なんでもない春のこと

 朝起きて、着替える時に服装に迷う季節になった。晴れていれば日中は汗をかくほど日差しが強く暖かい。それなのに日が沈めば途端に風は冷たく薄い衣服を通って肌を舐める。日中と同じでは寒くて堪らないから、何か羽織るものがなければ風邪をひいてしまうような寒暖差だ。天気のいい日などはその差が本当に激しく、昼間は降り注ぐような日差しを緑の木々が反射してきらきら輝くのに、夜になると葉のこすれる音もあやしく聞こえるほど空気が冷える。春らしいといえば春らしい。季節の変わり目を感じる。
 着る服には悩まされるが、春は天気のいい日にふらふら外に出て、太陽が照らす景色を見るのが好きだ。水や緑は勿論のこと、人の造ったコンクリートの森さえ綺麗だと思ってしまう。冷たいものも暖かいもののように見える。すべてのものが柔らかく暖かくこの目に映るから、俺は春が好きなのだなと思う。

 今日は天気が良い上に気持ちのいい優しい風があるから暑すぎることはないし汗をかくこともない。新調したばかりのスニーカーの白もぴかぴか輝いているから、太陽の下で人を待つのもなんだか気分がいい。とはいえ、あまり長い間じっと日の下にいると日焼けが心配になってくる。今日は特に目的もなく外に出たわけではないから、そろそろ家に戻るか、なんてこともできない俺としては早く目的を果たしたいのだけど。家から歩いてすぐのバス停のベンチでこうして待ち始めてどれくらい経ったのか。いまいちわからないが、これが春でなければ屹度とっくに腹が立って家まで引き返しているくらいの時間は待っている筈だ。あの男は春に感謝するべきだな、あとスニーカーにも。
 そんなことを考えつつ、手のひらを日よけ代わりにして仰いだ空には、まさか、飛行機雲! なんていう日だろう! 寧ろあんな男などこのまま来なければいい。
 あと三分待っても来なければ家に引き返そう、そう俺が頭の中で決めるや否や、まるで俺の思考回路いままでの様子すべて見ていたかのように轟音と共に目の前に見慣れた車が停まった。俺は何度見てもこの車の意味がいまいち理解できない。日本という左車線文化の国でわざわざ左ハンドルの車に乗る意味が分からない。暫く動きもせずにじっと車を見つめていたら、運転席の窓が開いて春に似合わない男が顔を出した。

「遅れてごめん! 怒ってる?!」

「……あのさぁ」

「はい! なに?!」

「……なんでわざわざ左ハンドルなの」

「え?! ごめんエンジン音で聞こえないから! 乗ってから話そうよ!」

「……」

 何をどうしたらそんなエンジン音になるんだよ五月蝿くて仕方がない。とってもアホっぽいしとっても大人げない。もっとスマートな大人になれよお前もういい歳だぞ。俺と同い年だぞ。もうそれ、この年齢でその車、かっこいいとか粋とか通り越してただただださい。そう思うのは俺がこいつに待たされて怒ってるからだって? いや、前々からださいださいと思っていたんだ、決して今こいつが憎くてそう思いついたわけじゃあない。こいつのためを思っているが故だ。こいつのためを思って、なんて、俺ってやっぱり優しいわ。

「るきどうしたの?! トイレ行きたいとか?!」

 お前の思考回路はいつだってサイケデリックだな。トイレに行きたかったらお前なんて待たずにさっさと家に戻ってるだろうが。サングラス越しにバカみたいに大声を張り上げている同じくサングラスのださい男をじっと見つめている俺は、こいつの車に乗る気になれないでまだじっと車とこの男を眺めているわけで。いや、待たされて怒ってるからとか、ださいからとか、そういう理由で乗りたくないなんて子供のような駄々をこねるつもりはない。俺だって一応いい大人ですからね。遅れてこようがださい車に乗っていようが諸々大目に見てやる懐の広さは持ってる男なわけで。

