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「お前は俺のこと好き?」

 恐らく地獄に飛び降りるくらいの勇気を振り絞って言った。高嶋の心臓はずっと早鐘を打ち続けていて、今にも破裂するかと思うほど胸の中で暴れ回っていた。無かったことのようになっていた言葉を、その返事をわざわざ蒸し返してくる松本に、もうどうにでもなれ、という気持ちが胸の殆どを占め嘘偽りなく答えたものの、松本がどこか満足気に「そっか」と答えて終わろうとしたのに慌てた。どうしてもう一度聞いてきたのか、その答えを知りたくなってしまった。けれど慌てて訊ね返したものだから、高嶋の口からは何よりも気になっていたことが零れ出た。言ってしまった後で言わなければよかったと思った。しかしだからこそ、何が何でも逃がすわけにいかないと思った。松本の、ばつが悪くなるとすぐに逃げの姿勢を見せる性格は理解していたしそういうところを何度も仕方がないなと見守ってきた。かわいらしいとすら思っていた。しかしここばかりは逃がすわけにいかない、たとえ身体を押さえつけてでも返答が欲しかった。でなければ自分の気持ちのやり場が無くなる。それも、一つ屋根の下に居て、だ。しかし、そんな高嶋の決心を知ってか知らずか、何を聞かれたのか分からないような裏返りかけた「え?」のあと、松本は上体を起こし座り直すと、自分の頭を抱え始めた。
 高嶋は煙草を消して松本に正面から向き直り、重ねて訊ねる。

「俺は好きだけど、るーさんはどうなの」

 どうって、と困ったように言いながら、どうしてそんなことを聞かれるのだろう、とでも言わんばかりに見張られた松本の目と、高嶋の目が合う。瞳が僅かに揺れていて、松本の動揺が見て取れた。目を逸らされないよう瞬きも忘れてじっと見つめ続ける高嶋の気迫に押される形で、松本は小さく口を開く。

「……考えたことなかったし」

 今にも逃げよう、逃げようと揺れる瞳がけれど逸らせなくて、身体だけ少しずつ高嶋から逸らせてゆく。そうして松本が少しずつ逃げを打つのを見ている高嶋の視界には、既に松本以外何もない。松本のためにと部屋中を湿気で満たしたせいか、頭の中にまで響くどくんどくんと五月蠅い心臓のせいか身体が熱くて堪らず、高嶋は震える指を握り締め渇いた喉で浅い息を繰り返した。

「じゃあ考えて」

「んん……考えとくわ」

「今」

「いま?!」

「うん、今考えて」

 高嶋の性急さに松本は、そんなこと言われても、と困惑と苛立ちが綯い交ぜになった表情で眉を顰め、ぎこちない動きで首を傾ける。そのうち唸りながら引き攣った笑みを浮かべ、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる勢いを利用して顔を伏せた。それで、高嶋は射止める視線を今度は松本の全身に浴びせながら、松本が自分の目を見てくれることはもう二度とないのではないかという気がしてきた。そう思うと更に焦り逸った気持ちが、時間の体感を狂わせる。一秒を一分に、一分を一時間に。そして、どれくらいこうしていればいいのだろうという不安がどっと押し寄せてくる。そもそも終わりがいつかが分からない。この距離で、目も合わせず、触れもせず、互いに座ったままどれくらいの時が経てばまた身を近づけ、目を合わせ、触れ合うことが叶うのだろうか。返答次第ではもう一生叶わない。しかしその返答を待つこの永遠のように感じられる気の遠くなるような時間も、終わりが分からないのだから既に『一生叶わない』の延長線ではないのか。ならば自分はいったい何をしているのだろうか。高嶋がこうして自分の言動の意義を見失いそうになっていても、目の前で松本は頭を抱えて顔を伏せているばかり、一向に何も言おうとはしない。

(やばい、吐きそう)

 緊張のせいで何かが腹の底からせり上がってくる。胃がひっくり返りそうなくらい痛い。なのに松本は、本当にどうすればいいか分からない、もう逃がしてくれと可哀想なくらい身体を縮こめている。高嶋は、冗談ではない、逃げたいのもどうすればいいか分からないのもこちらで、早くこの緊迫感をなんとかしてくれと懇願したくなってきた。そして怯えているかのように見える松本の反応に、泣きそうになった。そうしたら、絶対に今じゃない、そういう悪癖が高嶋の全身を襲った。

