるいびつににぶく

「人間は気がおかしくなる時、ぜんぶぜんぶ自分でわかるんだって。だから辛くて悲しくて痛いんだって。何かの本で読んだんだ、『わたしもうじきだめになる』その一言を、笑って言ったのかそれとも泣いていたのか肝心なことを覚えていないのに、なぜかその一言が忘れられない。

 じゃあきっと大丈夫なんだ。だって俺はだめになっていく自分を自覚していない。だめになっていっている、徐々におかしくなっていく自分、そんなことこれっぽっちも感じない。たまに胸が苦しくてすべてのものが色褪せて見えて大切だったものでさえその価値を疑いだしてしまう、そんなことはあるけれど。でもおかしくなっていっている、だなんて思うことはないよ。だってこれは一時的な感情のふり幅でしかないんだから。元に戻ればそれで終わり。ほら、おかしくなっていっているなんてことはない。だけど、ねえ、俺、本当におかしくないのかな。俺がおかしくなっていく自分に気づかないのは、元々おかしいからなのかな。俺が異常だという確信はないけど、正常だっていう保証もないことに気付いてしまった。

 どうして俺はこうなんだろう。こんな自分は好きじゃない。でも足掻いても仕方がないんだ、だって俺はこんな人間なんだから。諦めているつもりはなくて受け入れたいと思っているだけ。それでも君に言うと呆れたような顔でため息を吐かれるんだろう。それを思うと言い訳みたいに受け入れたいだなんて頭に思い浮かべている自分が情けなくてたまらない。どうして自分はこんな、どうしようもないのかな。広げてみた掌に毒がにじんでいるようで、触る誰かを汚染していく気がするから誰にも触れたくない日がある。顔をうまく取り繕えないから、誰かを傷つけ嫌われそうで誰にも会いたくない日がある。些細なことで心の中がざわついてささくれだって、愛しい人たちまで嫌いになってしまいそうに思えて、できれば二度と誰も愛したくないと思うほど。

 だから君に触れたくなかったんだ」

「ごちゃごちゃうるさい。何が言いたいのかわからない。結論が見えないしお前の葛藤なんか聞かされても俺にはどうすることもできないし、どうしてほしいのかもわからない」

「そうだよね。ごめんね。結論っていうか、難しいんだけど」

「何にも難しくない。考えることが悪いとは思わないけど、お前の場合は考えすぎて意味わからないところまでいくからそれはお前の悪い癖」

「じゃあ、結論はどうやって出せばいいの」

「そんなもんは出ない。だってそもそも結論なんかにできないことをぐちゃぐちゃかき混ぜてるんだから、出てくるはずがないだろ」

「るきに触れたくなかったんだ」

「俺から触れた」

「俺はるきを汚したくなかった」

「もともと俺は汚れてた」

「るきに嫌われたくない」

「俺はそんなに心狭くない」

「……わかってるよ、ぜんぶわかってるんだ、るきが優しくて俺なんかを受け入れてくれて、冷たい言葉をどれだけ言っても最後には俺に優しさをくれるんだ、それが誰もがわかるような形じゃなくても、はっきりとは見えないものでも、優しさをくれるんだ、だから、触れたくなかったのに、触れたくなかった!」

「そんな不可能な話はしないで」

 触れずにはいられなかった。
 あなたが自分を責めるとわかっていながら触れた。あなたがあんまりきれいにゆがんでいくから。いびつなあなたに触りたかった。緩やかな狂気であなたを満たし、いびつな自分を注ぎたかった。
 あなたがどれだけ嘆こうと、あなたに触れたのは俺。

「お前の中の俺を殺したい」

 きれいに磨かれたあなたの中の俺が笑う。俺を見て。汚いと。醜いと。酷い奴だと可哀相なものを見る目で。
 あなたに触れたのは俺。ゆがんだ決してきれいではない俺。それがわからないあなたなんか、もっともっとゆがんでしまえ。

なんでもない春のこと

 朝起きて、着替える時に服装に迷う季節になった。晴れていれば日中は汗をかくほど日差しが強く暖かい。それなのに日が沈めば途端に風は冷たく薄い衣服を通って肌を舐める。日中と同じでは寒くて堪らないから、何か羽織るものがなければ風邪をひいてしまうような寒暖差だ。天気のいい日などはその差が本当に激しく、昼間は降り注ぐような日差しを緑の木々が反射してきらきら輝くのに、夜になると葉のこすれる音もあやしく聞こえるほど空気が冷える。春らしいといえば春らしい。季節の変わり目を感じる。
 着る服には悩まされるが、春は天気のいい日にふらふら外に出て、太陽が照らす景色を見るのが好きだ。水や緑は勿論のこと、人の造ったコンクリートの森さえ綺麗だと思ってしまう。冷たいものも暖かいもののように見える。すべてのものが柔らかく暖かくこの目に映るから、俺は春が好きなのだなと思う。