「ちょっと待ってて!」

 おいおい勘弁してくれよお兄さん。これ以上待たされたら俺干上がっちゃう。体中の水分が蒸発してしわしわのおじいちゃんになっちゃうけどそれでもいいのかな。そんな俺でもこいつは抱くのかな。やりそうだな。気持ち悪い、死んでほしい。とても現代の乗り物とは思えない音を立てていた車が意気消沈したように急に静かになった。エンジンを切ったらしい、静かになった車の運転席のドアが開いて、ださい車に乗っていた似合わないサングラスの男が颯爽とご登場。いつからそうなったのか、とか、俺はあんまりよく覚えてないのだけれど、以前は別段気にも留めていなかったこいつの私服のチョイスが近頃恐ろしいハイセンスでもって俺の理解できる範疇をとっくに超えて展開されているのには毎度毎度目を見張る。成長が著しいね。どうしてこうなったのだろう。この男の七不思議のひとつだけれども、おかげで毎日飽きないから、その調子でぐんぐん成長していってほしいものだ。さながらデロリアンのような車から降りてきた男はどこからタイムスリップしてきたのだろうか、その全貌は鮮やかすぎるエメラルドグリーンのサテンシャツに黒のクロップドパンツ、よくわからない色合いのボーダーの靴下に白の革靴ときたもんだ。やだ、俺も今日白い靴履いてきてる、どうしよう。

「怒ってる? 怒ってるよね? ごめんね、この時間は渋滞するの忘れてた」

 おろおろしながら俺の機嫌を窺って謝り倒す麗は近寄っても許される距離を計りかねている。おろおろ、オドオド、ベンチに座っている俺のそばに来るも、一定の距離をあけてそれ以上近寄れない。そういうところがなんだか無性に。ああ、擽られるんだよなぁ。怒られた子供みたいに落ち込み焦り、あざとく擦り寄ってくることもできない。サングラスなんかしていても、その奥の目がどんな色をしているのかぐらい見なくてもわかるさ。どうせ眉毛もハの字になっちゃって、たいそう哀れな顔なんだ。屹度ぶさいくに違いない。

「それ。取って」

 指を差したら、少し戸惑ってからサングラスと気付いたらしい、すぐに外した。案の定、なんとも表現しがたい顔をしているではないか。ああ、だめ、笑いそうになってきた。だってこいつったら、本当に面白いんだもの。

「……ふ、ははっ」

 我慢しきれなかった笑いが飛び出した。麗はそんな俺をどうしていいかわからないといった顔で見つめるばかりで、ますます可哀相な顔になっていく。やめてお願い、お前ったら、面白すぎて本当に困ったやつだ。

「……なんだよ、そんな顔すんなよ。怒ってねーよ」

 あんまりそんな顔でいられたら笑いが止まらなくて困るから、正直に怒ってないと言ったら安心したらしい、少しは顔が緩んだものの、それでも俺が笑っているのがなぜかわからないからまだ戸惑いの色が残っている。戸惑っているくせに、なぜかわからないくせに、俺が触れたらもうどうでもよくなるんだよ、知っている。ほら、胸ぐらをつかんで顔を引き寄せ、頬をぺたぺた叩いたら、もうそんなことどうでもいいみたいにへらへらって笑って幸せそうな顔をするでしょう。扱いやすいにも程があるよ、ばかみたい。

「るきどうしたの? 機嫌いいね、何かいいことでもあった?」

 すっかりいつものだらしのない顔に戻った麗は運転席から呑気な顔で、助手席に乗り込んだ俺に言う。

「ふふ」

 俺は笑う。笑って言う。

「なんでもねーよ」

 なんでもない。なんでもない。春が俺をご機嫌にさせるから、あなたでさえも暖かくてきらきらしているように見えるんだ。たったそれだけのこと。この時期は寒暖差が激しいからね、こんな柔らかい時間があってもいいじゃないか。


(なんでもないきょうをやわらかなひざしのなかで)