狗とベッドで番の真似事

【狗】イヌ。小犬。いやしいもの。

 誰にも内緒で、一晩数百万の狗を買った。

 親指の、爪の少し上にある関節の山にそうっと唇が押し当てられる。食むようにして、それから、つ、と撫でる如く上へ上へと這ってくる。同時に背筋をかけのぼる何かに身体を震わすと、まるで悦んでいるのかと言わんばかりに見上げられた。小癪な狗だなァ、口に含んだ科白を喉で押し殺している俺の反応に気を良くしたのか微笑んで睫毛を伏せる。この狗はただ忠実なわけではない。どちらかといえば高飛車で服従も知らない猫のようだ。けれど行為の最中だけは、狗らしく従順に与えられるものを受け入れて悦んだ。もしかすると俺の中の汚い欲をきれいに見抜いて形を変える、そんな狗なのかも知れない。初めての時からそうだった。俺のことを何もかも知っている、そんなふうに思わせる。気持ち悪いぐらいに気持ち良い行為が、日が経てば経つほど、他の誰かと重ねれば重ねるほど、思い出されて病み付きになった。何度も何度も繰り返し繰り返し買い続け、そして顔を見れば澄まして美しい目の前の男が自分で狂う様を見たいという卑しい支配欲に似た理由が胸に込み上げるようになった。俺はこの狗を気に入ったのだろう。一度見ると忘れられない。もう一度、この男の劣情を暴き出し欲に瞳を揺らして乱れる様が見たい。四肢を押さえつけられ、抵抗も忘れて、はしたなく息を弾ませ欲だけに溺れてしまった彼の最後が見たい。そうしてもう何度目か。数えちゃいないから、気が遠くなる金額を支払っているということだけを事実として知っている。それもまたあまり数えたくはないけれど。
 前回のように、前回よりも、理性が崩れていくきれいな姿を心を表情を見せて。込み上げてくるそんなどうしようもない感情に、うっすら開けた口角のつり上がった唇の間で舌が一寸踊った。

「ご主人様」

 嫌味か何かかと耳を疑うような口ぶりで恭しくそう言いながらベッドに腰掛けている俺の足元に跪いた彼がそっと俺の目を見ることを許せと言わんばかりに胸元近くで視線を止めた。ここまでいつも通りの流れだ。彼が口づけている手と逆の手でそっと頬を撫でてやると、それを合図と見做して、彼は顔を上げてじっと俺の目を見る。

「お好きに抱いてください」

 屹度マニュアルか何かなのだろう。始まる前に彼は必ずこの科白を言った。前に一度訊いたことがある。「相手は客だし気持ち悪い科白だろうが言うぐらい別にどうってことないけど、なんかオマエには言いたくないな」そう言って俺を睨んでいた。けれどやっぱりきちんと言うのは、言うことで意識が割り切れるのだそうだ。どんなに嫌な相手でも仕事だと割り切るための言葉らしい。
 行為が始まるまでマニュアル以外のことは何も喋らない彼は、行為の最中や終わった後のほうがよく鳴いた。喉が嗄れるほど鳴かされるからオマエとやりたくない、と終わった後で何度かぼやいていた。いつからかこうして、仕事ではない顔をちらちら見るようになって、それからやっと俺は当然のことに気付いてしまった。彼は俺の飼い犬じゃない。あくまで俺は大勢の中の一人なのだと。



 彼は枕を抱きこんで頬をくっつけ、散々に乱れた息が整うまで目を瞑っていた。余韻が残っているのか少し肌に触れただけでぴくりと眉を動かして息を詰めた。

「ねぇ、何か飲もうか」

 立ち上がって冷蔵庫に向かう俺を見もしない。立ち上がり寝室を出て歩いていると空気に触れている背中がやけにじんじん熱かった。洗面所の鏡に映して見ると、背中の皮膚に真っ赤な線がいくつか蔓延っている。あんまりよく覚えていないが屹度彼が描いたものだろう。なんだか愛しく思えた。この傷だけが、俺と彼が繋がっていた確かな証拠になると思った。

