「ぐるぐるぐるぐる」

 ぱち、と弾けた。瞼が開いて目が物を捉える。景色が目の前に意味を持って現れる。松本は何度か目を瞬いて、それからじん、と重たく響いた瞼を親指で軽く押した。ふらりと立ち上がる。椅子が軋んでぐるりと回った。ベッドに寝転んでいる男の傍に立って、規則正しい寝息を立てて上下する肩を見下ろした。窓を覆う分厚いカーテンは合わせ目がどこかも分からないくらいぴったりと閉じられている。部屋の蛍光灯は消えている。男の部屋には時計が無いのか、音が無い。この部屋で唯一、先程まで目の前にしていた大きなパソコンだけが鈍い羽虫の様な音を出しながら光っていた。
 男を見下ろしながらまた松本は件の蛙を思い出す。もしも人間がもっと大きな何かに脅かされるようなものだったなら。もしも人間が蛙をそうして扱うように、人間を蛙のようにそう扱う生き物がいたなら。あの場で小さな身体を開かれていたのは自分だったかも知れない。松本はじっと目の前の男を見下ろす。この男も例外でない。寧ろ松本より身体が大きなぶん、選ばれて身体を真ん中から掻っ捌かれていたかも知れない。死んでいるのか眠っているのか、横たわる身体の真ん中にまっすぐ刃をおろされ、皮膚を割いて肉を押し切り、内臓を傷つけぬようにゆっくりと開かれる。そして隅々まで触られ内臓を観察される。自分達はたまたま人間として生まれてきただけに過ぎない。
(じゃあ、さっきのアレは、)
 突如として松本の意識を奪った。目が合った。
「……何処か行くの」
 低く腹に響く声を聞き逃さないようにと無意識に息を殺していた。男は少し起き上がって、松本の腕を掴んだ。
「いや、行かない」
 慌てたみたいに言葉を搾り出す自分までまるでいつもの自分でない違う誰かのような気がして、松本は一瞬自分の声を疑った。男が身体を完全に起こしてベッドに座り、促すように隣を見たから松本もその隣に腰を下ろした。スプリングの軋みが嫌味なほど耳についた。
「このあいだの放課後」
「ああ」
 何処からか取り出した煙草に火をつけると松本に一本、有無を言わさずよこした。松本は受け取ると、唇にくわえてそっとフィルターを舌で触った。男は自分も一本吸い、途切れ途切れに話を始めた。松本は男を見ながら、少しずつ煙を吸ってそれに答えた。話したい何かがあるわけでもないのか訥々と脈絡もなしに話すものだから、会話自体に重みが無く、言葉は常に空中を彷徨った。地に落ちもしないが、吸収されもしない。吐き出された言葉は窒素とか水素とか二酸化炭素とかに混ざってそれらのような顔で俺とこの男の周りに漂う。そして彼が薄い唇から吐き出す煙のように、徐々に端から消えていく。そんな時間が長く続いた。ぽつぽつと何かを問いかけ、何かを返し、何かを投げかけ、何かを与え、何かを提案し、何かを肯定し、何かを拒否し、何かを妥協していた。その会話になんの意図も見えなくて、松本はだんだん気味が悪くなってきた。問いかけること、それに答えるということに意味があり、会話こそが唯一、他人と自己を確認しあえるものだと思っている松本に対して、男にそんな考えがあるとは思えない。一体腹に何を隠しているのだろうか。冷静さを思わせる涼やかな目許も僅かずつしか動かない唇も、何も考えていないように見えるのにその内面には渦巻く波があるように思えて仕方が無い。何を隠しているか知れないが幾つも言葉を投げかけられ、そのひとつひとつに答えて頷き返すという一連のやり取りが長く続いた。たとえば目の見えない闇の中で声だけを頼りに相手を判別し認識し心を許せるかどうかを見定め出来るならば享受し駄目ならば排除しようということなのだろうか。けれど男はただその日にあったことや数日前のことなどを話すだけなのだ。思い返してみれば、この男がこうして二人で居る時に松本のことに関して何か問いかけてきたことはない。松本は何も尋ねられたことがないことに気付く。この男は、本当は自分などには一滴の興味も持っていないのではないか、とそんなような気がしてきた。試されているのか、もしくは疑われているのか。いや、いつも何か疑っている。その上で自分なんぞには少しの興味もないに違いない。
「なんで」
 松本の声に反応して、男が顔を上げる。視線を感じながら二人の間に置かれた灰皿にフィルターを捨て、顔を逸らしたまま松本は静かに続けた。
「俺なの」
 初めてこの男が松本を家に招いたのは何ヶ月も前のことだ。ある日突然、松本はこの男の本質を知った。中身を見た。抱えている何かに触れた。そして何故かこうして何度も、この家に出入りするようになっている。松本は理由を探せずにいた。この男がこうして自分を選び、招いて、こうしてただ取り留めのない、意味のないことを話すその理由も、どれだけ考えても掴めそうになかった。
「そんなことはわからない」
 男が少しも茶化さず真剣にそう言って、吸殻を捨てて二本目に火をつけるのを見ながら俯いた。さきほどひたひたに満ちた自分の中の心地良さが細かく波打ち、引潮を告げる。静かに松本の身体を空洞にしてゆく。
「理由はないよ、探しても」
