choke

 意識だけが起きていた。まだ開かない目の、瞼越しに気配を探る。気怠げに動いた隣の体温が腕をすり抜け、足音を潜めようともせずギシギシ床を鳴らして風呂場に消えていった。真っ暗な視界で、高嶋は幾分かはっきりしてきた思考を組み立て始める。夕方五時からバイトだと言っていた松本が動き出したということは、今は昼過ぎ、二時か三時だろう。四六時中締め切られているカーテンからはいつも仄かな明かりしか漏れないから、恐らくいま目を開けても問題ないほどの明るさに違いない。あと数時間経てば照明をつけなくてはならないくらい暗くなり、その頃に彼は家を出てゆき、そうしたら自分は晩飯でも作って食いながら、明日提出しなければならないレポートをやるのだろう。二人の休日は大体そうして時が過ぎた。大体とは、バイト、レポート、セックス、そんなところ。すべてが必要不可欠なようでいて、すべて無くなっても生きていくのに支障がない気がすることばかりだ。なのにどれか一つでも欠けてしまうと自分が何者か分からなくなる気がすると高嶋は思う。大学生にとってレポートが必要とか不必要とかそういうことではなく日課や肩書を裏付ける事柄、そうであるが故の証や代償であるのと同様に、他の二つも高嶋には等しく思われた。

(だって、もうやめられない気がする)

 何故かとか、そういうことを考えても頭の悪い自分では答えに辿り着けないと分かっているので、高嶋はいつも考えることを止めた。何も見出さぬまま、けれどずっとこうしていられるようにできることはなんでもしようなどと思いつつ、かといって何をどうすればいいのか具体的には分からない。緩やかに、けれど確実に不変を求める。高嶋は漠然と、考えることをやめることが不変のためになるのだと思っていた。
 高嶋がそうしていちいち考えないようにするのには、もう一つ理由がある。松本のことを考えていると泣きそうになる時があるのだ。感傷の類でなく、ただ何かぐっと堪えなければ瓦解してしまいそうなものがこみ上げてきて、どうしようもないほど傷つけたくなるような、自分の何某かで相手の心を揺るがしてやりたい衝動がどくどくと全身の血管を駆け巡るのを感じて、涙が出そうになる。今もまた、昨日の松本の表情などを思い返して目尻に濡れた感触が広がり高嶋は眉を顰めた。なるべく大きくゆっくりと息を吸い込み、静かに長く吐いた。

「え、泣いてんの」

 心なしか低い声がすぐ隣で聞こえて、高嶋は薄っすら目を開けた。濡れた髪を無造作に掻き揚げ、顔を覗き込んできている松本が見える。どうした、と不思議そうに問いながら首にかけたタオルの端で高嶋の目元を擦ってきた。力加減がおかしくて、擦られた箇所がひりついたのに自然と高嶋は笑みを零した。優しいんだか、なんなんだか。いや、優しいんだけど。

(多分、そっぽむくんだろうな)

「心配してくれてる?」

 にやついてそう言った高嶋を見て、煙草に火をつけていた松本は一寸手を止め、目を逸らした。

「蒲団、濡らすなよな」

 ほら。予想通りの反応が返ってきて高嶋は笑みが止まらなくなる。先ほどまで寝転んでいた場所に胡坐を掻いて座り込み、髪からぽたぽた水を滴らせ、咥え煙草をふかしながら腕時計を手に巻き付けている松本の、タンクトップから伸びる白い二の腕に噛みつきたいと思う。つめたくて、柔らかくて、ほど良い弾力の歯触りを味わいたい。そういうことはなぜかこうしてただ取り留めもないことを話している時であったり、松本が他の何かに集中している時であったり、とかく「絶対に今じゃない」というタイミングでやってくる。それは正しく、高嶋が松本のことを考え、衝動に取り憑かれ、泣きそうになるという一連の流れである。またじわじわ目尻が熱くなってきて、高嶋は体を起こすと風呂場へ逃げ込んだ。衝動のまま行動に移すことが怖かった。
 意図しないうちに高嶋は松本の顔色を窺うことが癖になりつつあった。どんなことが嬉しいのだろう、どんなことで笑うのだろう、どんなことに胸を痛めるのだろう、どんなことで怒るのだろう。はじめは観察だった。小さい子供が初めて見た自分の知らない動物を観察して絵日記をつけるような感覚だ。そのうち実験になった。どうすればどんな反応を示すのか、そしてそれは自分と、自分以外で違いがあるのか。そうして一緒に住むようになり、身体を繋げるようになり、今は怖い。このままでは飼い殺すのではないか。自分はとてもひどいことをしているのではないか。だから高嶋はラインを探っている。どこまで許されるかの線引き。松本の顔色を窺い、まだ許されている、まだ傍に居られる、そのギリギリを数ミリずつ探り探り、歩を進めている。自分はいったいいつからこうなったのか、どうしてこうなったのか、と高嶋は熱いシャワーを頭から浴びて記憶を手繰る。けれどもよく分からなくて首を傾げる。

