appease

「好きだね」

「しつこい」

「は?」

 驚いたような声で松本は我に返った。目の前には購買で買ったらしいオレンジジュースを差し出している城山がいて、「あれ〜もしかして僕いま喧嘩売られてます〜?」と言いながら松本の顔をまじまじと見つめている。いやなんか変な夢見ててねゴメンね、と適当に謝りながらオレンジジュースを受け取った松本を訝しげに見遣り、城山は丸いテーブルを挟んで向かいの席に座った。田辺と別れて授業を受けた後、一コマの空き時間を潰すため松本は学内のラウンジを訪れていた。殆ど授業の被っている城山とは、特に約束していなくとも空き時間にここでよく会う。

「ていうか、なんでジュース?」

 手の中のまだ冷たい紙パックを見つめている松本に、城山はまた驚いて目を見開いた。

「いやいや、さっき何か飲むかって声掛けたらオレンジって言ったじゃん」

「え……そうだっけ?!」

「マジで寝てたの? 無意識に俺をパシらせたんです? いや流石だわ」

「あー! 思い出したわ!」

 松本が笑って咄嗟に思い出したと嘯いても、ひっどいひっどい、とそう言い続ける城山の表情にさほど苛立ちは見えない。そしてやはりそれほど気にもしていないのだろう、すぐに話題を切り替えた。

「ていうかさっきの空き、いなかったよね」

 松本は紙パックに附属のストローを差し込みながら、部室で田辺と喋っていたと答える。城山は田辺って誰だっけ、という顔をしながらも、特に訊ねてくることもなく缶珈琲を啜った。

「部室行くの珍しくない? 遠いんでしょ部室棟って」

「うん最初こっち来たんだけど、なんかめちゃめちゃ混んでたんだよね」

「先週から旧校舎の工事始まったじゃん、そこで授業してた学部がこっちの校舎でやってるらしいから多分そのせいだよ」

「工事? ふーん」

 そういう案内は掲示板に貼り出されているはずだが、見た覚えがない。掲示板は学部の校舎に必ずあって、その日の休講情報や授業変更等の案内が当日朝に貼り出されることがあるため、登校すればまず確認する。高嶋曰く大学のホームページでも確認できるらしいのだが、学部内事情だろうか、最新情報の更新が遅いため掲示板を見たほうが早いし急を要する変更等はそれほど無い。松本がそう言うと、高嶋は現代的じゃないと言った。そう言うなら一言二言の連絡くらいメッセージで送ってこい、と松本は返した。それに口元を緩め、まあいいじゃん、と高嶋は笑っていた。

「なんかあれだね、もう二学期も終わるね」

 城山は落ち着いた声でゆっくり話す。田辺のように大声や早口でまくしたてることが無いため、話していると余計なことまで口走ってしまいそうになると松本は思う。けれど松本のテンションが高くとも、城山にはあまり関係ないらしく、また逆に城山のテンションが高くとも、松本にはあまり関係がない。ただ二人とも、相手のテンションが低い時には少々気を遣う、そんなような関係だった。

「んー、早いよねなんか」

 答えながら松本は確かに、入学式の日のことがつい昨日のことのように思い出せるなと思った。年始は受験があったし、新しい生活に慣れるため忙しなく過ぎていったこの一年間には特にこれといって思い出深いこともない。振り返ってみればくだらない日常を過ごしてきた。そして思い出せる大体の出来事には高嶋がいて、松本は複雑な気持ちになる。学校のことより、高嶋と生活を共にした時間のことばかり思い浮かんできた。春は新しい生活のため二人で買い物に行った日のことが、夏は泥のようにセックスにのめり込んでいた毎日が、秋は雨が多くて薄暗い部屋に二人でいる浮遊的な感覚が。頭の中にこびりついているあのへらへらした笑顔が自分に向けられている映像が、嫌に鮮明で溜息が出た。

「冬になると気分が落ちてくるのなんなんだろうね」

「え、俺はそんなでもないけど」

「俺は落ちちゃうんだよね〜クリスマスも孤独に過ごすんだろうな〜とか考えて」

 城山が残念そうに溜息を吐いた。松本はといえば、そういえばもうすぐそんなイベントがあったな、とクリスマスのことなどすっかり忘れていた。今年は高嶋と家でケーキでも食うのだろうか、と想像してみたが、あまりにも普通の日常と代わり映えが無いなと思う。イベントといえば、そういえば六月に高嶋の誕生日を祝った。日付が変わった時に時計を見て思い出し、おめでとうと言うと、自分で冷蔵庫からケーキを出してきた。なんで自分で用意してんだよ、と松本が笑うと、覚えてくれてるとは思わなかった、と失礼なことを言われたのだった。

「じゃあ何でそんなに落ち込んでるわけ」

 落ち込んでいる、と言われ、松本は口元を歪めて唸った。落ち込んでいるわけではないのだ。出口の見えない考え事に気が沈んでいるだけで、どうしていいかわからないことばかり松本に降りかかってきて儘ならない状況に溜息が出るだけで。

