三十八度

 意識が浮上して目を開ければ、頭はすっかり靄が晴れたようで、身体からは気だるさも抜けていた。やはり睡眠不足による発熱だったらしい、まだ少し熱はあるようだが、眠る前より頭は軽かった。ふと身体を起こして窓を見ると、カーテンの向こうはすっかり暗くなっていてぎょっとする。いくら熱が出ていたからといっても流石に寝すぎてしまったようだ。枕元にあった携帯電話を手繰り寄せて見れば、夕方の六時を回っていた。自分が寝入ってから九時間弱、一度も目が覚めなかったなんて。仕事は山のようにあるというのに。体温計を目にした時よりも絶望を感じて、一時間後に起こせという言いつけを守らなかった麗を殴りに行こうと寝室を出た。

「あ、起きた?」

 居間のソファでテレビを見ていた麗が寝室から出てきた俺を見るなり輝かしいほどの笑顔をむけた。その笑顔がもうイラつく。近づいたその足で脇腹のあたりを踏みつけた。

「起きたぁじゃねーよ馬鹿! 起こせって俺言わなかった? なあ、言わなかった?」

「起こしに行ったけど流鬼起きなかったしさぁ!」

「言い訳してんじゃねーよカス!」

 お前のせいで色々な予定が狂ってしまったではないか。今日中に終わらせようと思っていたことが何一つ終わっていない。謝り倒してくる麗をソファから退かせて座り込み、苛々しながらノートパソコンを開いて作業を開始した。せめて半分だけでも、と焦っていたら、麗が何やらテーブルの上にいそいそと食器を並べた。

「……何」

「何って、昼飯。あ、もう晩飯かぁ」

 すぐできるから、とキッチンのほうに消えてから数分後、湯気の立つ丼を持って戻ってきた。テーブルの上に置かれたそれは温かそうなうどんだった。

「具が蒲鉾とネギしかないけど」

 ごめんね、と謝って箸を差し出す。オマエが作ったの、と指をさせば、にこにこ笑っている。仕事頑張るためにも体力つけないと、と言って俺の手に箸を握らせた。

 うどんを口に運ぶたび、麗は隣でにこにこ嬉しそうに笑っていた。ずっと俺の髪を触ったり頭を撫でたりしていた。「治りますように」なんて何かに願っていた。食べ辛いな、と思うのに、願っても願わなくても治る時は治るし治らない時は治らないんだよ、と思うのに、何故だかその手を邪険に扱えず、俺はただ撫でられながら与えられたうどんを食べていた。

「美味しい?」

「……ふつう」

「そっか。仕事追いつきそう?」

「……そんなのわかんない」

「ごめんね、でも流鬼が元気ないのは、怒られるよりも嫌だよ」

 そういえばうどんなんて食べたのはいつぶりだろう。風邪をひけば食べさせられていた記憶はあるけど、その味をよく思い出せないから比較のしようもない。だいたい熱を出した時に食べるものは味覚が馬鹿になっているから美味しいかどうかなんて覚えちゃいないんだ。どうせ今も味覚が馬鹿になっている。だからこれを美味しいと思っても、それは熱のせい。風邪をひいた時は精神的に弱くなるっていうから、屹度そのせいだ。