(ああもうだめだ)

 高嶋は松本のほうへ身を乗り出すと、驚いて身を竦めた松本をできるだけそっと、思いつく限りの優しい思い出を頭に浮かべて抱き締めた。きっと今の松本の全身で唯一柔らかいであろうその髪に顔を埋め鼻から一気に息を吸い込むと、ぶわ、と身体中が何かに包まれるような心地がして、指先までじんとした痺れが走った。顔を上げて口から息を吐くと、吐けば吐くほど、肺に溜まった毒も同時に吐き出されていく気がした。

「……なんでもいいか」

 すべての毒が口から出て行った後は、そんな言葉が出た。松本に逃げられたくないと、逃がさないと決心していたのに、散々追い詰めるうち自らを追い詰めていって、結局は高嶋自身が逃げてしまった。その言葉のやり取りにどれほどの意味があるのだ、考えたこともないという人に考えろと答えを迫ったところで、きっとどんな言葉でも受け入れられない。高嶋はそうやって自分に言い訳をする。結果的に松本は逃げていない、自分が逃げたのだから、気持ちのやり場などどうとでもなる、と。そうしたら、驚くほど一瞬で、緊張も胃の痛みも身体の熱も鎮まって、喉の渇きだけが残った。

「ごめん。なんか……うん、もういいや」

 そう続けると、腕の中の松本の身体が徐々に柔らかさを取り戻していくのが分かって、高嶋は腕の力を強めた。「なんなんだよ」と苦々しい声が聞こえてきて、答えずにいると、大体いきなりそんなこと言われても困る、と非難の言葉が続く。自分のことを棚上げして高嶋を責める松本の声が、それでもいつものように勢いや元気がなくて、言わなければよかったと、なんなんだろうと自分でも思うけれど、もう全部どうでもよかった。どうでもよくなってしまった。少し躊躇った後、身体を離して言った。

「ごめん、わけわかんなくなっちゃった」

 そう笑った高嶋を見て、松本は「俺は最初からわけわかんない」と苦笑しただけだった。その目に明らかな安堵の色を見つけてしまい、高嶋は鎮まった心臓に小さな棘が刺さったのを感じた。そしてそれが顔に出てしまうのを恐れ、台所で未だ沸騰し続けている鍋と薬缶の火を止めに行くためその場を離れた。






 松本がバイトに行くのを車で送り、スーパーに買い物に行ってから帰ってきて、高嶋は一気に脱力した。深く長い溜息を吐いて、玄関の扉を閉めたその場に座り込む。

『うっさんて、俺のこと好きだよね』

『うん』

 先ほどの会話を思い出して、高嶋は顔面から火が出そうになる。言われて反射的に答えた時、暫く沈黙し目が合ったが、松本がスマートフォンにまた目を戻したため、その間に頭を大学受験よりも回したのではないかというくらい回して、何を言われたのか、どういう意味なのか、どう返せばよいのかを必死に考えた。

『嫌いな奴と一緒に住んだりしないし』

『ああ、うん。そっかぁ』

 松本の反応がどう見ても思い付きで発した一言だと物語っていたし、友人として、という意味で言ったのだろうと、返事も聞いていなかったのだろうと高嶋は自分の中で無理やりに結論付けた。それを裏付けるように松本は高嶋が何を言ってももう上の空だったし、何事もなかったかのようにバイト先まで送られると車を降りる直前、晩飯はパスタ以外にして、と笑った。
 高嶋はもう忘れようと思った。きっと松本も思い出さない。それどころか、覚えてもいないだろう。ただ友人として好きか嫌いかの話をしただけだ、それに当然のことを答えただけだ、何の問題もない。高嶋は一生懸命考えることを止めようと思った。いつものように、この関係が長く続くように。けれど駄目だった。考えることを止められないどころか、泉のように溢れ出してくる気持ちを抑えられない。高嶋は自覚してしまったのだ。

(分かってなかった)