 今日は天気が良い上に気持ちのいい優しい風があるから暑すぎることはないし汗をかくこともない。新調したばかりのスニーカーの白もぴかぴか輝いているから、太陽の下で人を待つのもなんだか気分がいい。とはいえ、あまり長い間じっと日の下にいると日焼けが心配になってくる。今日は特に目的もなく外に出たわけではないから、そろそろ家に戻るか、なんてこともできない俺としては早く目的を果たしたいのだけど。家から歩いてすぐのバス停のベンチでこうして待ち始めてどれくらい経ったのか。いまいちわからないが、これが春でなければ屹度とっくに腹が立って家まで引き返しているくらいの時間は待っている筈だ。あの男は春に感謝するべきだな、あとスニーカーにも。
 そんなことを考えつつ、手のひらを日よけ代わりにして仰いだ空には、まさか、飛行機雲! なんていう日だろう! 寧ろあんな男などこのまま来なければいい。
 あと三分待っても来なければ家に引き返そう、そう俺が頭の中で決めるや否や、まるで俺の思考回路いままでの様子すべて見ていたかのように轟音と共に目の前に見慣れた車が停まった。俺は何度見てもこの車の意味がいまいち理解できない。日本という左車線文化の国でわざわざ左ハンドルの車に乗る意味が分からない。暫く動きもせずにじっと車を見つめていたら、運転席の窓が開いて春に似合わない男が顔を出した。

「遅れてごめん! 怒ってる?!」

「……あのさぁ」

「はい! なに?!」

「……なんでわざわざ左ハンドルなの」

「え?! ごめんエンジン音で聞こえないから! 乗ってから話そうよ!」

「……」

 何をどうしたらそんなエンジン音になるんだよ五月蝿くて仕方がない。とってもアホっぽいしとっても大人げない。もっとスマートな大人になれよお前もういい歳だぞ。俺と同い年だぞ。もうそれ、この年齢でその車、かっこいいとか粋とか通り越してただただださい。そう思うのは俺がこいつに待たされて怒ってるからだって? いや、前々からださいださいと思っていたんだ、決して今こいつが憎くてそう思いついたわけじゃあない。こいつのためを思っているが故だ。こいつのためを思って、なんて、俺ってやっぱり優しいわ。

「るきどうしたの?! トイレ行きたいとか?!」

 お前の思考回路はいつだってサイケデリックだな。トイレに行きたかったらお前なんて待たずにさっさと家に戻ってるだろうが。サングラス越しにバカみたいに大声を張り上げている同じくサングラスのださい男をじっと見つめている俺は、こいつの車に乗る気になれないでまだじっと車とこの男を眺めているわけで。いや、待たされて怒ってるからとか、ださいからとか、そういう理由で乗りたくないなんて子供のような駄々をこねるつもりはない。俺だって一応いい大人ですからね。遅れてこようがださい車に乗っていようが諸々大目に見てやる懐の広さは持ってる男なわけで。

「ちょっと待ってて!」

 おいおい勘弁してくれよお兄さん。これ以上待たされたら俺干上がっちゃう。体中の水分が蒸発してしわしわのおじいちゃんになっちゃうけどそれでもいいのかな。そんな俺でもこいつは抱くのかな。やりそうだな。気持ち悪い、死んでほしい。とても現代の乗り物とは思えない音を立てていた車が意気消沈したように急に静かになった。エンジンを切ったらしい、静かになった車の運転席のドアが開いて、ださい車に乗っていた似合わないサングラスの男が颯爽とご登場。いつからそうなったのか、とか、俺はあんまりよく覚えてないのだけれど、以前は別段気にも留めていなかったこいつの私服のチョイスが近頃恐ろしいハイセンスでもって俺の理解できる範疇をとっくに超えて展開されているのには毎度毎度目を見張る。成長が著しいね。どうしてこうなったのだろう。この男の七不思議のひとつだけれども、おかげで毎日飽きないから、その調子でぐんぐん成長していってほしいものだ。さながらデロリアンのような車から降りてきた男はどこからタイムスリップしてきたのだろうか、その全貌は鮮やかすぎるエメラルドグリーンのサテンシャツに黒のクロップドパンツ、よくわからない色合いのボーダーの靴下に白の革靴ときたもんだ。やだ、俺も今日白い靴履いてきてる、どうしよう。

「怒ってる? 怒ってるよね? ごめんね、この時間は渋滞するの忘れてた」

 おろおろしながら俺の機嫌を窺って謝り倒す麗は近寄っても許される距離を計りかねている。おろおろ、オドオド、ベンチに座っている俺のそばに来るも、一定の距離をあけてそれ以上近寄れない。そういうところがなんだか無性に。ああ、擽られるんだよなぁ。怒られた子供みたいに落ち込み焦り、あざとく擦り寄ってくることもできない。サングラスなんかしていても、その奥の目がどんな色をしているのかぐらい見なくてもわかるさ。どうせ眉毛もハの字になっちゃって、たいそう哀れな顔なんだ。屹度ぶさいくに違いない。