「水でいいかな」

 寝室に戻ると彼は眠っているかのように静かに出て行ったときのままの体勢で居た。ミネラルウォーターのペットボトルを目の前に差し出す。身体を寝かせたまま受け取りはしたが、飲む気がしないのかそれとも飲む気力もないのか、暫くそのまま握っていた。身体を動かすのも億劫なほど疲れているようだ。しかし最後の方はもう掠れて泣き声や悲鳴に似た声しか出なくなっていたから、飲みたくないわけではない筈だ。

「どうしたの。飲まないの、飲めないの」

 うるさい、そんな顔で俺をじろりと睨んでくる。行為の前は機械か何かのように淡々としているくせに、終わってしまえばこうも好き勝手な態度ができるものらしい。ならば屹度、今の無愛想で強気で我儘な彼が本当の彼だろう。そのことに気付いてから、俺は行為が終わった後に彼と話をするようになった。彼は煩わしそうにしていたが、何か尋ねればきちんと答えたし俺の話も一応耳には入れていた。
 ずっと彼を見ていたら煩わしそうにまた目を瞑ったから、彼の手からペットボトルをそっと取った。ぐいと水を口に含んでペットボトルをサイドテーブルに置き、浅く息をしている彼の顔を引っ張って唇を重ねた。

「っ、ん」

 反射的に開いた歯と歯の間から冷たい水をできるだけゆっくり流し込んだ。何度か嚥下する音がして、きちんと飲み下しているのを確認する。苦しいのか、両手で俺の顔を肩を退かそうとするも、疲れ切って力もろくに入らないらしい、どうすることもできずされるがままになった。そのうち何度か角度を変え唇が離れたその合間に息を繋ぐと、今度はキスに没頭した。覆い被さり身体を重ねる。互いの体温が上がっていくのを感じる。もう一度始まるのか、と思ったらしい、諦めたような彼の腕が俺の首に回された。
 けれど。

「水、もっと飲む?」

 唇を離して、きょとんとした顔の彼にそう告げた。暫く彼は何を言っているのかわからない、という顔で俺を見ていたが、可愛いなァなんて考えながら見詰めていたその顔の眉間に皺が寄った瞬間、頬がぶっ叩かれた。

「要らない」

「痛い! ねぇ! 痛い!」

 痛いと訴えたらきゃんきゃんうるさい犬かお前は、と吐き捨てられた。どっちがイヌってあなたのほうですよ、と言いたくなってよした。俺が頬を撫でている間に彼は煙草をとって火をつけた。苛々を沈めるように、深く深く吸い込んでは長く長く吐き出して、を繰り返した。

「……なァ、俺そんな安くないつもりなんだけど」

 最中とは打って変わって冷たい口調の言葉が俺にむかって投げられる。高級なだけあって彼の一晩は数百万円。たとえ俺が御曹司の息子だという事実があっても一週間に一度、彼を買えるか買えないか。一晩の行為に制限はないがその一晩が馬鹿みたいに高い。そんな高級な彼を買うのだから普通なら何度でも気が済むまで行為に及ぶべきなのだけれど。俺はと言えば、ここ最近は彼との行為は一晩に一度、そうして残りの時間はくだらないことを話したり朝まで抱き締めて寝たり、そういうことを彼に求めていた。

