「花食い」

 蝉が鳴いていた。うるさいくらいに。覚えている外の音はたったそれくらい。茹だる暑さの夏。景色を焦がす太陽より、思考を奪う不愉快な湿気より、何よりも胸を痛めつけて離さない幸せで満たされていた。最後の最後まであなたは紛れもなくあなただったから、断言してもいいよ。どんなあなたもいとしくて、あなたの言葉を繰り返し耳に響かせて、胸を痛めた数をかぞえて。昼も夜もあなたで満たされていたから、何も怖くなかった。



「麗」

 声が聞こえた気がして振り返った。光の差し込む広い温室を見渡してみるが、誰もいない。とうとう暑さで頭がおかしくなったかな。それならそれで願ったり叶ったりなのだが、頭がおかしくなったかなと冷静に考えられるうちは屹度まだ正常なのだ。いつになったら何も考えられなくなるくらい気が違えるのだろうか、そんな途方もないことを考えながら自動スプリンクラーのスイッチを入れた。か細い音を立てあちらこちらで細かい霧が立ち込め始める。途端に温室の湿度が増す中、生き生きとみずみずしく光を反射する緑の葉や色とりどりの花たちをぐるりと眺めた。どれもこれも毒々しいくらいに美しいのに、その花びらは少し強く指で触れただけで触れた場所に痣をつけてしまう。凛とした姿でそこに立っているのにその実、なんとも弱く果敢ない。ならばせめて美しいままで、と、まだ死など考えたこともないだろうその生を手折る己の所業を日に日に肯定している。そう、これは仕方のないことだから。

 触れかけた花弁から指を引っ込める。花弁に触れるのは最低限でなくてはならない。足元に置いていた一抱えの銀の器を持ち上げると、温室の入り口にある申し訳程度の手洗い場で蛇口を捻って一センチほど綺麗な水を張った。そして手にした銀の鋏で、花の首を切り落としていった。次々と。

「おはよう」

 もう朝っていうほどの時間でもないけどね。そう脳の片隅で太陽がちょうど真上にあることを呪いながら庭先から縁側の襖を開ける。銀の器を静かに置いて、服の裾で濡れた手を拭った。開けた襖のその向こう、照明のない部屋の真ん中に敷かれた蒲団に座り込んでいる牡丹の着流しを羽織ったその人は、静かに振り向いて俺を一瞥した。

「……麗」

 その声を聞いて、やはり先程声が聞こえた気がしたのは勘違いではなかったのだと確信する。少し前から起きていたのだろう、待ち惚けたと拗ねたような声色で、忌々しげに、急かすように俺を呼ぶと、流鬼は立ち上がることもせず少し寝乱れた着流しの合わせを直した。

「ごめんね、開き切ってる花を探してたら、案外時間かかっちゃったかな」

 よいしょ、と無意識に口から零しつつ履いていたつっかけを脱いで縁側から中に入る。無意識に掛け声を出すなんて俺もおっさん臭いなあ、と自分を憂いつつ、銀の器を持って流鬼の蒲団まで運んだ。

「はい。どうぞ」

 流鬼はじっと器の中で隙間なく犇めき合あっている花々を見て、口許だけで一寸笑った。

「赤いのが、好きでしょう」

「そう」

「白いのは」

「それなり」

 流鬼は手を伸ばして、ぷかぷか浮いている一番大きな椿の花を手に取り掌に乗せるとその赤色を目を細めて見詰め、また笑う。

「赤い」

 そうだね。言いながら器を挟んで流鬼の向かいに座った。正面から見た流鬼はやはり日に日に痩せていっている。もともと白かった肌の血色はどんどんと色味を失くし、見ているぶんには陶器のように冷たい。そのくせ、滑らかでみずみずしい。触れるとやわくて折れそうなほど。見入る俺の視線などどうでもいいのか、気づいていないのか、流鬼は掌に乗せた赤い椿の花弁に唇を寄せて短い接吻をして、その椿と同じくらいに赤い唇をひらき、百合の花よりも白い歯でさく、と花弁を割いた。実際、音はない。殊更に柔らかく弱い花弁の花を選び差し出している。しかし屹度流鬼は綺麗な花ならなんだって喜んで手を伸ばすのだろう。

 花を食う奇病に犯された流鬼は毎日こうして日に何度かの食事をとる。他は何も口にせずただ花だけを欲しがり、やがて花になり死んでしまう。しかし花を食わなくても死んでしまう、避けられない死の病。彼の身体にはもうどれだけの花弁が詰まっているのだろう。毎日こうして流鬼のために育てた花を差し出し俺は想像する。胸のあたりから下腹までその白い肌をメスで裂き開けたら、この世に存在している全ての美しいものをかき集めても敵わないほど綺麗に違いない。想像だけで、眩暈すら覚える。あまりに美しくて、目の前で掌を真っ赤な花でいっぱいにしてたどたどしく咀嚼する彼がまたあまりに純真無垢な様だから、それこそ彼の終りに相応しい姿だと思うのだ。