「それ。取って」

 指を差したら、少し戸惑ってからサングラスと気付いたらしい、すぐに外した。案の定、なんとも表現しがたい顔をしているではないか。ああ、だめ、笑いそうになってきた。だってこいつったら、本当に面白いんだもの。

「……ふ、ははっ」

 我慢しきれなかった笑いが飛び出した。麗はそんな俺をどうしていいかわからないといった顔で見つめるばかりで、ますます可哀相な顔になっていく。やめてお願い、お前ったら、面白すぎて本当に困ったやつだ。

「……なんだよ、そんな顔すんなよ。怒ってねーよ」

 あんまりそんな顔でいられたら笑いが止まらなくて困るから、正直に怒ってないと言ったら安心したらしい、少しは顔が緩んだものの、それでも俺が笑っているのがなぜかわからないからまだ戸惑いの色が残っている。戸惑っているくせに、なぜかわからないくせに、俺が触れたらもうどうでもよくなるんだよ、知っている。ほら、胸ぐらをつかんで顔を引き寄せ、頬をぺたぺた叩いたら、もうそんなことどうでもいいみたいにへらへらって笑って幸せそうな顔をするでしょう。扱いやすいにも程があるよ、ばかみたい。

「るきどうしたの? 機嫌いいね、何かいいことでもあった?」

 すっかりいつものだらしのない顔に戻った麗は運転席から呑気な顔で、助手席に乗り込んだ俺に言う。

「ふふ」

 俺は笑う。笑って言う。

「なんでもねーよ」

 なんでもない。なんでもない。春が俺をご機嫌にさせるから、あなたでさえも暖かくてきらきらしているように見えるんだ。たったそれだけのこと。この時期は寒暖差が激しいからね、こんな柔らかい時間があってもいいじゃないか。


(なんでもないきょうをやわらかなひざしのなかで)

「……おはよう、流鬼」

 どうしたの。声をかけたら、流鬼がぼそりと呟いた。

「綺麗な花が咲いた。桜かな」




「そうじゃない」

 抑揚のない声で短くそう言う流鬼は俺の差し出した手を一瞥しただけでふいとまたそっぽを向いた。これでもう何度目か分からない、流鬼の否定の科白が俺の胸に突き刺さる。

「流鬼、」

「違うよ」

 プチ、プチ、という音だけが部屋に響く、沈黙がまた二人の間を流れた。流鬼はじっと自分の指先を見詰めながら、爪を弄っている。少し伸びた爪の下、肉と繋がっているところに親指の爪を差し込んで弾くと、プチ、と音が鳴る。人差し指、中指、人差し指、人差し指、薬指。気だるげに、手持無沙汰に、他にすることも思いつかないからやっているように見えるその行動が、俺には何処かそれをしなければならないという衝動に駆られての行為に見えた。

 こういったことは何度かあった。自分の殻に篭るというか、もともと何かについてぐるぐる考えを巡らせる性分が流鬼を何処か俺の知らないところへ連れ去っていくのだろう、俺の手の届かないところに潜っていって、俺が何を言っても何をしても流鬼に響かなくなって仕舞う。子供のように突然笑ったかと思えば泣き出したり、理由もなく不機嫌になったりと精神状態は不安定で、例えば俺が何か問いかけても見当違いの反応を見せる。文字通り、俺の知っている流鬼は何処かへ行ってしまうのだ。けれど今日の流鬼はなんだかそれだけではない、というよりは、それとは何か種類が違うような気がした。

「流鬼、お腹空かない。何か食べようよ」

「麗、頭が痛い」

「……大丈夫?」

「ふふ」

 頭が痛いと言いながら流鬼は痛がる素振りなどこれっぽっちも見せずにただ爪をプチプチ鳴らして笑った。俺は溜息を漏らす。

「ねえ、そうじゃないよ」

 流鬼はまた否定する。そして俺は困惑する。どうしていいかわからなくなる。何がどうなったのか分からない。不安が俺の胸に降り積もる。どうにかして流鬼を元に戻そうと何かを試みても全て空振りに終わって、どうしようもなくなって虚しさと困惑に彩られた顔の俺を見ると流鬼は笑った。どうしたの、と。

