fall

 電話は履歴からかける。一言二言のやり取りのためにメッセージを送っても近頃はすぐ通話で返されるため、着信履歴には殆どその名前が蔓延っている。出られない時もあるから、すぐ電話かけてくるのやめて。と一応そのたび苦言を呈しているものの、なんだか声を聞かないと落ち着かない、と返されて何も言えなくなる。
 松本は呼び出し中のコール音を聞きながら、傍らに積まれた本の上の、指輪やらネックレスやらと一緒に置いてある腕時計を見る。午後六時過ぎ、そろそろバイトが終わる時間だと思ったのに、電話の相手は出る気配がない。コール音がプツ、と途切れて、反射的に声を出そうとしたのを制するように甲高い女の電子音声が『留守番電話サービスに接続します』と言った。なんだ、と通話を切ってスマートフォンを枕の上に放ると、代わりに煙草を手繰り寄せる。

(どっかに落ちてってる、気がする)

 そんなことを考えながら一人、誰もいない部屋で床に敷きっぱなしの蒲団の上に寝転び煙草をふかす。見慣れた汚い天井は遠いようで近い。閉塞感と圧迫感とは時に人の心をこんなにも沈ませるものか。外は夕立で土砂降り。室内に響いてくる雨音が頭の中を侵食して思考の領域を狭くする。とにかく大学に近くて家賃が安いという理由で選んだアパートの部屋は、一人でいると息が詰まる。もう引っ越そうかな、と考えながら迫ってきた灰を灰皿へ落として、腕時計を見た。先ほどの発信から五分と経っていない。が、もう一度、と枕の方へ手を伸ばしたそのとき、ガチャガチャと鍵を開ける音と耳を劈く雨音に玄関を振り返った。

「……寒い」

 びしょぬれの高嶋が震えながらドアを閉めた。

「……寒そう」

 答えた後、立ち上がった松本はバスタオルを取りに風呂場へむかう。その間に高嶋は玄関に鞄を置いて、水を吸い色の変わった薄手の上着を脱いだ。

「着替え出しとく」

 短く言ってバスタオルを手渡すと、鼻を啜って返事をする高嶋を風呂場へ促す。触れた身体が冷たくてぞくっとする。高嶋の濡れた上着を洗濯機に放って着替えを出してやっていると、服を脱ぎながら高嶋が一寸笑って「なんか、奥さんみたい」といつものヘラヘラした笑顔でこっちを見遣った、その唇が紫色でゾンビみたい。

(映画なら真っ先に殺されそう)

 松本と高嶋は大学受験を控えた夏の予備校で出会った。志望校が同じだったからか頭のレベルが同じだったからか、複数の教科でクラスが被り、隣の席に座ったのをきっかけにしてちょくちょく土日に待ち合わせ、図書館で勉強したり息抜きに遊んだりするようになった。二人は相性が良いのか悪いのか、愛やら恋やらの言葉を交わしたことがない。なのにも関わらず、二人はこの狭い部屋に一緒に住んでいる。飯を食べ、テレビを見て、ひとつの蒲団で共に寝る。それだけならまだ救いようがあるかも知れないが何を間違えたのかしてセックスもする。そして、それで互いに満足している。

(たぶん、俺もわりと序盤に死ぬかも)

 自分に言葉が足りないことは自覚していた。けれどよくよく考えてみても好き、や、愛してる、だなんて言葉が自分の中にない。高嶋との事を恋愛だなんて思ったことがない。ただ、繋がることが心地良くはある。触れることがいとしくはある。高嶋をじっと見ていると自然と指がのびている。頬、目蓋、唇、顎、どこにでも触れたくなる。殊に、長く伸びた前髪の、さらさら指を滑るのが好きだ。一人でいると、セックスのときに見せる眉を寄せた表情がたまらなく恋しくなる。頬の輪郭から首筋にかけて伝う汗を綺麗だと感じたことを思い出す。これはどうしたことだろう。これは自分だけだろうか。
 風呂場から聞こえてくるシャワーの音が窓の外で激しく降り続く雨音と混ざる室内で、松本は一人で云々考えた。しかしそもそも自分が何故そうなったのかが分からなかったため、相手にもそういった感情や理由があるのかなど、考えたところで松本には分からない。蒲団の上で寝転び煙草をふかす、遠くて近い天井が先ほどより気にならないことにも気づかない。
 高嶋がグレーのスウェットに身を包み、タオルで頭を拭きながら風呂場から出てきた。温まった身体から湯気が出ている。玄関に放置した鞄からノートや本と一緒にスマートフォンを取り出し、高嶋はパッとこちらを振り返った。