 自分に何が足りないのだろうとずっと考えていた。松本のこととなると高嶋の中に生まれてくる不可思議な感情の源泉がなんなのか、ずっと分からなかった。それがやっと分かって、高嶋は背筋が凍るような思いでいっぱいになった。

(今更、今更過ぎて)

 元々、声をかけてきたのは松本だった。予備校でよく見かけるなと思ってはいたが、模擬試験の時に盛大に寝坊して時間ギリギリに教室に入ったら隣の席になった。恐らく松本もギリギリに来たのだろう、高嶋が来た時にはまだ席に着いたところといった様子で、松本は上着を脱いで鞄から筆箱を出していた。松本がそのとき高嶋のことを知っていたかどうかは知らない。ただ高嶋もまた幾つかの教科でクラスが被っているな、というだけの感情しか持ってはいなかった。試験監督官が時計を見て開始の合図を告げたのに高嶋も慌てて準備を済ませ、問題用紙をめくったところで、隣から、あ、と小さく声が聞こえたが、それどころではなかった高嶋は黙殺した。カリカリとマークシートを塗りつぶす音と問題用紙をめくる音だけが響く教室で、途中、あまりにも問題が解けず諦め気味になった時、隣の松本の様子が目に入ってきた。そういえばあとかなんとか言っていたな、と思いながら眺めていると、どうしよう、と言わんばかりにソワソワ前を向いたり手元を見たりしていて、どうやら消しゴムを忘れてきたらしい、それで試験監督官に言おうか言うまいかしているようだった。その姿があまりに可哀想に見えて、高嶋は持っていたまだ新しい消しゴムを二つに割り、差し出した。最初の試験が終わり、松本は試験監督官に駆け寄ると一言二言交わし、消しゴムを借りられたらしい、無言で戻ってくると気まずそうに消しゴムの片割れを返してきて、高嶋も無言で受け取った。五教科の模擬試験は昼飯を挟んで夕方に終わる。精神力も体力も持って行かれて溜息しか出なくなっていた高嶋に、帰る準備を済ませた松本が少しの躊躇いの後、話しかけてきた。飯行かない? とだけ。
 それから志望校が同じということが分かると少しずつ予備校外でも会う回数が増え、夏が過ぎ秋を超え冬が来て、いよいよあと数日後には運命の試験だという頃に、高嶋は「受かったら、一緒に住もう」と提案をした。松本は迷う様子もなく快諾し、受験を終え自己採点の結果きっと二人とも合格ラインだろうという希望が見えたので、二人でアパートを探した。この時から松本のことを意識していたのかどうか。定かではないが恐らく少しは友人以上の何か、複雑な気持ちをほんの少しだけ持っていたのだろう。水の入ったグラスに赤ワインを一滴落とした程度の、薄っすらとしたものだったと高嶋は思う。そもそも高嶋には友人というものが幼馴染を合わせて二、三人くらいしかいない。好きなことだけして必要なだけ学校に行っていたらそうなって、流石に入れるところでいいから大学には行っておこうかなと思いついたところで担任に相談すると予備校を進められた。そんな高嶋なので、友人の中では一番気に入っているのかも知れないとか、一番一緒にいて楽だとか、それくらいにしか思っていなかった。恋愛対象も男ではなかったし、松本のことが女に見えたこともない。けれど、松本の距離が高嶋に物理的に近づくと、そのまま触れることが自然な気がした。特に一緒に住み始めてからは隣に座ったり近くにいたりすると、必ず身体のどこかが触れる。触れると、もっと触れてみたくなって、それがどうしてなのか考えもせず、高嶋はやってみようと言った。松本は悪ふざけの延長のように、興味本位だけでいいよと答えたように見えた。それが最初のセックスで、最初こそ散々だったが、どうすれば良くなるのかなど調べて実践を繰り返し、それが高嶋には新しいゲームのように面白かった。二回目こそ痛いからと嫌がった松本も高嶋に押される形で付き合い、恐らく五度目か六度目になって漸く高嶋がコツを掴んだ。それからはもうお互い暫く病み付きになった。高嶋は初めて松本が自分の手で自分の身体の下で乱れに乱れた時、その光景だけで達してしまうかと思った。動かす度にびくんと跳ね震える肌が、細められた目元が、そこに滲む涙が余りに煽情的で、耳に届いてくる言葉にならない声が高嶋の思考を掻き消して、セックスがこんなに気持ちが良いものだったのならきっと今までの行為はすべてセックスではなかったのだと価値観が変わってしまうほどの快楽だった。
 昼夜問わず、どちらが言うともなく、突然始まり際限なく求めあうようにのめり込んでいたのが徐々に落ち着いていき、夏休みが終わる頃には高嶋は、一回一回を大切にしようと思うようになっていた。行為が激しさを増せば増すほど食べることも寝ることも忘れてそればかりしていたくなり、身体には疲労が溜まりどんどん瘦せていったし、更に何度もバイトを無断欠勤してクビになったことで二人とも一旦頭が冷えた。日常生活に支障が出ない程度、一回一回を味わうようにゆっくりと。そうしてみれば驚くほど満足感が高かった。そして松本に触れたいけれど触れない、そんな生活の中で、高嶋は自分の中に妙な衝動があることに気づいたのだった。