「流鬼……そうだ、風呂入ってもう寝よ、疲れたよね。今日はいっぱい話したし考えたし、撮影もあったから、疲れてるんだね」

「うるさい」

「……る、」

「頭が痛い」

「薬飲む?」

「違うよ、そうじゃないの」

「……頭痛いんでしょ?」

 鸚鵡返しのような返答を続けていると、流鬼の爪を弾く音は次第に速くなる。時計の針の音よりも間隔のあった音が、時計の針と同じになったかと思ったら、追い越して、プチ、という音は鈍さを増す。力が篭っている、怪我に繋がったらどうしよう、そう思って咄嗟に流鬼の両手をつかんだ。ソファに座る流鬼の足元に膝をついて、握り締めた流鬼の手にぎゅうと力を込めて、自分の思いが、声が、どうにか流鬼に響いてくれはしないかと、その手に額を押し付けた。

「……流鬼、俺どうすればいいの」

 どうすれば流鬼が元に戻るのかわからなくて俺は泣きたくなった。いつもの流鬼じゃないと嫌だ。強くて、しっかりしてて、弱い俺を詰って、怒って、それでも優しくて。流鬼が流鬼じゃなくなる、これがもしずっとずっとこのまま戻らなくなってしまったら、そんな恐怖で胸の鼓動が速くなっていく。嫌だ、嫌なんだ、そんなのは。

「そうじゃあないんだよ、麗」

 流鬼は俺の手の中から片手だけそっと抜き取ると、俺の頭を小さい子供にするようにぽんぽんと撫でた。その表情があまりに優しく笑っているものだから、一瞬、元の流鬼に戻ったのではと期待をする。けれどすぐ打ち砕かれる。

「なんで泣いてるの、可哀相」

 本当に哀れな者を見るように目を細めて眉を下げる。泣かないでよ、と言いながら次の瞬間にはものすごく嬉しそうに笑った。嗚呼、違う、駄目だ、戻らない、やっぱり。俺の頭の中にぐるぐるぐるぐるよくない考えが去来する。
 戻らない。このまま。流鬼が流鬼じゃないまま。俺を置いて遠くに行って。流鬼じゃない。知らない。目の前のこの人が。俺を否定し続ける。流鬼を否定し続ける。戻らない。戻らない。戻らない。戻らない。

「麗、どうして俺だとだめなの」

 どうして俺を否定するの。流鬼じゃないと思うの。流鬼はそう言って俺の頬を優しく両手で包み込んだ。見開いた目の前に流鬼の目がある。ぐい、と顔を引き寄せられ、目の前の流鬼の無垢な瞳に映った自分を見て初めて自分が涙を流していることに気付く。そして流鬼もまた泣いている。目からぽろぽろ涙を零している。悲しそうに眉を顰めて目を細めるから、そこに映っていた自分が押し潰されるように歪んだ。否定している、俺が、流鬼を、そんなこと、ありはしないのに、どうしてそんなことを言うのだろう、俺がいつ否定したと言うのだろう。俺はただ、流鬼に元に持って欲しいと思って、願っているだけだ。

「どうして麗は俺が流鬼じゃないというの」

 どうしてだろう。だってそれは俺の知っている、俺の好きな、俺の流鬼じゃないから。それだけだ。それだけで目の前の人が流鬼じゃないと俺は言い張っている。俺が見ていた流鬼? 俺の知っている流鬼? 俺の信じきっていた今まで見ていた流鬼は、本当の流鬼だったのか?

「麗、そうじゃない、違う」

 流鬼の言葉が俺の頭に胸に重く鋭く響いて痛い。何度も繰り返されていくうち、否定の言葉が、俺を否定しているものではないのではないかという考えが頭を過ぎり始める。俺への否定ではなくて、自分の、俺の中の流鬼の、否定なのか。それとも、やっぱり、俺を否定しているのか。わからない。流鬼が俺に違うというたび身体中にぼたぼたと絵の具の塊を落とされているような気分になる。そしてそれが混ざっていく。ぐるぐる円を描いて。俺の身体を内から外から塗りつぶしていく。俺は俺でなくなる錯覚を覚える。おかしいのは貴方? それとも俺? ああもう考えることも億劫だ、全て、何もかも、俺ですら。生温い空気が連れて来る、けだるくて甘い、虚脱感に身を任せて仕舞いたい。そうしたところで、何か不都合があるわけでもない。おかしいのは俺。貴方。すべて。