「あれ? 電話くれた?」

「あー、傘持ってってやろうかなって」

「え〜優しいじゃん」

「……暇すぎて」

 なんだ、暇つぶしかよ。そう言って笑う高嶋から身を捻って目を逸らした。見え透いた嘘は何のためか、松本は考えることを止す。純粋な好意を揶揄われると、別に、とか、そんなんじゃない、とか、何かにつけ否定したくなる自分の天邪鬼さに辟易する。出会った頃なら、でしょ、とかなんとか笑いながら返して、自分で言うなよなんて返されて、そんなやり取りを平気でしていたのに。風呂場から髪の毛を乾かすドライヤーの音が聞こえてきた。松本はふと、一緒に暮らし始めてすぐのことを思い出した。電気代高いから髪の毛短くしようかな、そう言った高嶋の言葉を、気にしなくていいじゃん、と遮ったこと。高嶋の少し長めの、やわらかくてさらさらした髪が気に入っていると言ったこと。
 髪を乾かし終えた高嶋が戻ってきて、松本の隣に座って煙草に火をつけた。

「あ、てか、るーさん今日飲み会だっけ」

 松本は腕時計を見た。ちょうど午後七時になろうとしていた。本当は高嶋のバイト先に傘を持って行ったその足で行くつもりだったし、今から身支度を整えて出てもギリギリ間に合うだろう。けれどサークルの飲み会など、酒が飲めない松本にはあまり気の進まない場である。高嶋の言葉に何も答えず、黙ったまま、高嶋が煙草を吸い終え「雨だし、車出すよ」と適当な上着を手に取って羽織っている間も、松本は蒲団の上に座り込んで宙を見ていた。

「どした?」

「……いや、ウン。雨だしなあ」

「雨だね。あと今日やたら寒いから分厚めの上着のほうがいいよ」

「そうだよねえ……ぶあつめがいいよねえ……」

 よく分からない会話だな、と高嶋が笑う。車のキーをくるくると手遊びしながら濡れたスニーカーを玄関の隅に追いやって、これでいいか、と所々剥げたサンダルを履こうとしている。適当に着込んだ上着はぶよぶよでよれよれの褪せた水色。まあちょっと車運転するだけだもんな。近所のコンビニに行くような気分だよな。でもなんか、

「だっせえなあ!」

「ほっとけよ!」

 くだらない会話で笑い合うと、変に安堵した。高嶋の笑い声が耳に心地良いせいで、もう立ち上がる気になれなくなった。松本は高嶋のせいにして、笑いながら寝転がった。

「えっ? 行かないの?」

「いや、おまえがダサすぎて行く気失せたわぁ」

「おれ関係なくね?!」

 自分も黒のスウェットで大して変わらない格好のくせに面白がって笑う。松本に起き上がる気配がないので、高嶋は「なんだよぉ」と間延びした声を出しながら上着を脱いで車のキーを戻す。すたすた歩いてきて、また松本の横に座った。松本はうつぶせに寝転んだまま煙草を手にする。肘をつき上体だけ起こして火をつけると、隣から高嶋の煙草を持つ指が伸びてきた。促すように顔が近づいてきて、当然のように松本は咥え煙草を近づけて火を分けた。

「明日なんもないんだっけ」

 考えるように宙を見ながら高嶋がぽつんと呟いた。松本は一瞬、お前の予定なんか知るか、と思ったけれど、高嶋の視線がこちらを向いて、自分が問われていると悟る。

「俺はバイトあるよ」

「何時から?」

「えーっと、」

 身を捩って壁際に置いてある通学用のリュックを手繰り寄せ、シフト表を取り出す。先日貰ったばかりの新しいものを開き、自分の名前の欄を確認して、「五時から」と言いながら松本は顔をあげた。
 目の前に高嶋の髪があって、ふわ、とシャンプーの匂いが鼻腔を掠めて、唇に柔らかい感触が広がった。え、と思った頃には離れていった。口づけられた、と理解した途端口元が緩んだ。

「うっさんさぁ……」

 苦笑交じりに溜息みたいな声が出る。松本はこういった高嶋のぬるっと懐に入り込んでくる空気が少し気恥ずかしかった。セックスの前の雰囲気を醸し出されると、妙にむずむずする。髪をぐしゃぐしゃに掻き毟りたくなるような、胸をがりがり引っ掻き回したくなるような。両腕で身体を摩りたくなるような。

