dissolve

 そういえば秋も終わるんだったな、と松本は大学からの帰り道ふと目に入ってきた枯れた銀杏並木を見て変に感慨深い気持ちになった。教授の都合で午後の予定に穴があき、そんならもう帰るか、と食堂で適当に昼飯を食べたあとは何処に寄るでもなく徒歩七分のアパートまでゆっくりと歩いていた。帰宅後にアパートで昨晩の残りを食べる選択肢もあったのだが、高嶋がまだ帰っていないため自分で用意しなければならない。それは松本の中ではできれば避けたい面倒事の一つだったし、買って帰るとなると一旦アパートを通り越したところにあるコンビニまで歩かなければならない面倒が発生する。多々ある面倒事を避けようとした結果、学校の食堂が一番合理的な気がした。合理的だなんて、気まぐれにしか考えないくせに。松本は近頃、自分がどんどん分からなくなっていた。

「俺のこと好きだよね」

 数日前自分の口を突いて出た言葉が蘇ってきて、松本は風邪対策につけているマスクに隠れるように縮こまる。

(なんだよそれぇ……)

 あのとき松本はなんの感情も持たずそう言った。だから、高嶋の返答も実はよく聞いていない。え、と言って目が合った後、何かヘラヘラ笑って言っていた気がするが、スマートフォンに届いていたメッセージの返信に気を取られ、ああうん、そう、と気のない相槌を打っただけだった。そして時間になると、買い物に行くという高嶋の車に乗せてもらいバイトに行き、バイトを終え帰宅すると晩飯を食べ、レポートが終わんねえと騒いでいる高嶋を只管揶揄って先に寝た。そうして週末が終わり平日の朝になると、二人して学校に行き、アパートの部屋では馬鹿みたいな話ばかりして、レポートに追われながら夜には一つの蒲団で眠る、変わりない日常を三日も続けた。
 四日目の昨夜、風呂に入っていて松本は叫んだ。そんな言葉が口から出た自分に、四日も経って今更死ぬほど驚いた。湯船に潜って(うううわあああああ)と盛大に叫んでしまった。口に出した時は、思ったこともなかった、というか、考えたこともなかったのだ、高嶋が自分をどう思っているのかなど。しかしそれもおかしな話で、厳密に言えば自分が高嶋に感じていることを高嶋も同じように感じることがあるのだろうか、というところまで考えが及んでいたのは確かなのだから、それは「考えたこともない」というには当てはまらない筈である。そしてそれは加減乗除すればいつかは好きだとか嫌いだとか何らかの感情の解に結びつく因果性を持っているというのに、松本の中にそういった方程式の概念が影も形もなかったため、松本にとっては「考えたこともなかった」のであり「なんとも思っていなかった」とせざるを得ない、所謂「どうすればいいか分からない」で頭の隅に放置され存在も忘れ去られた難解な文章問題であった。それが急激に、どこからか方程式が現れ勝手に値を代入し解を導き出してきた。それを唐突に理解したのだ。
 端的に言って衝撃の事態であった。

(今、完全に序盤で死ぬ人間に成り下がってる)

 映画やドラマなどの物語上あまり好ましくない展開であり、そんなようなことが自分に巻き起こっている現状に、身体中が警鐘を鳴らしている。脳だか胸だかに発生した危険因子の細胞、もしくはどこからかやってきて体内に寝床を作らんとしている悪性ウィルスを、手遅れにならないうちに破壊せんとしている。だから、心臓はうるさいし発熱したように全身が気怠く頭痛もするのだと、松本は頭を左右に大きく振った。振って、叫び出したいような心地の悪さを払拭しようとした。けれどなかなか頭は晴れない、胸はむかむか詰まりゆくばかり、ああもうなんなんだこれは、気持ちが悪くて仕方がない。そんなふうにして頭を振り時には走ったり何度もぶつかりそうになったり倒れそうになったりしつつ、なんとか無事アパートまで帰った。
 アパートの部屋に入って松本はすぐさまシャワーを浴び、部屋着に着替え、寝た。眠るしかなかった。もしかすると風邪をひいたのかも知れない、だから思考がおかしくなるのかも知れないなどという一縷の望みにかけた。昼飯を済ませてきて正解だったと独り言ち、目を瞑るとすぐにやってきた睡魔に身を任せて眠りに落ちた。