「……俺は、間違っているのかな」

 その時、目の前にぶわ、と真っ白な花が一斉に咲くのが見えた。いや、真っ白というには少し違う。所々薄紅色をしている。ふと、今朝流鬼が呟いた一言が耳に響いた。

『綺麗な花が咲いた。桜かな』

狗とベッドで番の真似事

【狗】イヌ。小犬。いやしいもの。

 誰にも内緒で、一晩数百万の狗を買った。

 親指の、爪の少し上にある関節の山にそうっと唇が押し当てられる。食むようにして、それから、つ、と撫でる如く上へ上へと這ってくる。同時に背筋をかけのぼる何かに身体を震わすと、まるで悦んでいるのかと言わんばかりに見上げられた。小癪な狗だなァ、口に含んだ科白を喉で押し殺している俺の反応に気を良くしたのか微笑んで睫毛を伏せる。この狗はただ忠実なわけではない。どちらかといえば高飛車で服従も知らない猫のようだ。けれど行為の最中だけは、狗らしく従順に与えられるものを受け入れて悦んだ。もしかすると俺の中の汚い欲をきれいに見抜いて形を変える、そんな狗なのかも知れない。初めての時からそうだった。俺のことを何もかも知っている、そんなふうに思わせる。気持ち悪いぐらいに気持ち良い行為が、日が経てば経つほど、他の誰かと重ねれば重ねるほど、思い出されて病み付きになった。何度も何度も繰り返し繰り返し買い続け、そして顔を見れば澄まして美しい目の前の男が自分で狂う様を見たいという卑しい支配欲に似た理由が胸に込み上げるようになった。俺はこの狗を気に入ったのだろう。一度見ると忘れられない。もう一度、この男の劣情を暴き出し欲に瞳を揺らして乱れる様が見たい。四肢を押さえつけられ、抵抗も忘れて、はしたなく息を弾ませ欲だけに溺れてしまった彼の最後が見たい。そうしてもう何度目か。数えちゃいないから、気が遠くなる金額を支払っているということだけを事実として知っている。それもまたあまり数えたくはないけれど。
 前回のように、前回よりも、理性が崩れていくきれいな姿を心を表情を見せて。込み上げてくるそんなどうしようもない感情に、うっすら開けた口角のつり上がった唇の間で舌が一寸踊った。

「ご主人様」

 嫌味か何かかと耳を疑うような口ぶりで恭しくそう言いながらベッドに腰掛けている俺の足元に跪いた彼がそっと俺の目を見ることを許せと言わんばかりに胸元近くで視線を止めた。ここまでいつも通りの流れだ。彼が口づけている手と逆の手でそっと頬を撫でてやると、それを合図と見做して、彼は顔を上げてじっと俺の目を見る。

「お好きに抱いてください」

 屹度マニュアルか何かなのだろう。始まる前に彼は必ずこの科白を言った。前に一度訊いたことがある。「相手は客だし気持ち悪い科白だろうが言うぐらい別にどうってことないけど、なんかオマエには言いたくないな」そう言って俺を睨んでいた。けれどやっぱりきちんと言うのは、言うことで意識が割り切れるのだそうだ。どんなに嫌な相手でも仕事だと割り切るための言葉らしい。
 行為が始まるまでマニュアル以外のことは何も喋らない彼は、行為の最中や終わった後のほうがよく鳴いた。喉が嗄れるほど鳴かされるからオマエとやりたくない、と終わった後で何度かぼやいていた。いつからかこうして、仕事ではない顔をちらちら見るようになって、それからやっと俺は当然のことに気付いてしまった。彼は俺の飼い犬じゃない。あくまで俺は大勢の中の一人なのだと。



 彼は枕を抱きこんで頬をくっつけ、散々に乱れた息が整うまで目を瞑っていた。余韻が残っているのか少し肌に触れただけでぴくりと眉を動かして息を詰めた。

「ねぇ、何か飲もうか」

 立ち上がって冷蔵庫に向かう俺を見もしない。立ち上がり寝室を出て歩いていると空気に触れている背中がやけにじんじん熱かった。洗面所の鏡に映して見ると、背中の皮膚に真っ赤な線がいくつか蔓延っている。あんまりよく覚えていないが屹度彼が描いたものだろう。なんだか愛しく思えた。この傷だけが、俺と彼が繋がっていた確かな証拠になると思った。

「水でいいかな」

 寝室に戻ると彼は眠っているかのように静かに出て行ったときのままの体勢で居た。ミネラルウォーターのペットボトルを目の前に差し出す。身体を寝かせたまま受け取りはしたが、飲む気がしないのかそれとも飲む気力もないのか、暫くそのまま握っていた。身体を動かすのも億劫なほど疲れているようだ。しかし最後の方はもう掠れて泣き声や悲鳴に似た声しか出なくなっていたから、飲みたくないわけではない筈だ。

「どうしたの。飲まないの、飲めないの」

 うるさい、そんな顔で俺をじろりと睨んでくる。行為の前は機械か何かのように淡々としているくせに、終わってしまえばこうも好き勝手な態度ができるものらしい。ならば屹度、今の無愛想で強気で我儘な彼が本当の彼だろう。そのことに気付いてから、俺は行為が終わった後に彼と話をするようになった。彼は煩わしそうにしていたが、何か尋ねればきちんと答えたし俺の話も一応耳には入れていた。
 ずっと彼を見ていたら煩わしそうにまた目を瞑ったから、彼の手からペットボトルをそっと取った。ぐいと水を口に含んでペットボトルをサイドテーブルに置き、浅く息をしている彼の顔を引っ張って唇を重ねた。

