「……おはよう、流鬼」

 どうしたの。声をかけたら、流鬼がぼそりと呟いた。

「綺麗な花が咲いた。桜かな」




「そうじゃない」

 抑揚のない声で短くそう言う流鬼は俺の差し出した手を一瞥しただけでふいとまたそっぽを向いた。これでもう何度目か分からない、流鬼の否定の科白が俺の胸に突き刺さる。

「流鬼、」

「違うよ」

 プチ、プチ、という音だけが部屋に響く、沈黙がまた二人の間を流れた。流鬼はじっと自分の指先を見詰めながら、爪を弄っている。少し伸びた爪の下、肉と繋がっているところに親指の爪を差し込んで弾くと、プチ、と音が鳴る。人差し指、中指、人差し指、人差し指、薬指。気だるげに、手持無沙汰に、他にすることも思いつかないからやっているように見えるその行動が、俺には何処かそれをしなければならないという衝動に駆られての行為に見えた。

 こういったことは何度かあった。自分の殻に篭るというか、もともと何かについてぐるぐる考えを巡らせる性分が流鬼を何処か俺の知らないところへ連れ去っていくのだろう、俺の手の届かないところに潜っていって、俺が何を言っても何をしても流鬼に響かなくなって仕舞う。子供のように突然笑ったかと思えば泣き出したり、理由もなく不機嫌になったりと精神状態は不安定で、例えば俺が何か問いかけても見当違いの反応を見せる。文字通り、俺の知っている流鬼は何処かへ行ってしまうのだ。けれど今日の流鬼はなんだかそれだけではない、というよりは、それとは何か種類が違うような気がした。

「流鬼、お腹空かない。何か食べようよ」

「麗、頭が痛い」

「……大丈夫?」

「ふふ」

 頭が痛いと言いながら流鬼は痛がる素振りなどこれっぽっちも見せずにただ爪をプチプチ鳴らして笑った。俺は溜息を漏らす。

「ねえ、そうじゃないよ」

 流鬼はまた否定する。そして俺は困惑する。どうしていいかわからなくなる。何がどうなったのか分からない。不安が俺の胸に降り積もる。どうにかして流鬼を元に戻そうと何かを試みても全て空振りに終わって、どうしようもなくなって虚しさと困惑に彩られた顔の俺を見ると流鬼は笑った。どうしたの、と。

「流鬼……そうだ、風呂入ってもう寝よ、疲れたよね。今日はいっぱい話したし考えたし、撮影もあったから、疲れてるんだね」

「うるさい」

「……る、」

「頭が痛い」

「薬飲む?」

「違うよ、そうじゃないの」

「……頭痛いんでしょ?」

 鸚鵡返しのような返答を続けていると、流鬼の爪を弾く音は次第に速くなる。時計の針の音よりも間隔のあった音が、時計の針と同じになったかと思ったら、追い越して、プチ、という音は鈍さを増す。力が篭っている、怪我に繋がったらどうしよう、そう思って咄嗟に流鬼の両手をつかんだ。ソファに座る流鬼の足元に膝をついて、握り締めた流鬼の手にぎゅうと力を込めて、自分の思いが、声が、どうにか流鬼に響いてくれはしないかと、その手に額を押し付けた。

「……流鬼、俺どうすればいいの」

 どうすれば流鬼が元に戻るのかわからなくて俺は泣きたくなった。いつもの流鬼じゃないと嫌だ。強くて、しっかりしてて、弱い俺を詰って、怒って、それでも優しくて。流鬼が流鬼じゃなくなる、これがもしずっとずっとこのまま戻らなくなってしまったら、そんな恐怖で胸の鼓動が速くなっていく。嫌だ、嫌なんだ、そんなのは。

「そうじゃあないんだよ、麗」

 流鬼は俺の手の中から片手だけそっと抜き取ると、俺の頭を小さい子供にするようにぽんぽんと撫でた。その表情があまりに優しく笑っているものだから、一瞬、元の流鬼に戻ったのではと期待をする。けれどすぐ打ち砕かれる。

「なんで泣いてるの、可哀相」

 本当に哀れな者を見るように目を細めて眉を下げる。泣かないでよ、と言いながら次の瞬間にはものすごく嬉しそうに笑った。嗚呼、違う、駄目だ、戻らない、やっぱり。俺の頭の中にぐるぐるぐるぐるよくない考えが去来する。
 戻らない。このまま。流鬼が流鬼じゃないまま。俺を置いて遠くに行って。流鬼じゃない。知らない。目の前のこの人が。俺を否定し続ける。流鬼を否定し続ける。戻らない。戻らない。戻らない。戻らない。

「麗、どうして俺だとだめなの」

 どうして俺を否定するの。流鬼じゃないと思うの。流鬼はそう言って俺の頬を優しく両手で包み込んだ。見開いた目の前に流鬼の目がある。ぐい、と顔を引き寄せられ、目の前の流鬼の無垢な瞳に映った自分を見て初めて自分が涙を流していることに気付く。そして流鬼もまた泣いている。目からぽろぽろ涙を零している。悲しそうに眉を顰めて目を細めるから、そこに映っていた自分が押し潰されるように歪んだ。否定している、俺が、流鬼を、そんなこと、ありはしないのに、どうしてそんなことを言うのだろう、俺がいつ否定したと言うのだろう。俺はただ、流鬼に元に持って欲しいと思って、願っているだけだ。

「どうして麗は俺が流鬼じゃないというの」

 どうしてだろう。だってそれは俺の知っている、俺の好きな、俺の流鬼じゃないから。それだけだ。それだけで目の前の人が流鬼じゃないと俺は言い張っている。俺が見ていた流鬼? 俺の知っている流鬼? 俺の信じきっていた今まで見ていた流鬼は、本当の流鬼だったのか?

「麗、そうじゃない、違う」

 流鬼の言葉が俺の頭に胸に重く鋭く響いて痛い。何度も繰り返されていくうち、否定の言葉が、俺を否定しているものではないのではないかという考えが頭を過ぎり始める。俺への否定ではなくて、自分の、俺の中の流鬼の、否定なのか。それとも、やっぱり、俺を否定しているのか。わからない。流鬼が俺に違うというたび身体中にぼたぼたと絵の具の塊を落とされているような気分になる。そしてそれが混ざっていく。ぐるぐる円を描いて。俺の身体を内から外から塗りつぶしていく。俺は俺でなくなる錯覚を覚える。おかしいのは貴方? それとも俺? ああもう考えることも億劫だ、全て、何もかも、俺ですら。生温い空気が連れて来る、けだるくて甘い、虚脱感に身を任せて仕舞いたい。そうしたところで、何か不都合があるわけでもない。おかしいのは俺。貴方。すべて。

「……俺は、間違っているのかな」

 その時、目の前にぶわ、と真っ白な花が一斉に咲くのが見えた。いや、真っ白というには少し違う。所々薄紅色をしている。ふと、今朝流鬼が呟いた一言が耳に響いた。

『綺麗な花が咲いた。桜かな』