「青春ごっこ」

 繰り返される愛の冗談は幾度となく流してきた。戸惑いながらも流さなければならないと頭の何処かで完璧に割り切っていた。そうしなければこうやって、放課後や休みの日に互いの部屋に出入りするほどの関係を続けてはいけない。けれど、何処から何処までが、ボーダーラインなのだろう。気づかれないようにと茶化すのも、限度があるというのに。

 放課後に麗の家で、二人揃って課題をやっていた。放課後に女の子との見詰めあい、でなく、課題とにらめっこ、なんて、と溜息を吐く相手に「付き合ってる女もいねーくせに」と悪態をついたら「それ言わないで」と返される。それで暫く取り留めのない会話で笑い合っていたのだが。

「俺、流鬼なら抱ける気がする、顔が可愛いから」

 正直腹が立った、人の気も知らないでなんてことを言うのかと。しかも顔だと。可愛いに決まっているだろうが。苛々してついぶっきらぼうに返答をした。

「じゃあやってみれば。お前には出来ないだろうけど」

 一瞬で部屋の空気が凍りついた、次の瞬間、回る天井に思考が切れた。二転三転する壁に俺は驚いて抗うこともろくに出来なかった。唐突にそれも恐ろしい速さで色の変わる視界に戸惑いが先立ち、戸惑っている間に気づけば背中と床が離れなくなっている。腕を押さえられている。ぴたりと、視線がかち合ったまま、息を整える。ふ、と状況を飲み込んで、思わず肺を膨ませた。

「……おい、落ち着け、冗談だろ」

 自分に言い聞かせるように、目の前の男に言い聞かせる。なんとなくこうなった経緯はものすごく莫迦莫迦しいが、莫迦莫迦しくもない現状には余裕を装って吐く溜息もただの強がりにしかならない。

「多分、後悔するから」

「……」

 麗は必死に訴える俺を何も言わずに冷えた目で見下ろしている。その瞳の翳った様が唾を飲むほど恐ろしく感じられた。こんな顔をしている麗は終ぞ見たことがない。怒っているのか、何も考えていないのか、怒りや憎しみとかいう感情の衝動とその真意を見抜かれないように作られた仮面のようにも思えたし、ただ本当に何も考えておらず思ったままに行動していますと表しているような、彼らしい感情的な表情のようにも思えた。前者であるなら救われる。後者であれば未来はない。

「なァ、俺の言い方が悪かったんだろ、謝るから退けよ」

 しかし麗は謝罪など求めていないといった風に聞く耳を持たず、俺を床に押さえつけて依然と動こうとしない。聞こえていないのか、聞く気もないのか、それとも違う言葉を待っているのか。俺は必死になるしかなかった。このままでは冗談で済まない。焦るとぺらぺら舌が回った。自分でもおかしいほど言葉で場を切り抜けることに徹した。

「おいほんと冗談じゃないってば、退けよ。俺明日までに数学の宿題やんないと先公に卒業させてやんねえって言われてんだけど。オマエもじゃない? 出席日数足りてねェからっていうかさっきから気になってたけどお前ちょっと太ったんじゃねェのすっごい重いんだけどだからマジで退いて、しゃれにな」

「うるさい」

 びく、と、震えて言葉に詰まった。ただでさえ低い声が更に地を這って耳に届く。本気で怒っているのかも知れない。俺を苛立たせたのは麗のほうだったが、煽ったのは俺なのだから、悪いのは俺だろう。しかし先に苛立たせてきたのは麗じゃないか。それを考えると何かしら怒っているらしい麗に真剣に腹が立ってきた。まず自分の過失に関わらず相手が機嫌を損ねると競うように自分も不機嫌になるのは性格上どうしようもないことだという自覚はある。

「冗談じゃねーよ、調子に乗んなよ」

 思い切り睨みつけると、麗は冷ややかな目を少しだけ揺らした。俺はしんと静まり返った部屋で床に押さえつけられたまま相手を殺す勢いでにらみつけたが、とうの睨まれた麗といえば、じっとこちらを見詰めたままで、やはりその目からはなんの感情も見抜けない。そのうち何か呟くようにして唇を動かしたかと思うと、ぐぐ、と顔が近づいてきた。俺の心臓は大きくて速い鼓動を刻み始める。動けないのは嫌悪ではなく、期待だと、知っているのにやはり動けない自分が疎ましかった。そんな期待を、自分を、視線を剥がせば気づかれるに違いないと恐ろしくて、視線も動かせなかった。麗の鼻先が俺の鼻先に擦れる、寸前、息を止めた、瞬間。それまで呼吸の音すら潜ませていた麗が、風船を割ったかのような大声で盛大に笑い出した。

「莫迦じゃないの流鬼、マジ俺が襲うと思ったわけ」

 俺の上から退いて腹を抱えて笑い転げる。呆然としたまま起き上がることも忘れて数秒、天井を見ていた。それから謀られたと気づいてすぐに起き上がり、怒鳴ることすら出来ず胸から飛び出さんばかりに暴れる心臓を抑え込んで項垂れ、怒りと羞恥に震えた。またそれを見て麗は涙まで流し出す始末だった。それから心臓の鼓動を整え終え、麗を殴って黙らせるのに時間はかからなかった。

「悪かったってばぁ。でもやってみればっつったのは流鬼じゃん」

 殴られた頭を撫でさすり、笑いをこらえて言う。

(人の気も知らないくせに)

 失言だった。つい苛立って思ったことが口を付いて出た。でもそれは麗が悪いのだ。あんな冗談を、俺の気も知らないで、何事もないかのように言うから。

「お前なんてもう顔も見たくない」

 死ねばいいのに、と吐き捨て、まだ真っ赤であろう顔を必死に隠しながら荷物をまとめ家から出て行く俺を麗はげらげら笑いながら玄関まで見送った。



玄関のドアが乱暴に閉じられ流鬼が見えなくなると、顔から一気に笑いが引いたのが鏡で見ているかのようにはっきりとわかった。その場に座り込んで後頭部をかきながら、自分の莫迦さ加減に溜息を吐いた。

「マジで、冗談じゃないってば」

 冗談でしか言えない言葉を受け止めてもらえるなどとは思っていなかったが、ああ言い返されるとも思っていなかった。なんとなく自分の部屋に入りづらくて、部屋の前で立ち止まる。

(人の気も知らねーくせに)

 愛情を冗談めかすことには慣れている。けれど、切り返される言葉に戸惑う自分を抑えられない。何処から何処までが許容範囲なのだろう。また一つ自分の部屋に消えない影が出来てしまった。夢に見そうだ、と、ドアに頭をぶつけて目を閉じた。