「愛」

(※しんでしまったはなし)


 心臓が痛い。


【愛】



 どれくらいの間こうしているのだろう。俺は腕時計で、もういったい何度目なのかもわからない時間の確認をする。針は午後十一時と十数分を指している。そもそもこの場所に来た時この針がどこを指していたのかがわからないから、腕時計を見たところで現在の時間以外に得られるものはこれといって無い。ここにこうして、どれくらいが経ったのだろう。そんなことばかり気にして落ち着かない。どうしてそんなにどれくらい経ったのかが気になるのか。その理由がわかっていながら俺はそれでもなお、何度も何度も時間を確認しつつこの場所に居続けている。よくよくわかっている。いうなれば自分から赴いた。この足で歩いて来た。すべては自分の意思だということ。けれど、誰かのせいにした。

 目の前の光景を直視し続けていたのは体感時間では一時間ほどだろうか。もっと長いような気もする。映画のように気が付いたら一時間も経っていたというあっという間の感覚でありながら、もっと長い時間それを見ていたと感じられるのは終わりが見えないからだろう。一向に終わりがない。映画なら展開で『もうすぐ終わる』と感じられるが、いつまでもいつまでも終わる気配がない。何度か、ああ、終わるのか、と思った瞬間もあった。けれど続いている。終わる、いやまだ続く、やっと終わるのか、いやまだ続いている。その繰り返しでそのうち何が起こっても終わりだとは思えなくなってきた。終わりようがないのだろう。ああ、終わらないのだな、終わりがないのだ、そう思えたら途端にこの場から逃げてしまいたくなって、頻繁に腕時計に目を逸らすようになった。もう見たくないしさっさとここから出ていきたい。腰を上げて足を動かして身体を翻して。気持ちはそうあれども、身体はちっとも動きたくないらしい。腰は重たく地面に沈み続けているし、足は神経が通っていないかのように沈黙している。首から上だけが俺のもので、あとは全てつくりもののようだ。

 どこかに行きたいわけではない。ただここにいたくないだけ。そんな漠然とした考えで胸を痛めているなんて、自分でもおかしいとは思っている。おかしいとは思っているのにどうにもしようがない。ここまで来たのは全て自分の選択の筈なのに、全てにおいて何かや誰かのせいにして、今ここに自分がいることを辛く思っている。わかっている、ひどく子供で我儘だ。そんな俺にも逃げ場が無くなる事態はこれまでにも何度かあった。自分の意思でそうした、自分が選んだ選択肢だと、言い切らなければならない路の分かれ目が。その時の俺の決断が、何もかも人のせいにしてきた俺が自分の責任を背負うことが、どれだけ不安に塗れながらの苦渋の決断だったのか、屹度ずっと自分の決断を背負ってきた君にはわからないだろう。あまりわかって欲しくはないけど。そんな身を引き千切る思いでやっとのことで手を伸ばしたのに、掴んでみると案外となんでもないことだったりもして。背負うだなんだ考えていた自分が馬鹿らしくなったりもした。今となっては思い返すと少しばかり笑えるという話。昔のことを思い出すときはいつもそう、後から考えるとなぜあんなことで悩んでいたのだろうと滑稽にすら思えてしまう。でもその時その人生の中の一瞬に過ぎない時間の胸の痛みを、くだらないことだというのは違うと思っている。

 腕時計を見る。午後十一時も終わろうとしている。早いようで遅い。俺はまだ立ち上がれない。そこに居続けている。目の前を直視できず、何度も腕時計に逃げながら。

「目を逸らさないで前を向け」

 はっきりとした声が頭に響くのに直視できない。前なんかもう見れやしない。何時間も前から見つめ続けているのは足元、自分のつま先、腕時計、閉じた瞼の裏側だけだ。

「いつ終わってもいいように」

 いつか君が笑って言った。その言葉に縛られて、俺はこの場所に居続けているのだろう。いつ来るのかわからない終わりを待っている。終わる気配なんかないのに、君はいつか終わると言ったんだ。いつかは終わる、突然終わる、なんの前触れもなく、或いは前触れに気付かず、目の前の出来事が全てうそのようにゆめのようにまぼろしのようにあわくぼやけてもろくくずれてきえさって、風に乗って流れていくまるでなにもなかったかのように。そして俺はそれを知っている。なにものもいつかは終わりを迎える。この目で見てこの身をもって体験したことだ。それならば、いつか唐突に終わるなら、目を逸らし気づかぬうちに早く終わってしまえばいい。見ることが辛く悲しい目の前の光景などは。

「俺はおまえに、ずっと泣いていて欲しい」

 その時君は、ひどい言葉を優しい声で呟いて、温かい掌で俺の頬を撫でたんだ。君の手が濡れていくのが嫌で、思わずその手を握った。柔らかく少し冷たいその手に、決断の時だと言われている気がしたのに。目を瞑った君の顔を見て、決断しろと言われたとわかったのに。それからずっと逃げてきた。真っ白な君の肌を目に焼き付けて、忘れてしまわないようにと瞬きも惜しんで見つめ続けた。けれど全ては記憶に過ぎない。徐々に霞がかかっていく君の姿を見たくなくて、何度も何度も目を逸らした。認めたくなかった。けれど、もう逃げられないんだ、俺は心のどこかでそう思っている。何度も何度も時計を見るのは目を逸らしたいからだけじゃない。いつまでもこうしていられないとわかっているから。ここから動けないのは、自分の足でここへ来たのにそれを否定するようで嫌だったから。胸は相も変わらずぎりぎり痛む。足は震えて一歩を拒むし、重たい腰は縫い付けられたように地面について離れない。それでも俺は背負わなければならないのだ。大丈夫だ、屹度、掴んでみればなんてことはない。言い聞かせて、戦慄く唇を引き結んで、握って手に力を込めて。

「おまえは俺を忘れていく」

 最後のつもりで、目の前にいる、あの時の笑顔で止まったままの君を見た。ひどくぼやけて何枚もフィルターがかかったようなその光景に、涙がぼたぼた目からあふれた。俺はとても残酷だ、酷い人間だ、君を忘れてしまう、最低な人間だ。あんなに忘れたくないと思っていたのに。目の前の君は俺にそう告げているようで、だから俺は見たくなかったんだ。

「忘れることは、人間に許された生きていく術だから」

 生きていくために君を忘れるなら、君を覚えているうちに死んでしまいたかったのに。君は俺に最後まで、消えてなくなるまで、目を逸らすなと言った。

「だからおまえに、俺を忘れることを恐れて泣いて欲しい、そう願ってしまう」

 直視しなければならない現実は、いつも自分の醜さを突き付けてくる。
 君がいないと上手に息もできない。それでも命は終わらない。できれば今すぐ終わりたい。けれど君が望んだことだから、君がくれた生きていく理由だから、泣きながら終わらない毎日を過ごすよ。

 そうして俺は何度目かわからない決断をした。
 首に押し当てたナイフを持つ手をそっとおろして泣いた。


「おまえが好きで、いとしくて、たまらない」

 ひとりはとてもつらいのに。