(何が足りないのか分からない)

 恐らく何かが欠けているから不可思議な感情が次から次に高嶋の脳みそを苛むのだと、思いこそすれ、自分に足りないものが自分で分かれば苦労しない。高嶋はうんうん言いながらシャワーを済ませて風呂を出た。松本がドライヤーを使っている後ろをすり抜け、そうだ、と冷蔵庫を開ける。買い物に行く必要があるのなら序に松本をバイト先まで車で送ってやれる、と思いつつ中を物色する。買い足さなければならないものはこれといって無い。が、今日行っておいたほうが後々都合が良いし、などという誰のためかの言い訳をしつつ、何を作ろうかと選択肢の少ない頭の中のメニュー表をぺらぺらめくった。

「晩飯なに?」

 髪を乾かし終えた松本が高嶋の後ろから冷蔵庫を覗き込んできて、松本の痛んだ髪に良いらしい、彼の好んで使うトリートメントの匂いが微かに漂ってきた。高嶋は駄目だ、と思うと同時に、息を止める。けれど自衛も虚しく、一旦身体に入ってきた香りが脳に作用して記憶を呼び起こすから、殆ど意味を成さなかった。

「ねえ、晩飯」

 おい無視すんなよ、と不貞腐れたように唇を尖らせて答えを催促してくるのに短く唸って装う。自分の心の揺れがばれていないか、そんなことを気にかけながら顔を隠すように考えているふりをする。

「パスタかな」

「えーっ! 昨日もパスタじゃん!」

 おかしそうに笑って松本が離れていって安堵する。高嶋は、松本の距離感は一寸普通ではないとたまに思う。なにせ、こうして一緒に住むようになる前から松本はこうなのだ。誰にでもというわけではないが、気心が知れると途端にふらふら近づいたり離れたり、かといって本人に大した意味はないところが凶悪で手に負えない。そのくせ、こちらが触れると恥ずかしそうに苦笑を零す意味が高嶋にはよく分からなかった。今も、冷蔵庫から離れコーヒーを淹れようとマグカップを用意している高嶋の隣に着替えた松本が戻ってきていて、びったりくっつきながら俺も俺もと促してくる。さっき離れたのではなかったか。いつの間に、と、ああもうダメだ、とが綯い交ぜになって、インスタントコーヒーの瓶を置き頭一つ分小さい身体を緩く抱き寄せ、こめかみにキスをした。途端、噎せ返るような香りが高嶋を満たす。一生をこの香りに包まれて終えたい、そう思わせる、麻薬に似て中毒性を持ち、確実に高嶋の何かを蝕んでいく。

「……ちょっと、もう。なんか、お前の触り方がイヤ」

「え、それは酷くね」

 ぐい、と手のひらで頬を押し返されて、お互い笑って離れる。茶化されてまた安堵した。二人分のコーヒーを淹れながら、そんなことより、と取り繕うように話し出した松本の言葉に耳を傾ける。松本の話はいつも唐突に始まり、唐突に変わって、気づいたら終わっていたりする。ジェットコースターみたいに話し出して、一人で満足する。バッティングセンターで只管豪速球を打ち続ける松本を眺めているみたいだと高嶋は思う。高嶋も高嶋で話を聞くことよりもそんな松本を見ていることのほうが楽しくて、俺の話全然聞いてないよねと咎められるのは間々あることだ。
 二人分のマグカップを持って、蒲団の上でスマートフォンをいじっている松本に歩み寄り、右手のそれを手渡した。

「うっさんて」

「なに?」

 松本はスマートフォンに目を落とし、コーヒーを一口啜って言う。高嶋は返事をしながら床に放ってあった自分のスマートフォンを手に取る。バイト先の店長からメッセージが来ていて、意識がそちらに向いた。

「俺のこと好きだよね」

「うん」

 反射的に答えて、数秒、何を問われてウンと答えたのか分からなくなって、高嶋は顔をあげた。

「え?」

「え?」

 言葉を失くした松本と目が合った。高嶋も言葉を失くして、お互いに思考が完全に止まった状態で暫く見つめ合った。冷蔵庫が低く唸る音だけが耳に入ってきた。




(2020.02.07//choke)