 部屋に充満した湿度と何かが煮えている音で目が覚めた。枕元のスマートフォンを手に取り見ると夕方の四時、どうやら三時間ほど眠ったらしい。身体の気怠さはとれていない。頭の中も晴れていない。それどころか衣服の下に薄い膜が張っているみたいに身体中ぞわぞわして、熱いのに寒い、そして汗でびっしょり濡れている。これは本格的に風邪だ、と思うと心のどこかがすうっと軽くなった気がして、松本はゆっくり寝返りを打ちまた目を瞑る。

(なんだ)

 心配する必要などなかったんじゃあないか。松本は与えられた安心感に、もう何も考えなくていいのだと背中を撫でられているような心地がした。

「るーさん、起きた?」

 高嶋の、身体の芯に響くような低くて優しい声が聞こえて、声のしたほうに身体ごと向けると、額に高嶋の冷たい手が触れてきた。

「……?」

 頭が回らなくて目を何度か瞬きながら見遣ると、いつもヘラヘラ緩んでいる口元が至極真剣に引き結ばれている。何かそんな大変なことでもあったのかと起き上がろうとすると、ああいいから、と慌てて制された。

「俺もさっき帰ってきたばっかなんだけど」

 これ、と体温計を手渡され、面倒だなと思いながら服の下に潜り込ませる。脇の下に挟むんでよかったっけ、と同時に、そういえばうちに体温計なんか常備してたかな、という疑問が浮かんできて、もしかしてわざわざ買いに行ったのだろうかと傍らの高嶋を見た。やはり真剣な表情の高嶋はコンビニのビニール袋をあさって冷却シートを取り出し、松本の額に否応なしに貼りつける。

「……いや、まだ熱測ってないじゃん」

「や、もう、触ったらわかった」

(じゃあ体温計要らないじゃん……)

 何こいつ、と松本は台所のほうへ向かう高嶋の後ろ姿を眺めた。確かに帰宅してすぐなのだろう、部屋着に着替えることもなく今朝一緒に出た服装そのまま、ばたばたと歩き回っている。松本の目には、アパートにいる高嶋が外出着のまま、というのがなんだかちぐはぐに映った。最近では高嶋の姿を思い浮かべる時必ず部屋着というくらい松本には珍しい光景で、やっぱりだせえな、等と考えられるほど外出着姿をまじまじ観察することも久しい。玄関に目をやると、あれだけ脱いだら直せと言っているのに脱ぎ捨てられた靴があって、適当に置かれたのであろう鞄が転がっている。台所では、加湿器の代わりに薬缶と鍋で湯を沸かし水蒸気を発生させているらしい。

「ちょっと俺、電気屋行ってくるわ」

 高嶋が上着と車のキーを片手に持ち、財布をジーンズの尻ポケットに突っ込みながら松本のほうを振り向かず言った。

「……え」

「やっぱ加湿器ないと。部屋の湿度大事って親も言ってたし、あとなんかこないだテレビでも見たし」

「……いや、いいよ大丈夫」

「鍋とか薬缶だと、ずっとってわけにいかないし」

「大丈夫だって……そんな大袈裟にしなくて」

「あ、ついでになんか食いもん買ってくるよ、ゼリーとか」

「ねぇ、ちょっと」

「あと……」

「うっさん!」

 俺はカブトムシじゃないし、というセリフが頭の中に浮かんでいたのに、こちらを見ず出かける準備をしながら話している高嶋を見ていたら思いのほか大きな声で呼び止めていた。びた、と動きを止めた高嶋が驚いた顔で松本を見つめてくる。松本も内心、自分の声の大きさに吃驚している。そこにちょうど、ピピピピ、という控えめな音で体温計が割り込んできた。確認すると微熱程度の数値で、溜息が出た。

「……ん、熱ないから」

「それは嘘だろ」

「ないもん、ほら見てみろって」

 高嶋に体温計を手渡すと、あるじゃん微熱じゃん、とかなんとか言いつつも、安心したように強張っていた顔が少し緩んだのに松本まで安堵する。正直、体温計を見るまではもう少しあるかと思っていただけに、微熱程度で大慌てされたことが逆に恥ずかしくなってきた。