「だってもうやるしかないじゃん」

「なんでだよ!」

 あはは、と笑って煙草を吸っている高嶋につられて笑いながら、松本はシフト表を片付ける。リュックをまた部屋の隅に追い遣って、そういえば今日バイト先で、と楽しそうに話し始めた高嶋に身を寄せ、一つしかない灰皿に灰を落とす。中身の薄い高嶋の話を聞きながら、こいつ本当に話が浅いよな、と思いながらも、相槌を打っていると自然に笑みが零れている。高嶋の煙草が先に終わって、数十秒の後に松本の煙草も終わる。

「でもさ、俺のポケットにその倉庫の鍵があって」

「ってことはお前のせいじゃん」

「そう、そんでヤッベェと思って、なんとかしてこう、隠蔽しようと」

「はは! 隠蔽すんのかよ」

 高嶋の手が松本に伸びてきて、二人して這いずるように蒲団に転がりながらも、くだらない会話は続いた。唇が合わさっても、高嶋の手が松本の肌に触れても、松本の手が高嶋の服を潜っても、会話は続いた。松本の時折笑いの混じる声が途切れ途切れになって、相槌もまばらになる頃、高嶋の話もまた途切れ途切れになる。二人の言葉が徐々に吐息にすり替わっていく。海の底に沈んでいくみたいに、ゆっくりと、じっくりと、時間をかけて二人の意識は会話を忘れる。





「……あめ、ッやんだ?」

 揺すぶられながら松本が小さく訊ねてきて、高嶋は一瞬だけ意識をカーテンの閉め切られた窓の外に遣った。

「っん? ……いや、降ってる」

 なんだ、まだ、降っているのか。雨音が少し静かになったように思えたけれど、どうやら夕立から本格的な雨になったらしい。目を瞑って耳を澄ますと微かに聞こえてくる雨音は優しい。暗く狭い部屋で、薄い蒲団の上で、発熱したみたいに火照った身体がぐらぐら揺れている。身体の両脇にある汗ばんだ高嶋の腕を辿りながら目を開けると、暗闇に慣れた目が浅く息を吐いている高嶋を捉えた。奥を突かれるたび瞬いてしまう視界の中、薄く眇められた目と目が合う。汗が、高嶋の輪郭を伝って滑ってゆくのが見える。ふる、と高嶋が頭を振って幾らかしずくが松本の顔に降りかかった。唇の端に落ちた一滴がくすぐったくて、松本は唇を舐めた。

「……エッロい」

 高嶋の声が身体に響く。繋がったまま話されると、相手の声が自分の身体の中で震えるような心地がする。松本は恐らく、これは自分だけではないと思う。松本が体感しているように、いま松本が何か話せば高嶋もそう感じるのではないだろうか。

(そういうの、なんていうんだっけ)

 骨伝導っていうんだっけ。いや、違うなあ。ってか骨伝導ってなんだっけなあ。松本の思考が揺れる。とにかく何か、と目を開けて、高嶋の首に腕を回して抱き寄せた。耳に唇をくっつけて、肺から押し出されるように溢れる息の合間に、脳みそをかき混ぜて問いかける言葉を探した。そうだ、そういえば、今日何か考えていた気がする、と一人でいた時のことを思い出した途端、口から言葉が零れた気がした。

「……ッ……ん」

「……え?」

 聞こえなかったのか、高嶋が窺うように顔を上げて髪を撫でつけてくるけれど、なんて言ったの、と聞かれても何も答えられなかった。自分は何を言ったのだろうか。大体、高嶋といると、思考を放棄している気がする。なのに、一人でいると何かとぐるぐる考えている。そしてまた、高嶋と二人になるとそんなことはすべて忘れてしまっている。ましてこんなゆったりと繋がるセックスの最中は、深い深い谷の底、静かで暗い海の底、そういうところにいるような気がする。時間の止まった世界で、二人だけの生き物が、他の何もいない、そんなことに疑問を持たない本能のままの姿でただ毎日息をしているような。それは安息と呼べるのかも知れない、と、松本は深く息を吸い込む。

 雨は未だ降っている。松本の思考を濡らし、ふやかせ、溶かしていく。
 窓の外には目もくれず、雨が止むまで落ちていく。



(2020.01.20//fall)