「っ、ん」

 反射的に開いた歯と歯の間から冷たい水をできるだけゆっくり流し込んだ。何度か嚥下する音がして、きちんと飲み下しているのを確認する。苦しいのか、両手で俺の顔を肩を退かそうとするも、疲れ切って力もろくに入らないらしい、どうすることもできずされるがままになった。そのうち何度か角度を変え唇が離れたその合間に息を繋ぐと、今度はキスに没頭した。覆い被さり身体を重ねる。互いの体温が上がっていくのを感じる。もう一度始まるのか、と思ったらしい、諦めたような彼の腕が俺の首に回された。
 けれど。

「水、もっと飲む?」

 唇を離して、きょとんとした顔の彼にそう告げた。暫く彼は何を言っているのかわからない、という顔で俺を見ていたが、可愛いなァなんて考えながら見詰めていたその顔の眉間に皺が寄った瞬間、頬がぶっ叩かれた。

「要らない」

「痛い! ねぇ! 痛い!」

 痛いと訴えたらきゃんきゃんうるさい犬かお前は、と吐き捨てられた。どっちがイヌってあなたのほうですよ、と言いたくなってよした。俺が頬を撫でている間に彼は煙草をとって火をつけた。苛々を沈めるように、深く深く吸い込んでは長く長く吐き出して、を繰り返した。

「……なァ、俺そんな安くないつもりなんだけど」

 最中とは打って変わって冷たい口調の言葉が俺にむかって投げられる。高級なだけあって彼の一晩は数百万円。たとえ俺が御曹司の息子だという事実があっても一週間に一度、彼を買えるか買えないか。一晩の行為に制限はないがその一晩が馬鹿みたいに高い。そんな高級な彼を買うのだから普通なら何度でも気が済むまで行為に及ぶべきなのだけれど。俺はと言えば、ここ最近は彼との行為は一晩に一度、そうして残りの時間はくだらないことを話したり朝まで抱き締めて寝たり、そういうことを彼に求めていた。

「何をそんなに御贔屓にしてくださるわけ」

 予想と違う科白に俺は何度か目を瞬かせる。

「……ねえ、聞いてる?」

「あ、ごめんごめん。いや、そう訊かれると思わなかった」

 ち、と舌打ち交じりに彼は俺の脇腹あたりを蹴った。容赦ない攻撃に俺の皮膚と内臓が悲鳴をあげる。個人的には彼の親元は彼に手加減というものを覚え込ませるべきだと思う。

「いや、なんだろう。なんでかな、わかんないんだけど」

 は? という言葉を顔に浮き出たせ、苛々が増したのか彼の眉間の皺がきゅっと濃くなった。

「気持ち良いのは確かにあるんだけど、それだけじゃなくて」

「高級っつっても所詮デリヘルなんだから用途は一つじゃないの」

「用途とか、あんまりそんなふうに思えなくて」

 要領を得ない俺の回答に、彼の煙草の煙を吐き出す息はどんどん露骨に音を立て始める。小刻みに足を揺らして苛立ちを体現する。
 変なのはわかっている。けれど自分でもよくわからない。この感情が一体なんなのか。ただの支配欲、独占欲、そういうものなのか、何か特別な感情なのか。まだ結論付けられていない。
 いつだったか、俺は彼に一度だけ自分の話をした。彼はそれをどうでもいいことのように聞いていたが、それから何か、俺と彼の間にあったものが変わった気がした。客との行為として彼が俺に抱かれていると、そう単純なものではなくなった気がしたのだ。そしてどんどん、俺は彼を買う理由を見失っていった。彼が魅力的だとか、乱れる姿が見たいとか、そんな理由が嘘のように思えた。何か他にあるのではないか。そんな淫らな理由以外に何か。俺が彼に固執している、その理由がわからない。
 それだけではない。彼のことを名前で呼んでみたいと思い始めて名前を聞いた時からもうずっと、もう何度もこうして回を重ねているのに口に出したくてもまだ出せないでいる。それが本当の理由に繋がっているのかも知れない。ただの浅い理由ではないことは分かっているのだ。だって、そもそも何故、俺は名前を呼びたいの?
 分からないことだらけで混乱していると、溜息混じりに彼は笑った。

「あー、よくいるんだよオマエみたいに、俺らみたいなのにハマるやつ」

「……え?」

 彼は滑稽なものを見る顔で俺を見ていた。冷たい視線、冷たい声、嘲るような表情。けれどもどこか俺の目を引く何かがあるらしい。彼の本心が見えない。それが見たくてじっと深く深く彼の瞳を覗き込んだ。

