ぐるぐるまわる。

「昨日新しいゲーム買ったの、だから一緒にやろうと思って」
 ゲームセンターを出て商店街を抜けている間に男はそう言った。ああ、そういえば書いていたな、と、昨晩読んだこの男の日記を思い出す。
「日記に書いてたの、読んだでしょう」
 言われて初めて、まるでこの男の机の中にある日記を勝手にこっそりと見たでしょうとでも言われているような気になって松本は喉の奥で唸った。実際はそんな秘密めいたものでもない。日記は日記でも、インターネット上で万人に見られるように公開されているのだから、どうして俺がそんな背徳を感じなければならないのだろう。松本はこの男の整った喋り口調が好きでなかった。もともと口数の少ない松本からよく言葉を奪う。それは良い意味でも悪い意味でもある。松本は自分の心を読んだように行動し、自分の言葉を代弁するように話すこの男が苦手であった。
「松本、あれ欲しがってたなって思い出して」
 この瞬間さえ、松本は眉間に寄る皺を隠そうともせずにこの男を睨んだ。けれど男は無神経なのか鈍感なのか、気付きもしないで前を向いて笑っていた。だから松本は苛立つ自分が馬鹿馬鹿しくなって、色を抜き過ぎて痛んだ髪を触りながら口許だけで笑った。
「そっか、ありがとうな」
 男の家までの道で松本は始終コンクリートを眺めていたけれど、男はそれにすら気付くこともなく、只管にゲームの話をしていた。松本はそれに適当な相槌を打ちながら自分の靴の踵がコンクリートで磨り減っていくのを忌々しく思いながら歩いていた。時々、ポケットに突っ込んだ携帯電話を取り出して弄った。携帯電話に飽きるとまたポケットに手を突っ込んで、今度は四日ほど前に理科の授業でやった蛙の解剖を思い出した。松本はただ後ろで見ていただけだったが、友人達が悲鳴をあげながらふっくら柔らかい白い腹に鋭い刃をずぶずぶ沈め、音も立てずに切り開いていくのをなんとはなしに見ていた。薄い刃を差し込んで下に引けば静かに口を開けるそこに痛みがあるのか、ないのか。蛙が死んでいたのか、麻酔で眠っていたのかはよく知らないで見ていた。そもそも興味がなかったからか周囲が声を上げる中でたいした感情を持てずにいたが、似たような行為を自分はいつかどこかで体験したような気がする、と首捻って眺めていた。それを思い出した。あれに似た行為、とは、なんなのだろう。松本がそれについて考えているちょうど隣で、あの日に蛙の腹を割いていたこの男はいつの間にか部活の後輩の話をしている。この男は、あの肉を切る感触を覚えているのだろうか。松本よりも頭一つぶん背の高い男の顔をふと見上げたら、目が合った。
「ついたよ」
 言われて前を見たら、成程、もう見慣れた男の家の前にいた。
 この家に来るのはいつぶりだろう。そう松本が記憶を掘り返して目を虚ろにしているのにこの男は気付かない。気付かず無言のまま松本の視界で蠢いている。誰もいないところで人が変わったように無言になるのにも慣れた。誰かがいる、誰かの気配がある場所ではべらべらと聞いてもいないことを喋り続けるのに、こうして誰もいない隔離されている場所へひとたび入って鍵でも閉めようものなら途端に顔色を変える。外面が良すぎるのだろう、誰と話していても全身から嫌われたくないという声が滲み出ているのだ。松本はこの男の外面と接するたびに吐き気がするほど気分が悪くなるのを感じる。苦手だ、媚び諂うような作り笑いも、その場に合わせる使い慣れた常套句も。視界の隅で、下に、下にと動いていた男が消えた。それを確認して目を瞑った。肌寒さを感じて些か震えたのが弱弱しく思えて、少し眉を寄せた。そうこうしているうちに天地の消える感覚が瞼から脳へ到達したようだ、前を向いている筈だけれど、天井を向いている、気付けば横になっている、うつ伏せにひっくり返ったかと思えばまた上を向いている。目を閉じているから視界は真っ暗闇でしかなくて定かでない。けれども別に目を開けていようとも、自分の『位置』などは所詮わからない、と松本は何か諦めていた。何も分からないし何もかも手探りだし何も存在しないし何も手に入らない。そして何も意味を持たない。それがこの上なく気持ちが良く、楽だと感じるようになったのはつい最近だ。全て手放し、なんのしがらみも無いのは、この上なく心地良い浮遊感がある。初めこそ恐怖と不安に襲われもしたが今となってはただ眠りから覚める瞬間のあのまどろみの途中をずっと味わっているような、そんな穏やかな流れに身を置いているふうに感じている。目を閉じてすぐは身体中が空気に撫でられる感触がする。皮膚の上を滑る生ぬるい、水の流れのような空気だ。次に腕や脚が弛緩して自らの意思で動かすことが不可能になる。この時点で松本は全て手放した気になって、そうすると脳下垂体から流れ出すアドレナリンで痺れるように身体が震えて鼓動が速くなるのを感じる。一瞬の冷ややかさがあった後、身体の中心を突き抜ける大きな熱があり、それが徐々に松本の全身に染み渡り、頭の天辺から足の爪先までその言い知れない熱で包まれる。指がびりびり痺れて鳴く。喉が戦慄いて息苦しくなり、自分が喉を逸らせていることに気付く。心臓の辺りに集まる熱が燻ってくすぐったさに身を捩る。辛くもないのに涙が上瞼と下瞼のぴったりとくっついたそこをじんわりと濡らす。ちか、と光が見えたように瞼が瞬いたら、瞬間、全ての熱が引潮の波のようにざあと引いてしまって、松本の肌の上には細かな泡がぱちぱち弾ける。体内にあった臓器は一つ残らず波と一緒にごっそり出て行って、あとには松本の殻しか残っていない。その松本の体内に、やがて緩やかな心地良さがひたひたに注がれる。頭蓋骨に浸透する頃には、もう言葉も出なくなる。唇の端から零れるのは息を吐く時の震えたか細い音だけで、それすらも外部から聞こえる音というよりは体内を満たしている水のその中で波紋を広げて響いているように聞こえるのだ。愉悦、陶酔、恍惚。言い表すならそれだろうか。今目を開ければ何が見えるのだろう。