 すぐ隣にいる男が遠くに居るように思えて、松本は自分の足の先を見詰めながらじっと目を凝らした。何の気なしに歩いていたら小石に躓いた、その時の小石が何色をしていてどれくらいの大きさでどういった模様だったのかを覚えている人がいるだろうか。好んでまじまじと観察し、記憶に刻もうという人がいるだろうか。毎日通う教室の黒板の隅にある落書きのように、意味もなく存在している。そこに必然性や必要性があるかないか、誰もわからないし、誰も興味がない。けれど確かに存在しているのだ。嗚呼、屹度、それだ。松本はなんとなく分かった気がした。そこにあったのだ、見落としているだけで存在している、ずっと前から。必然性も必要性もない。それがある日突然、意味を持ったもののように目の前に現れる。ただ、理由もなく、そこにあったもの同士が何の気なしに触れ合ったのが、そのまま流れるように隣にいるようになっただけに過ぎないのに。見落としていたものを一度目に入れると、まるでいつもそこにあるのではないかというほどに目に付くようになって、意味を持って存在しているような気がしてくる。そうして新しく自分の視界に食い込んできた異色のものを意識しているうちに、もしかすると自分は違う世界へ紛れ込んでしまったのかも知れないという突拍子も無い考えが現実味を帯びて頭の中にたちこめる。その突拍子も無い考えがそのうち空気のように軽くなりそうであることが自然と思えるほど溶け込んでしまうと、疑うことをしなくなるのだろう。どうして隣にいるのだろうなどは。自分が今まさに危機の真っ只中にいることを自覚した。松本は小刻みに痙攣する指を太股の下へと滑り込ませて隠した。
「なんで、隣にいるんだ?」
 静かに尋ねた。男の視線がまた松本に注がれる。その視線を受け止められず下を向いている自分がおかしくて、唇を噛んだ。煙草を銜えるのが見えて煙が松本を取り囲む。薄い斑の白は松本に優しくぶつかると霧散して千切れるように消えていった。男はまた、少しも茶化さなかった。
「隣なの?」
 どうしてそんなにも短い、ただの言葉が、こんなにもにじり寄って来るようにじわじわと胸を締め付けるのかが分からない。松本は逃げたくなった。帰ってしまおう、立ち上がらなければ。唾を飲み込んで足の指を動かした。膝に力を込める。けれど立ち上がれない。男は続けた。言葉には微塵も揶揄するような色合いはなかった。至極、真剣だった。それだけに松本を追い詰めた。
「松本の隣って、一体どこなの」
 そんなことは、わからない。身体よりも先に両手が動いて、気付いたら顔を覆っていた。視界が意味を持たないものだとわかった気でいたのにも関わらず手で塞いでしまわねば気が済まなかった。男がまだ火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付ける音が聞こえて、ベッドのスプリングが鳴いた。それからまた松本はじっと目を閉じているしかなかった。身体の支配すべてを放棄し、委ね、脳にまで届く浮遊感で満たされるまで。
 拒んだ。指を動かした。掌で握った。汗が滲んだ。唇が乾いた。目の前が歪んだ。脚が震えた。溶けた。緩んだ。力が篭った。濡れた。頬に髪が触った。戦慄いた。奥歯を噛み締めた。皮膚が粟立った。撓んだ。背中が反った。喉が嗄れた。考えた。目を開けた。境界線を探した。此処、其処、あちら、其方。自分、他人。理由を探した。見当たらなかった。柔く潰された。勝手に侵食された。微かに聞こえた。何かに触れて、繋がりかけた。けれど散らばった。最後には相殺して、忘却した。
 ぱち。目を二度瞬く。窓から注ぐ夕日が眩しい。近頃、頻繁に記憶が途切れる。松本は重たい瞼を掌で押さえた。目の前で日誌を書いている男はずっと昨日見たらしいテレビドラマの話をしている。にこにこと笑って、なんの相槌も打っていないのに楽しげに話し続けている。
「誰なんだ」
「え? 何が?」
「おまえ」
 誰も居ない教室、男の目の前に座りながら、綴られている文字をじっと見て松本は尋ねた。男は虚を疲れたように驚いて言葉を止め、それから茶化して笑った。その作ったような笑顔が松本の苛立ちを唆すけれど、それには気付いていないようだ。
「何言ってるの、そんなこと知らないよ」
「知らないわけない」
「じゃあ松本はいったい誰なの」
 男が冗談交じりに言った言葉がストンと胸の上に落ちた。
「ほんとうに松本なの」
 そして、ゆっくり、下腹の辺りまで真っ直ぐな線を描いた。
「その中には誰がいるの」
 知らない、と言葉を零しそうになった自分に驚いて、松本は開きかけていた唇を閉じた。そんな松本をまたおかしそうに笑って、男は日誌を閉じた。
「終わったよ、帰ろう。日記読んだでしょう? 松本に手伝って欲しい課題があるんだ」
 白い台の上で。仰向けに転がされ。白い腹を剥き出しにされ。抵抗する力も失くして。刃を突き立てられ。肉を切られ。はらわたを取り出されて。綺麗に洗われ。ひとつひとつ、触れられ、また綺麗に腹の中に収められて縫い合わされる。受動的だけれど、もしその受動性を受け入れた上でそれを受け入れるなら、それは能動的ではないか。