incite

 問題が解決しないうちは発熱したり魘されたりが続くかもしれないと思っていたけれど、案外松本の日常には平和が戻っていた。あの一週間が嘘のように、何もなかったかのように高嶋は二度とあの時の質問を投げかけてはこなかったし、松本から口に出すこともしなかった。ただ、考えて、と言われたことを自分なりには考え続けていた。今まで通り接してくる高嶋を見ていると、好きじゃなければそもそも一緒に住んだりしない、くらいは言えばよかったなと後悔している。けれど、高嶋が訊ねてきた好きかどうかはそういうことではないのだろうから、言ったところでなんの意味もないことも分かっていた。
 松本が高嶋に訊ねたのはどういう意味か、もしもあのとき高嶋にそう問われていたら確実に「友達としてという意味だ」と答えていただろう。それは天邪鬼な自分が吐きそうな尤もらしい言い訳だ。そうでないことは明白なのに、と松本は口を歪める。一緒に住んでいるばかりかセックスまでしているのに今更友人として好きかどうか訊ねるなんて頭がおかしいではないか。そして、高嶋の回答が友人として好きだという意味ではないことも分かっていて、その回答を聞き高嶋の態度や様子の何故が解明されたことにすっかり満足してしまって、自分はどうなのかと問われることなどは想定外だった。松本はそこまで考えて自らの最低さに溜息を吐いた。

(まあ、ふつう訊くよね)

 そもそも恋愛においては、相手に真っ向から好きだと言うほうだと松本は思っている。これまでの恋愛で数こそ少ないが、松本から相手に好きだと言ったことも勿論あるのだ。思ったなら口にするし、思っていないことは口にできない。あの日問われて、考えろと言われて、乱雑にとっ散らかった頭の中で松本は一生懸命考えたけれど、どれだけ脳の海を掻き回しても高嶋に対して恋愛感情の好きという気持ちが見つからなかった。かといって好きじゃないと言うわけにもいかないし、他に何と言えばよいのかも分からない。自分の高嶋に対する感情に名前があるのかなどは考えたこともない。それで言いあぐねていたら、結局高嶋が折れた。
 松本にとって恋愛の好きと、高嶋に抱いている感情とは根本から違っていた。前者は胸が高揚し、わけもなく馬鹿なことがしたくなったり、四六時中会いたくなったりするようなものだ。ならば後者はというと、高嶋に対してはそういった「動」の感情ではなく、「静」の感情のほうを強く感じていた。一緒に居て楽しい、けれど、どちらかというと安息とか、安寧とか、心が落ち着くというほうが当てはまる。身体が触れると体温が心地良いと思う、声が聞こえるとずっと聞いていられると思う、身体を繋げると凹凸が重なるように自然のことのような気がする。アパートの部屋に一人でいると他人の家のように妙に落ち着かないくせに、高嶋がいると何処よりも安心できる自分の家だと思える。松本の中でそういうものはもう、恋愛感情ではなかった。

(好き、じゃない、絶対)

 松本は一人でうんうん頷いた。それだけは確実に分かっているのだと。だからそれより、自分の高嶋への感情を一言で表せる言葉が何か考えなければならない。どうしたものかと、手にしたスマートフォンの着信履歴を眺めた。先ほど授業中にかかってきた高嶋からの不在着信が表示されている。松本と高嶋の所属学部は違うので、当然一日のコマ数も帰宅時間も勿論違ってくる。しかし授業の開始・終了時間は変わらないということは、入学初日に確認し合ったことだ。曜日毎に違うコマ数や帰りの時間についても、夏休みが明け学期が変わった時に改めて伝え合っているのだから、今日のこの時間帯、松本が授業を受けているということは突然の休講などというイレギュラーでも起こらない限り高嶋も知っている筈なのだ。

(こいつ、出れないって分かっててやってない?)

「悩みごと? 珍しいじゃん」

 軽薄な声が聞こえてきて目を向けると、訪れた時には松本しかいなかった筈のサークルの部室にいつの間にか一人増えている。サークルの規模がそこまで大きくないため部室というよりは物置のようになってはいるが、一応は長机が一台、パイプ椅子が数脚ある。扉から最も離れた奥のパイプ椅子に腰かけている松本の隣の椅子に腰かけながら声をかけてきたのは、同級生の田辺だった。松本とは学部が違うためここでしか会うことはない。同級生とはいえ、田辺は二回留年しているので一応先輩ではある。しかし初対面から年上だと思えなくて、松本はこの二つ年上の人に敬語を使ったことが無かった。

「珍しいってなにどういう意味」

「いや、難しい顔してるのは初めて見たなって」

「俺だって人並みに悩む事ぐらいあるわ」

 あはは、と大声で笑う田辺こそ悩む事などなさそうに思えて、松本は今日何度目か分からない溜息を吐いた。

「で、何」

「ん?」

「そんなに悩んでるなら相談くらいのるよ」

「ええ……お前に相談かあ……」

 なんでそんな嫌そうなんだよ心外だな! と大して心外でもなさそうに笑って背中をバンバン叩かれた。力加減というものを知らないのかな、と思うくらいに痛かった。その痛みに半ば無理やり押される形で、松本はぼそぼそ話し始めた。

「いや……まあ、友達の話なんだけどね、俺じゃなくて」

 魔の一週間のことを掻い摘んで説明し、こういう感情は相手になんと言うべきか、何なのかが分からなくて悩んでいる、俺じゃなくて友達がね、とそこまで言うと、じっと押し黙って話を聞いていた田辺が突然思いっきり顔を上げ、廊下にまで響き渡るのではないかというくらいの大声でたった一言、たった一言で松本を串刺しにした。

「好きじゃん!」

 一瞬、時が止まったのかと思うほど松本はその一言に硬直した。しかしすぐに、違う、そういうことじゃない、ていうか声でかいな、と気を取り戻し改めて説明しようとした。伝わりづらかったのかも知れない。再び「あのね」と口を開いた松本に、田辺はにべもなくもう一度言い放った。

「それはもう好きでしょ、好きってことじゃん!」

「いや、待って待って、違うんだって」

「いやそれ以外ないでしょ、お前はその相手のこと絶対好きだよ」

「だから俺の話じゃなくてぇ……」

「この際どっちでもいいよ! 好きでしかない!」

 頑なに好きだと言い張られ、自分の話ではないと言っているのにそんなことはどうでもいいと田辺は松本の言葉に言葉を被せ矢継ぎ早に独自の理論を展開していく。聞いているうち、そうなんだけど、そうじゃなくて、しか言えなくなってしまい、松本は相談などするべきでなかったと後悔でいっぱいになった。

「何で迷ってんの? 何が気に入らないわけ? 俺には全然分かんないんだけど! 俺がお前の立場だったらもう速攻で好きって言う、俺だったらね」

「うっわあ! うるさい! もういいわ帰るわ!」

 長机に放り出してあったリュックを掴み、うるさい、好きでしょ、うるさい、好きじゃん、うるっさい、と応酬しながら田辺を振り返ることもなく松本は部室を出た。好きではないと言っているのに、好きでしかないと言われ、恐らく彼とは価値観が違うのだろう。次の授業に向かいながら松本は(だから、好きとかじゃねーんだよ。なぁ?)とすれ違う学生に心の中で問いかけた。そのたび、その学生の背後から田辺が現れ、「好きじゃん!」と言われる幻覚が見え、一旦落ち着こう、と空を仰いだ。



(2020.02.14//incite)