(自覚しなきゃよかったなぁ)

 真っ白のレポート用紙を目の前に、ペンを持つ右手は微動だにしなくて、高嶋は先に晩飯の用意に取り掛かることにした。パスタ以外と言われて買ってきた材料を並べ、カレーを作り始めた。
 夜の十時過ぎ、帰ってきた松本は何の感想もなくカレーを食い、食べ終わった食器を流しに置きがてら「これ三日くらい続くんでしょ」と忌々しそうにカレーの入った鍋を見つめていた。松本の予言通り、カレーは三日続いた。
 高嶋は忘れることに決め、それに徹した。自分からは二度と蒸し返さない、自覚した感情もどうにかして折り合いをつけようとした。そうしなければ一緒には居られなくなってしまう。松本との生活すべてにひずみが生じる。それだけは避けたいと、その一心でなんとか上手くいっていた。そしてやっといつも通りに戻ってきたと思ったその日、帰宅すると松本が魘されて寝込んでいて激しく動揺した。思いつく限りのことをしたし、このまま気が付く様子がなければ救急車を呼ぶか負ぶって車に乗せ病院へ行こうと思っていた。大袈裟かも知れないが、魘されていた松本がふっと静かになった瞬間、このまま息が止まって死ぬのではないかと思ったのだ。微熱だと分かってから少し落ち着いて、松本がおかしそうに笑ったのを見た時に漸く、心の底から安堵した。全身から鉄の皮が剥がれ落ちたようだった。
 カブトムシがどうとか言う松本に返事をしながら、高嶋は心の中で自分に言い聞かせた。もう自覚してしまったのだから、自分の気持ちだけは否定も無かったことにすることもできない。松本のことはきっとずっと前から友人だとこれっぽっちも思っていないし、これからも思えない。けれどそれでも、松本が高嶋を友人だと言えばそれで良いと。このまま友人としていれば、この狭いアパートで二人の時間が続くのならそれで構わないと。けれど松本がそれ以上を望むなら、その時は。
 煙草に火をつけ、横目で盗み見る。高嶋の言葉に笑いながら、松本は少し遠い目をして天井を見ていた。話すのを止めると、鍋と薬缶の沸騰する音だけが部屋に響いていて、煙草を吸い終わったら止めに行こうと高嶋は灰皿に灰を落とす。暫くそうしていて煙草が半分ほど燃え落ちたとき、落ち着いた静かな声を高嶋の耳殻が拾い上げた。

「こないださあ、お前に俺のこと好きだよねって言ったじゃん。……おまえなんて返事した?」

 まっすぐ見つめてくる松本の目を見られなくて、真意を測りかねて、じっと答えを待たれてしまって、高嶋は言い淀んだ。返事を聞いていなかったからもう一度訊いたというのであれば、前と同じように茶化してしまえばよかった。けれど実際は聞いていて、その上でもう一度尋ねてきているのだとしたら。高嶋が曲解したと思い、それを正そうとしているのだとしたら。悩みに悩んだけれど、考えれば考えるほど高嶋には正直に言うほかもう道が残されていないように思えた。僅かな希望を抱いてしまったから。



(2020.02.13//issue)