「何をそんなに御贔屓にしてくださるわけ」

 予想と違う科白に俺は何度か目を瞬かせる。

「……ねえ、聞いてる?」

「あ、ごめんごめん。いや、そう訊かれると思わなかった」

 ち、と舌打ち交じりに彼は俺の脇腹あたりを蹴った。容赦ない攻撃に俺の皮膚と内臓が悲鳴をあげる。個人的には彼の親元は彼に手加減というものを覚え込ませるべきだと思う。

「いや、なんだろう。なんでかな、わかんないんだけど」

 は? という言葉を顔に浮き出たせ、苛々が増したのか彼の眉間の皺がきゅっと濃くなった。

「気持ち良いのは確かにあるんだけど、それだけじゃなくて」

「高級っつっても所詮デリヘルなんだから用途は一つじゃないの」

「用途とか、あんまりそんなふうに思えなくて」

 要領を得ない俺の回答に、彼の煙草の煙を吐き出す息はどんどん露骨に音を立て始める。小刻みに足を揺らして苛立ちを体現する。
 変なのはわかっている。けれど自分でもよくわからない。この感情が一体なんなのか。ただの支配欲、独占欲、そういうものなのか、何か特別な感情なのか。まだ結論付けられていない。
 いつだったか、俺は彼に一度だけ自分の話をした。彼はそれをどうでもいいことのように聞いていたが、それから何か、俺と彼の間にあったものが変わった気がした。客との行為として彼が俺に抱かれていると、そう単純なものではなくなった気がしたのだ。そしてどんどん、俺は彼を買う理由を見失っていった。彼が魅力的だとか、乱れる姿が見たいとか、そんな理由が嘘のように思えた。何か他にあるのではないか。そんな淫らな理由以外に何か。俺が彼に固執している、その理由がわからない。
 それだけではない。彼のことを名前で呼んでみたいと思い始めて名前を聞いた時からもうずっと、もう何度もこうして回を重ねているのに口に出したくてもまだ出せないでいる。それが本当の理由に繋がっているのかも知れない。ただの浅い理由ではないことは分かっているのだ。だって、そもそも何故、俺は名前を呼びたいの?
 分からないことだらけで混乱していると、溜息混じりに彼は笑った。

「あー、よくいるんだよオマエみたいに、俺らみたいなのにハマるやつ」

「……え?」

 彼は滑稽なものを見る顔で俺を見ていた。冷たい視線、冷たい声、嘲るような表情。けれどもどこか俺の目を引く何かがあるらしい。彼の本心が見えない。それが見たくてじっと深く深く彼の瞳を覗き込んだ。

「要するになんかヤってるうちに自分だけのものにしたいとか、情が移って本気で飼いたくなるとか、そんなところだろ」

 俺の言葉の表面を撫でるような理由がごろごろ並んだ彼の科白は、ちっとも俺の中のものと一致しない。違う、それじゃない、それでもない。もっと、口に出すのも恐れ多いような、言ってしまうと全て終わるような、そんなことなんだ。

「……そうじゃあなくて、」

「もういい、そんなに興味があるわけじゃない」

 俺の言葉を遮って、彼は煙草を消すと俺の手を取った。

「『ご主人様』」

 繰り返されるマニュアルの言葉が俺の目に彼の心にフィルタをかける。彼の心が遮断される。見えかけていた何かが一気に閉じられる。嗚呼、いつもそうだ。始まり、遮断される彼の心が。最中、見えかけて。終わった後、何の隔たりもない彼の心と触れ合って。またこうして始まりの前には途切れてしまう。だから俺は何度も何度も繰り返し彼との時間を重ねていって、そうしていくうち、この隔たりがいつか消えれば良いのにと思っていた。けれど、やはり例外無く発せられる彼の言葉で、また振り出しに戻ってしまう。無意味な時間だったと、思わずにはいられないくらいすっかり元に戻ってしまう。

「……どうしても名前が呼べない」

「……そんなことどうだっていい」

「どうしても名前で呼んで欲しい」

「……必要がない」

「どうにかして、どうにか、この関係が」

「……どうにかしてくれよ」

 ふと声色が変わった彼の言葉が柔らかく耳に届いた。なんだか泣きそうな声をしていたから思わず顔を上げて彼を見たけど、彼は困ったような顔で握った俺の手を見詰めながら溜息を吐いた。彼に呆れられたのだと知ってまた、舌の先まで出かかった呼びたい名前は喉の奥で押し殺された。