「お前が大袈裟すぎて俺まで不安になったわ」

「だって帰ってきたらお前、汗だくで魘されてて、触ったらめちゃくちゃ熱くて」

「えっ」

 絶対に高熱だと思った、とテープの巻き戻しのように財布も車のキーも上着も元あったところに戻していく高嶋が言うには、帰ってくると松本が汗だくで魘されていて声をかけても揺すっても起きず、そのうち静かになって苦しそうな息遣いだけになったため、慌ててコンビニに行き体温計や冷却シートなど思いつくものを買ってきたのだそうだ。特に夢の記憶がなかった松本には寝耳に水の話だが、眠る前に散々あれやこれや悩んでいたことを考えると魘された原因としては高嶋以外にあり得ない。自業自得だ、と言いかけるが、その言葉は自分にこそ当てはまるような気がして口にするのを止した。

「よかったわ、お前がこのまま飛び出して行ってカブトムシ用のケージとか木くずとか買ってくんじゃないかって」

「なんでカブトムシ」

「おまえ湿気がどうとか食いもんゼリーとか、俺のことカブトムシみたいに言うから」

 言いながら面白くなってきて松本が笑うと、高嶋も笑う。やっとあの神妙な顔からいつものにやついた表情に戻って、松本は頭の中の靄が晴れていくのを感じる。そしてやはり、高嶋と居ると考えることを放棄している自分に気が付く。

「虫と思ってるやつとやるって、サイコパス通り越してもう、やばすぎるでしょ」

 高嶋の相変わらず語彙力のない言葉が変に耳馴染みが良いことも、松本はできれば考えないでいたいのにと思う。けれど、そうして何も変わらず何も考えずにいるとまた魘されて熱を出して、こうやって大慌てされるのかもしれない。カブトムシ扱いは二度と御免だ、と松本は腹を括る決意をした。恐らく自分は心のどこかで逃げていたいと思っていて、ずっと逃げ回ってきて、きっとそのつけが回ってきたのだ。そろそろ男らしく向き合ってやろう。

「こないださあ、お前に俺のこと好きだよねって言ったじゃん」

 急になんの話だ、と言わんばかりに、隣に座って煙草を吸っていた高嶋の腫れぼったい一重がぱちぱち瞬いた。ぶっさいくだな、と思いながら、じっとその目を見つめる。

「おまえなんて返事した?」

「……え? え……んんん」

 唸りながら今度は気まずそうに目を逸らされて、その様子にやけに頭にきた。松本が聞いていないと思って適当な返事をしたのか、それとも二度は言いづらいことを言ったのか。どちらにせよ想定していたものより数倍苛立つ反応を見せる高嶋の言葉を待つ。暫く一人で斜め上のほうを見たり、下を向いて何か考えたり、たまに覗き見するように松本の反応を窺ってきたり、高嶋はめいっぱい時間を使って悩んでいるようだった。そのうち、息でも止めたのかと思うくらい顔を逸らしたまま静かに動かなくなって、蚊の鳴くような声で一言、

「うん」

 と呟いた。

「そっか」

 松本は満足した気になって、深く息を吸い込んで、吐いた。なんだ、自分は結局高嶋の返答が気になっていたのだ。一気に身体が軽くなったような、悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなるほどに清々しい気分だ。そうかそうか、と言いながら、もうひと眠りしようと蒲団を被り直す松本を、高嶋の声が引き止めた。

「おまえは?」

「え? 何だって?」

「いや、だから……」

 言い難そうにしながらも、決して逃がしたくないという瞳が松本を見据えてくる。なんなら腕を掴まれているのかと思うほど。思わず自分の腕を見て、掴まれてはいないことを確認して、また高嶋の顔を見る。高嶋はゆっくりと、何か決心したように言葉を繋げた。

「お前は俺のこと好き?」

「……え?」

(なんだそれは)

 考えたこともなかった。松本はまた新たな問題が浮上したことに、いつまでこの気怠い状態が続くのかと絶望を感じて頭を抱えた。



(2020.02.11//dissolve)