「近くて遠くて触れられるのに届かない」
些細なことで始まった。
どうせいつもそんなところ。繰り返す衝突は、近すぎたから。この距離を離せば問題ないのだ。けれどどうしても離れられない。離れることは考えられない。なのに傷つく。おかしいね。思えば思うほど、簡単なことが難しい。
「なんでわからないの」
きっかけは複雑だ。どれが要因で、なんて簡単にわかったら事態の収束は容易かったのかも知れない。こうして何時間も引き摺って口論になって止まるところを知らないのは簡単ではないから。できればいますぐにでも終わらせて抱き合って眠りにつきたい。腕の中のぬくもりに、喧嘩したことを後悔なんかして何もかも水に流して忘れちゃって。時が経ってふと思い返し、馬鹿みたいだねって笑い合いたい。そんな未来など思い描いたこともないのに、何故かこういう時ほどやけに望んでしまうものらしい。終わらせられたらそんな未来も嘘じゃない。
けれど悲しいかな、俺の中のどこにも、終わらせられる言葉が見当たらない。
「ごめんね、俺が」
「そうじゃないって。謝ってなんて言ってない」
どうすればいいのかわからないから言葉に詰まる。そうして何も思いつけなくて謝罪の言葉を口にする。そんな俺に君は言う、そうじゃない、謝って欲しいなんて言ってないと。けれど俺にはわからないよ。何を言っても空回りする。君の神経を逆撫ですることしか言えない。だから謝ることしかできない。こんな俺でごめんね、その意味を汲んで君は溜息を吐く。俺と言葉を交わすことに疲れて。
「……もういい。不毛だな」
諦めたように君が感情の昂りを地に落とす。低い声音が俺を脅す。最後を突きつけられているかのよう。それを望むの? 君が俺に? それならそうなるしかないのだろう。
「……そうだね」
あっさりと言ってしまえる俺は屹度何もわかっていない。君の苦悩も悲しみも苦しみも。だから君は淡々とした俺の言葉に傷ついて、ほら、また気持ちが収まらなくて眉を寄せ舌を打つ。かわいい顔が歪んでいるね。いつも笑っていて欲しいなんて、言っていた俺が君にそんな顔をさせている。できないことばかり口にするのが得意なんだ。どうしようもない、こんな俺では。
「どうにもならないね」
君の唇の端がぴくりと動いたかと思うと、俺を睨んで一層声高に詰め寄った。
「なんでそうなの、なんでおまえは、」
けれど俺は動かない。表情も、見えやしないがなんとなく酷い顔をしているのはわかる。俺を見る君の目が怯えているようにすら映るのだ。何が悲しいの、何が怖いの、何が辛いの。そう訊ねて、俺の所為だと言うなら、多分、そうだろう。
「……おかしいね」
「……何が」
部屋着の袖から覗いた指がきつく握りこまれて、白くて赤い。そんなに握ってしまったら掌に痕でも残りそうで、この瞬間も俺はそんなことで気が気じゃない。視線を逸らして足下を見つめる眼鏡の奥の睫毛が震えている。怒りなのか悲しみなのか、判別つかなくてそのどちらもなのだろうと勝手に結論付けてみる。目の悪い君は部屋の中でだけ眼鏡をかけた。その姿を見るのが好きだった。誰も知らない君を手に入れた気になれたから。
「誰よりも近くにいると思ってた」
身体も心も寄せて、誰よりもわかった気がしていた。けれど。
「一番欲しいものは、どうしたって手に入らないんだ」
引き結んでいた唇を緩め、君は笑った。
「じゃあどうということない、お前は俺の一番じゃない」
だからとっくに手に入ってるだろ、そう言わんばかりにまっすぐ見詰められてしまって、俺は途轍もない喪失感に胸を抑えた。どうして君はそうなのだろう。どうして君はこんなに俺を悲しくさせるの。いとしいなんて気持ちは消えない。無くなる気配もない。それでもどうしても確信が消えない。この頑固な確信を打ち消すほどの、信じられるほどの確証が何もないから。
「それでも俺は一番なんだ」
「だからなんなの」
「流鬼が一番大切で、何よりもいとしくて、だから絶対に手に入ったなんて思えない」
どこまで思えば手に入れられるの? 好きだと思えば思うほど、欲深くなる心がじわじわ忍び寄る最後を感じて何も己のものにはならないのだと知る。手に入ったと思える瞬間などは絶対に来ない。二度と君に触れられない未来ばかりがこんなにも近くに感じる。気配を殺して背後に佇んでいる孤独が笑う。だから言ったじゃあないか、と笑って、優しく俺を憐れんでいる。
「……お前の言うことは、ちっとも俺にはわからない」
そう呟いて俯いた肩が小さく震えている。その姿に胸を掻き毟られる。強張った身体を今すぐ抱きしめて安堵したい、その体温に触れて。触れようと思えば触れられる距離。なのに届かない指。伸ばしても、君のすべてを俺のものにはできない。
消えない不安が言葉に代わってすべりおちていった。
「届かないなら」
屹度君は俺がいなくなっても君のままで生きるのでしょう。
「早く離れればよかった」
(屹度俺は君がいなくなっても君を想って生きるのでしょう。)