「要するになんかヤってるうちに自分だけのものにしたいとか、情が移って本気で飼いたくなるとか、そんなところだろ」

 俺の言葉の表面を撫でるような理由がごろごろ並んだ彼の科白は、ちっとも俺の中のものと一致しない。違う、それじゃない、それでもない。もっと、口に出すのも恐れ多いような、言ってしまうと全て終わるような、そんなことなんだ。

「……そうじゃあなくて、」

「もういい、そんなに興味があるわけじゃない」

 俺の言葉を遮って、彼は煙草を消すと俺の手を取った。

「『ご主人様』」

 繰り返されるマニュアルの言葉が俺の目に彼の心にフィルタをかける。彼の心が遮断される。見えかけていた何かが一気に閉じられる。嗚呼、いつもそうだ。始まり、遮断される彼の心が。最中、見えかけて。終わった後、何の隔たりもない彼の心と触れ合って。またこうして始まりの前には途切れてしまう。だから俺は何度も何度も繰り返し彼との時間を重ねていって、そうしていくうち、この隔たりがいつか消えれば良いのにと思っていた。けれど、やはり例外無く発せられる彼の言葉で、また振り出しに戻ってしまう。無意味な時間だったと、思わずにはいられないくらいすっかり元に戻ってしまう。

「……どうしても名前が呼べない」

「……そんなことどうだっていい」

「どうしても名前で呼んで欲しい」

「……必要がない」

「どうにかして、どうにか、この関係が」

「……どうにかしてくれよ」

 ふと声色が変わった彼の言葉が柔らかく耳に届いた。なんだか泣きそうな声をしていたから思わず顔を上げて彼を見たけど、彼は困ったような顔で握った俺の手を見詰めながら溜息を吐いた。彼に呆れられたのだと知ってまた、舌の先まで出かかった呼びたい名前は喉の奥で押し殺された。





 この上も無い上客だと誰もが言うので断れもせず呼ばれれば出向いて、豪華なマンションの一室に閉じ込もった孤独な男の好きなように抱かれてやった。別段難しくは無い。いくつか提示し反応を見て、嗚呼こいつはこういうのが趣味か、そう判断しその通りにするだけ。一度目も二度目も、いつも通りの感覚で『仕事』をしていた。あるとき男が、行為が終わった後に一つ二つ尋ねてきた。そういう客は少なくない。淡々と答えて淡々と遣り過ごしていた。けれど何度目だったか、男は一度だけ何もせずただ一晩中、自分の話を俺に聞かせ、また俺の話も聞きたがった。決して安くない俺の金額は丸々一晩、制限無く何をしても良いという理由の元に高額で、その金額を考えれば長々と自分のことを語る人間はたいしていなかった。皆、なんとかして金額ぶん楽しもうとする。できるだけ無駄な時間を省き、できるだけのことを朝までに詰め込む。それなのにどれだけ金持ちかは知らないがこの男は数百万円を池に放り込んで沈んでいくのを眺めるかのごとく、有り得ない使い方をし始めた。それからだ。俺はこいつの前でどんな風に装えばこいつが喜ぶのかがわからなくなった。以前と同じようにしようとしても、なんだか違うような気がしてやることなすことすべてが宙を舞った。そしてそれから、どんどん俺はこの男との行為に他に類を見ない気持ち良さを感じ始めた。気がついたらただ感情のままに善がっている、乱れている。腕を回して、喉を嗄らして、頭がおかしくなっていくような、自分自身すら捨ててしまっているような。
 いつからか期待さえするようになった。この気持ち良いものを、もっと与えてくれるなら何度でも、そんな風に。けれどこの男は、一晩に一度だけ、たった一度だけ恐ろしいほどの激情で俺を抱いてそれからは他愛の無い話をしたり俺を抱き締めて寝たり、そんな無意味なことを好んだ。

「名前、なんていうのかきいてもいい」

 名前を訊かれたことがある。訊いてどうするのか、と言ったら、呼びたくなった時に困るから、と取り繕うように言っていた。こういう時は偽名を名乗れというマニュアルがある。素性を明かして良いことなど一つもないからだ。この時もそのマニュアルが頭を過ぎった。なのに何故かその時俺の口をついて出たのは、客の誰にも教えたことのない嘘偽りの無いものだった。
 けれど教えてからもうずっと、何度重ねようとも呼ばれたことは一度もない。気紛れで訊かれただけだったならそれで構わない。俺の名前を訊いたとき、彼は自分の名前を俺に教えた。それが嘘の名前か本当の名前かは知らないが、たった一度だけ聞いたその名前が何故か忘れられずにずっと耳に残っている。多分、声に出す日を、待っていたのかも知れない。どうでもいいけれど。