「……落ち込んではない」

 言い淀んでいると、城山はそれ以上何も言わなかった。その代わり、恐らく気を逸らそうとして話題を変えた。

「同居人の飯って美味いの?」

「別に普通」

「毎日作ってくれてんだっけ」

「でもカレーとかパスタとかばっかで、大したもんじゃないよ」

「いやいやいや……作ってもらえるだけいいじゃん」

 そういうものだろうか。一緒に住むにあたって家事はある程度分担しようと話し合い、掃除や洗濯は松本が、料理や生活用品の買い出し等は高嶋がやることになっている。お互い生活していくうえで嫌にならない程度に、負担にならない程度に手を抜いてやろうという話だったが、そう言われてみれば毎日、家に帰ると晩飯が用意されていることに気づいた。高嶋の帰りが遅い時などは前日の残りがあるし、バイトも高嶋は土日の朝から夕方までしか入らないため、松本が晩飯に困ることは無かった。

(……ん?)

 ということは、松本の帰りの時間や自分の帰りの時間を考慮したり、バイトの時間を調整したりして、松本が家に帰れば必ず晩飯があるよう配慮しているということなのではないだろうか。と、そこまで考え至り、松本は思わず緩みかけた口元を手で押さえた。

(健気かよ……)

 今更ながら、松本が気づいていなかったとはいえ、気づいてしまえばこんなにも顕著なものなのだろうか。俺のこと好きだよね、と言ったとき、きっと高嶋は鳩が豆鉄砲食らったような顔をしていたのだろうから、もっときちんと見ておけばよかったと後悔する。

「え? なになに、その反応」

「え? なにが?」

 反射的に出した声が裏返って、城山が声を上げて笑う。

「いやいやいや、わかりやすすぎでしょ」

「いやいやいやいやいや。なにが?」

 取り繕うように返す松本を指差しながら、「ほらもう反応が!」と城山が本当におかしそうに笑うので、松本は意地になって「何がそんなにおかしいんだよ」と声を荒げた。

「前から思ってたけど、同居人の話になるとすっごい思い出し笑いするよね」

「してねえよそんなに」

「自分で気づいてないんでしょ。仲良いよねホント」

 城山は高嶋を知らない。それどころか同居人が男か女かも伝えていないので、城山は相手が松本の何なのかを把握していない。ただ、同じ大学の別の学部にいる誰か、ということを知っているのみである。

「一緒に住んでて嫌になることとかない?」

「全然あるよ、そんなの山ほどある」

「例えば?」

「靴脱いだら直してって言ってるのに脱ぎっ放しにするし、上着も脱いだらその辺に置くし、靴下丸めて洗濯機に入れるし、あとどうでもいいこととかですぐ電話かけてくるし」

 言い始めると止まらなくなってきて、松本は思いつく限りいつも高嶋にやめてと怒鳴っていることを例に挙げる。堰を切ったように話し出した松本が数分後、(なんでこんな話してんのかな)と疑問に思って話すのを止めてしまうまで、城山は缶珈琲を啜りながら時折うんうんと相槌を打ちつつ聞いていた。松本が言葉を止めて、沈黙が数秒流れて、城山は自分から聞いておいて全く興味がなさそうに「ふうん」と言い、

「好きだねぇ」

と締め括った。
 松本はもう溜息も出尽くして、額に手を当て項垂れた。

「……今の話で、なんでそう思うわけ」

「だって、そんなに山ほど嫌なことがあるわりにさ、楽しそうじゃん」

「楽しそう……?」

「またしてたしね、思い出し笑い」

 松本は苦々しく「してない」と言いながら、両手で顔を覆うように撫で擦った。その様子を見てまた城山が声を上げて笑った。
 それから松本が話題を変えようと全く関係のない話を振ったあと、何度か過去の恋愛や自分の恋愛観についての話にもなったが、城山はもう同居人のことには一切触れてこなかった。そういうところが付き合っていて楽だと松本は思う。城山はなんだかんだ面倒見が良く、神経質なところが玉に瑕だが、人の顔色をよく見ている。松本は(そういえば最初ってなんで仲良くなったんだっけ)と少し思い出そうとしたが、全く覚えていなかったため止した。
 空き時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、松本は城山と連れ立って次の授業の教室へ移動した。その間に高嶋に折り返しの電話を掛けたが、繋がらなかった。



 授業を受けながら松本は、城山の言葉を思い出していた。

「思い返してみると、自分の中では一気に燃え上がるようなものが『恋愛』って感じはするんだけど、たまにさ、家に帰ったら居て欲しいなって思うような、あ〜こいつのこと好きだわ〜っていう気持ちが晩飯食ってる時にしみじみやってくるみたいなさ、なんだろ波長が合うっていうのかな、そういう人と付き合った時のほうが不思議と長続きするんだよね」

 その感覚は松本が高嶋へ抱いているものに少し近い気がした。そういう気持ちで繋がる関係も『恋愛』と呼べるのなら、高嶋のことが好きで、これはきっと『恋愛』なのかも知れない。けれど、松本はどうしてもこの関係を『恋愛』とは呼びたくないと思った。



(2020.02.18//appease)