 この上も無い上客だと誰もが言うので断れもせず呼ばれれば出向いて、豪華なマンションの一室に閉じ込もった孤独な男の好きなように抱かれてやった。別段難しくは無い。いくつか提示し反応を見て、嗚呼こいつはこういうのが趣味か、そう判断しその通りにするだけ。一度目も二度目も、いつも通りの感覚で『仕事』をしていた。あるとき男が、行為が終わった後に一つ二つ尋ねてきた。そういう客は少なくない。淡々と答えて淡々と遣り過ごしていた。けれど何度目だったか、男は一度だけ何もせずただ一晩中、自分の話を俺に聞かせ、また俺の話も聞きたがった。決して安くない俺の金額は丸々一晩、制限無く何をしても良いという理由の元に高額で、その金額を考えれば長々と自分のことを語る人間はたいしていなかった。皆、なんとかして金額ぶん楽しもうとする。できるだけ無駄な時間を省き、できるだけのことを朝までに詰め込む。それなのにどれだけ金持ちかは知らないがこの男は数百万円を池に放り込んで沈んでいくのを眺めるかのごとく、有り得ない使い方をし始めた。それからだ。俺はこいつの前でどんな風に装えばこいつが喜ぶのかがわからなくなった。以前と同じようにしようとしても、なんだか違うような気がしてやることなすことすべてが宙を舞った。そしてそれから、どんどん俺はこの男との行為に他に類を見ない気持ち良さを感じ始めた。気がついたらただ感情のままに善がっている、乱れている。腕を回して、喉を嗄らして、頭がおかしくなっていくような、自分自身すら捨ててしまっているような。
 いつからか期待さえするようになった。この気持ち良いものを、もっと与えてくれるなら何度でも、そんな風に。けれどこの男は、一晩に一度だけ、たった一度だけ恐ろしいほどの激情で俺を抱いてそれからは他愛の無い話をしたり俺を抱き締めて寝たり、そんな無意味なことを好んだ。

「名前、なんていうのかきいてもいい」

 名前を訊かれたことがある。訊いてどうするのか、と言ったら、呼びたくなった時に困るから、と取り繕うように言っていた。こういう時は偽名を名乗れというマニュアルがある。素性を明かして良いことなど一つもないからだ。この時もそのマニュアルが頭を過ぎった。なのに何故かその時俺の口をついて出たのは、客の誰にも教えたことのない嘘偽りの無いものだった。
 けれど教えてからもうずっと、何度重ねようとも呼ばれたことは一度もない。気紛れで訊かれただけだったならそれで構わない。俺の名前を訊いたとき、彼は自分の名前を俺に教えた。それが嘘の名前か本当の名前かは知らないが、たった一度だけ聞いたその名前が何故か忘れられずにずっと耳に残っている。多分、声に出す日を、待っていたのかも知れない。どうでもいいけれど。

「ねえ」

 彼がそう俺を呼ぶたび、俺は彼に『ご主人様』と嫌味ったらしく応えた。彼がそうやって俺を呼ぶたび、俺は彼の名前を忘れようとした。なのに。

「……どうしても名前が呼べない」

 そう言って俺の目の前で俯いた。俺はわからない。俺にはわからない。けれどどこか、俺の中のどこかにこの男に名前を呼んで欲しいという思いがあったのかも知れない、そう思うしかないほど、この言葉を突きつけられた俺は名前を告げたことを後悔していた。何故だろう。わからない。考えても無駄なのだ。わからない、わからない、わからないんだ。

「……どうにかして」

 この関係を、と搾り出すように言葉を紡ぐ男の声を聞いて、自分にはどうにもできない自分の感情と立場と自分自身を呪った。その声が一度でも名前を呼んでくれたら、どうにかなったのだろうか。どうにかして、どうにか。

「どうにかしてくれよ」

 心の中で呟いた筈が口から零れていた。それほどまでに何かこの男に期待していた自分がおかしくて、そんな自分を持て余して、握った手を見詰めて溜息を吐いた。そして彼はいつぶりかもわからない、一晩のうちに二回目の、その行為を始めた。自分が望んだも同然の二度目の行為の最中、名前なんて知らないままが良かった、そんなことばかりを考えていた。
 行為の気持ち良さなど、わからないくらい。