「ねえ」

 彼がそう俺を呼ぶたび、俺は彼に『ご主人様』と嫌味ったらしく応えた。彼がそうやって俺を呼ぶたび、俺は彼の名前を忘れようとした。なのに。

「……どうしても名前が呼べない」

 そう言って俺の目の前で俯いた。俺はわからない。俺にはわからない。けれどどこか、俺の中のどこかにこの男に名前を呼んで欲しいという思いがあったのかも知れない、そう思うしかないほど、この言葉を突きつけられた俺は名前を告げたことを後悔していた。何故だろう。わからない。考えても無駄なのだ。わからない、わからない、わからないんだ。

「……どうにかして」

 この関係を、と搾り出すように言葉を紡ぐ男の声を聞いて、自分にはどうにもできない自分の感情と立場と自分自身を呪った。その声が一度でも名前を呼んでくれたら、どうにかなったのだろうか。どうにかして、どうにか。

「どうにかしてくれよ」

 心の中で呟いた筈が口から零れていた。それほどまでに何かこの男に期待していた自分がおかしくて、そんな自分を持て余して、握った手を見詰めて溜息を吐いた。そして彼はいつぶりかもわからない、一晩のうちに二回目の、その行為を始めた。自分が望んだも同然の二度目の行為の最中、名前なんて知らないままが良かった、そんなことばかりを考えていた。
 行為の気持ち良さなど、わからないくらい。

玩具遊び

 あまりにも天気が良すぎるから気が付いたら部屋の窓を開けていることも忘れて真昼のその日はその行為に没頭していた。日当たりが悪いわけでもないが大して良くもないこの部屋は、こんなに晴天の日でも太陽の光は細い筋となって差し込むのみだ。照明をつけていなければほんのり暗い。ちょうど床に伸びている光の筋が、鳥だか木の葉だかで遮られるたび、ちかちか瞬く。風が吹くと開け放っただけのカーテンが視界の端で揺らめいて小さな音を立てる。あまりに明るい部屋よりも、あまりに暗い部屋よりも、こういった静かな暗さと穏やかな明るさの均衡を保っている部屋が二人でいるのにちょうどよかった。

「何か、話して」

 上擦って掠れた声で言ってみた。意味のない言葉ばかりが自分の口から零れていたから、目の前で息しか零さないそいつに言ってみた。普段に比べてあまりに長く言葉という言葉を使わなかったから、なぜだか自分の存在が無意味に思えてきてしまって、何か意味のある言葉を言って欲しかった。そうだと思う。よく覚えていないのは正直言って行為に没頭している自分の口から出る言葉なんて理由があったり無かったり気まぐれだし、思考が正常に働いていない時のほうが多くて感情的だったり思い付きだったりするのだ。それにこの一言だけじゃない、ただこの言葉が最後だったからなんとなく口走った事実を覚えているだけで、本当はいくつもいくつも同じような言葉をそいつに投げている。

「……何かって、何を」

 そいつは少しの間息を詰めて小さく震えた後、長く息を吐いてから鸚鵡返しのように呟いた。俺は痙攣する指を見つめ無気力で気怠い身体をベッドに預けて残念な気持ちになる。暫く整えるように長い息を吐いていたそいつが体内から退いて、その感触に身震いする俺を上から雪崩れるように抱きしめた。汗ばんだ背中に手を回したら、腫れた引っ掻き傷のふくらみが指に纏わりついた。

「何を話せばいい?」

 疑問というより好みを伺うような問いだ。残念、残念、残念。欲しかったのはそれじゃなかった。

「ん、もういい」

 玩具に飽きた子供のようだと言われたことがある。行為が終われば何もなかったかのような顔をして、もう要らないと言わんばかりに無関心になる、そんな態度を表情を見るたびどうしても虚しい気持ちになるのだと。知ったこっちゃないんだけど。でもそうやって途端に変わるのが少し寂しかったり残念に思ったりする気持ちはわからなくもないと最近こいつを見ていて思った。俺は残念らしい。少し寂しいらしい。

「なんでも話してあげるのに」

「うん、それじゃないからもういい」

 意味がわからないのかただ笑って、声が唇が俺の名前を呼んだ。好きだと言った。俺はそれも欲しい物じゃなかったから、何も言わずに欠伸をして煙草に手を伸ばした。

 こうしてこいつが終わった後に失うもの。行為に没頭しているとき、意味のない言葉を零して感情をばらまく俺を扱う無表情なその腕、理由もないことを望んで強請る俺を呆れたように笑うその顔、何も言わなくても欲しい物を与えたり奪ったりするその身勝手な優しさ。こいつの奥深くにある、俺だけの為のいきもの。それがまた深く深くに隠れてしまうから、なんだか俺は少しだけ残念な気持ちと寂しい気持ちを持て余して、「もう一回」なんて言葉で引きとめようとするのだろう。
 そして行為は続行。また忙しなく没頭する。気怠い身体はもうちっとも動かせないのに、それでも続く。俺が飽きてこいつの腕からすり抜けない限り。こいつの身体を手放さない限り。