「麗」

 また名前を呼ばれた。彼の手、口許に見惚れていた視線を上にずらす。その瞳の中に俺は映っていないのに、彼は俺をまっすぐ見つめて、器からすくい上げた両手いっぱいのいくつもの花を俺に差し出した。

「うん」

 俺は少し彼のほうに腰を屈めて、両手でそれを受け取った。流鬼は花の器となった俺の手をそっと両手で支えた。触れた肌は濡れていて、ひやりとして、俺の熱を逆撫でた。そうして始められる行為の記憶を脳に広げ思わず唾を飲み込んだ俺の手から優しく、ゆっくり、到底食事とは思えない動作で花を食い始めた。唇が指を食む。歯がもどかしく皮膚を撫でる。水がいくつか指の間から垂れて手の甲から腕を辿って肘まで何本か筋を描き、流鬼が花弁を噛むたびに冷たい花の血液がそれにのって俺の腕にささやかな色を塗るように滴る。そうしたら真っ赤な舌でそれを舐めとる。喉を嚥下させるたび恍惚の色を浮かべた目を緩慢に瞬く。手に乗せられた花を全て食い終わるまで見つめ続けなければならない、外で喧しく鳴く蝉の声で隔絶された、何よりも煽情的なその光景を。いよいよ俺の頭はおかしくなっていく、そういう錯覚に溺れる。赤い花々を食っているあいだ、頬、腕、着流しの合わせ目から覗く肌が薄ら赤く色づくのがまた狂おしい。流鬼が花を食うたびこうして、その姿を見て、この上ない喜びを感じて瞼を震わせた。

 目に見えるほど日に日に何か変化があったわけではなかったが、流鬼の身体は確実に衰弱していて、それは振る舞いであったり表情であったり、そういったもので曖昧にしかわからなかった。そしてそれを裏付けるかのように、ある朝、流鬼は左目をなくした。

「痛くない」

 俺の問いかけに「特に」と首を振った流鬼の左目には名前の知らない赤い花が大量に咲いていて、眼窩を埋め尽くしていた。茎や根が血管のように眼球に這い、皮膚の下に這い、盛り上がっている。触っても、痛くはないらしい。

「これじゃあ外に出られないね」

「いい、庭ぐらいにしか出ないから」

 そうは言っても、通りがかった人に見られては何かと大変だろう。俺は包帯を持ってきて、流鬼の左目を覆った。少し広めに覆えば、花はきれいに隠れた。

「気分がいいなぁ」

 そう言って流鬼は縁側まで這っていくと、俺を振り返って手招く。

「おいで」

 そうして俺を縁側に座らせるとその隣に腰かけ、肩に凭れた。

「風が気持ちいい」

 睫毛を伏せてそう呟く日の光を吸いこんでいく白い肌を、指を伸ばして撫でた。触れた頬は、その下に何も無いかのように柔らかかった。

「……流鬼、寝るの」

「……少し」

 風に浚われそうな小さな声で言って、流鬼は目を閉じた。風が吹くたびさらさら流れる髪が俺の首筋を擽った。寝息も立てず静かに動かなくなった流鬼の身体をそっと抱き抱え、膝に頭を乗せるようにして仰向けに寝かせた。包帯の通っている額を撫で、指で髪を梳き、掌で熱を移すように頬を包み込んだ。血の気のない肌と違い艶やかな赤色を皮膚の下に色づかせている唇に耳を寄せると、微かに息が漏れているのに安堵した。嗚呼未だ自分は、怖いのだろうか。覚悟をして臨んだ筈の、狂おしいくらいにいとしくて堪らないこの人と過ごす日々が、少しずつ終りに向かって時間を刻むのが。起こさないよう流鬼の手をとり、指を絡めて握った。その感触すら危うくて、輪郭がぼやけているように感じる。視界が揺れて目を細める。確かめたくて、目に焼きつけたくて、瞬きを惜しんだ。この人は怖くはないのだろうか。避けられない終りに向かう変化を享受して涙も見せない。くちづけようか迷っていたら、俺の戸惑いが肌から伝わったのか閉じられていた瞼が薄ら開いて笑った。

「……麗」

 優しく指を解いた手に首を抱き寄せられくちづける。微かに甘くて、屹度もうそれほど遠くないのだと思う。

 頭がおかしくなって仕舞えば、恐怖など完全に捨ててしまえるのかも知れない。けれど、頭がおかしくなって仕舞ったら、こんなにもいとしく思うこともなくなってしまうのかも知れない。感じられる全てを覚えていたいから、このままでいいのだろう。このまま正常なままで、あなたで心を刻んでいく幸せ。それはこの瞬間だからこそ得られるいとしさ。普通では得難いいとしさ。あなたの傷が心に染みて、死ぬまでずっと、心はあなたのものだから。



 蝉の鳴く声。肌を撫ぜる生ぬるい風と、景色を全て白く塗りつぶすような日の光。目に飛び込んでくる色彩が焼き付いて心を満たす時間、そして日々。



夏の花の芽吹いた甘さの。



(2014.08.22//そのゆるやかな死の、眩暈がするほどのいとしさよ。)