「嘆くな、けれど」

 落ちたのか。逸れたのか。上ったのか。転んだのか。もともと此処に居たのかも知れない。だけれど気づいたら手を握っていたのだからもと居た場所から如何にかなったのは確かだ。理由も無いのに手と手をとるなどはありえない。こちらから差し伸べたのか、あちらが差し出したのか。こちらが強引に掴んだのか、あちらが有無も言わさず握ったのか。さあ己はいよいよわからないことだらけの中で今の立ち位置にあることに気づく。果たして此処にこのまま斯うして在ることは必然的にそうなったのか不条理なものに動かされてそうなったのか? 答えは見当たるはずも無い、なにせ己の指の感覚すら上手に把握できていない。
 暗転があった。目を開いたら仰向けになって光の流れる水面を眺めている、薄暗い海の底は穏やかで何故か心地が良く思える。見上げる光の波間にちらちらと細かく震えるものがある。音が水を震わせているのだと知る。耳に届くのはふさがれた空気の囀りだけで、目を塞げば音がしていること自体を忘れてしまえるくらいに何も聞こえない。不思議にも俺は此処は何処かと問うことをしない。自分がどんな姿か思いつかないのに思い出せないことを疑問に思うこともない。震える音に対して興味を抱くわけもなく、自分が息をしているのかいないのかも考えるに及ばない。ただ在る。それだけだ。
 再び暗転した。

「流鬼」

 目を開けた。浮上した感覚が身体中に染み渡ってどんと身体の重みを感じた。たくさんの色に囲まれているのに先ほど居た薄暗い其処よりも何処か薄っぺらな気がした。

「おはよう」

 声を出してみた。腕を伸ばした。隣に居る男の首に腕を回した。背中を緩く撫でられた。そして、なるほど、とひとり納得する。喉が震えて舌が動いたから、腕を意思で動かせたから、自分ではない誰かが自分に触れたから、そうして自分は今ここに存在しているのだと思い込んだ。思い込んでいたのだろう。確証があるはずがないものを思い込み信じることが唯一人間に与えられた救われるための術であるのかも知れない。同時にそれは唯一許されなかった苦悩、痛みを抱え生きなければならない罰であるのだとも思う。

「おはようのチューして」

「了解です」

 ふざけて笑い合うことで安堵を得る。馬鹿げたことを言い合うのには意味がある。触れ合うこと、探り合うこと、引き裂いて潜り込むこと、語ること。全ては二人に感傷を連れてくる。逃れられない場合に二人がすべきこと、二人が存在しているという事実に観念さえも笑い飛ばしてしまうことで意味や理由を忘れること。言葉など目に見えないものを信じることを拒みながら感情など形にもできないものを信じたいと願う、愚かな自由。

 生きていることを嘆くことはしない。何かを愛すことも拒まない。けれど、出来ればあなたを揺るがす何かで在りたい、そんな我が儘も口にしたくないほどあなたに揺るがされている自分だけは拒んでいたい。

(保身、というより。)

 もっと醜く浅ましい。