realize
期末試験が近づいてくるに連れ、高嶋のレポート量は増えていき、週末は松本も試験勉強に時間を費やすようになった。どちらが言い出したわけでもないが、週末に集中していたセックスは自然と無くなった。二人ともそれどころじゃなかった。一学期末も同じようになっていたからそのことについては別段気にもしていなかったが、それに伴っていつもより一層増える高嶋のぬるっとしたスキンシップを妙に意識するようになってしまっていた。あんな告白があった後で、あんな反応をされた後で、よくもここまで元通りに振舞えるものだと松本は高嶋の精神を疑った。そして自分だけが意識しているようで癪に障った。
(受験の時は死ぬほどメンタル落ちてたくせに)
いつも通り大学で一日授業を受け、松本は今日もあまり頭に入ってこなかったなと筆記用具を片付けながら溜息を零した。そうしていつも通り、教室を出てスマートフォンを確認すると、高嶋から着信がきている。少しの逡巡の後に折り返したが留守番電話に繋がった、これもいつも通りだ。そういえばこちらから電話をかけると必ず出ないのではないかと松本は一瞬変に疑りかけたが、いや、そもそも電話をかけること自体、折り返しを含めても数回しかないのだった、と思い直す。松本の何倍も、高嶋からは着信がある。そしてそれはいつも「声を聴かないと落ち着かない」などという理由で、不必要なまでに松本のスマートフォンを震わせた。心なしか松本は普段であれば気にしないようなそんな些細なことにまで焦燥を煽られていた。自分でもよく分からないのだが、高嶋に恋愛対象として好かれているということを改めて自覚してから、それに応えなければならないような衝動がぐいぐい松本の背を押すのだ。普段通り接してくる高嶋の態度がそれに拍車をかける。普段からこんなにも、好かれていたのかと分かってしまう。それ自体が嫌ということではなく、あまりにも明確にはっきりと松本の目に映るので、一種脅迫のようにさえ思えてきていた。
(……なんか、今日帰りたくないな)
今日の授業はすべて終わってしまった。先日のように部室に行って誰かしらと交流を図るのも悪くはないが、また田辺に会って同じことを言われると心が荒む気がした。それに時期はもうすぐ期末試験、今のような夕方の時間帯は何処へ行っても試験勉強のために人が多くなる。今松本が行っても座れる席は無いだろう。さてどうしようか、と思いつつも、足は校門へと向かっていて、このまま云々考えながら家に着きそうである。松本が一歩を躊躇った時、上着のポケットに右手と共に突っ込んでいたスマートフォンが震えた。
「なんか久しぶりじゃん」
アパートと大学のちょうど真ん中くらいにある喫茶店に入ると、奥の席で片手を上げて合図した鈴木に近寄りながら松本は笑顔で声をかけた。時間帯の妙か他には誰もいない寂れた喫茶店だが、昼間はわりと学生が入り浸る。人がいないことに松本は少し安堵した。
「え、そうか? 前いつ会ったっけ」
「うっさんが中古の冷蔵庫買って、運ぶの手伝ってくれたとき」
「それ夏だよね、てことはまあ三ヶ月ぶりくらいか」
めちゃくちゃ久しぶりじゃん、と鈴木が笑って、松本もだからそう言ってんじゃん、と笑う。鈴木は高嶋の幼馴染で、高嶋と知り合ってすぐ紹介された。というよりも、予備校帰りに飯を食おうと二人で近くのファミリーレストランまで歩いていたら鈴木とばったり会って、その流れでなぜか三人で晩飯を食べたのが最初だった。人見知り同士の二人は最初こそあまり喋らなかったが、高嶋が間を取り持つでもなくあまりにもいつも通りのため、自然に素のまま接するようになった。それからは三人で会うこともあれば、鈴木と二人で買い物に行く時もあった。なんにせよ高嶋と同じくらいに頻繁に会っていたから、三ヶ月ぶりなどは二人にとって頗る久しぶりの感覚であった。松本の中で高嶋が静であれば鈴木は動、鈴木には一緒に馬鹿みたいなことをして騒ぎたくなるようなシンパシーを感じていた。大学に受かり高嶋と住むと言った時は真剣な顔で「俺も誘えよ!」という冗談を吐き、引っ越しの際も「お前らと違って就職組の俺は忙しいから」と言いながら荷物運びを手伝ってくれた。面倒見がよく、友人を大切にし、周りの空気をよく読む。繊細過ぎてたまに面倒くさくなるところもあるが、松本にとって鈴木は良き友だった。
「で、なんだよ。喧嘩でもした?」
仕事で近くまで来たから、そう電話がかかってきて、アパートに寄ると言うので、思わずこの喫茶店を指定した。松本の記憶が正しければ高嶋の今日の帰宅時間は松本より早い。恐らく松本が先ほど受けた最後の授業中、高嶋は帰宅している。鈴木には悪いが、高嶋がいないところで先に話したいことがあると言うと何か察したのか、電話で詮索することもなく喫茶店で会うことを承諾してくれた。運ばれてきた珈琲にミルクを入れながら、松本は喧嘩ではない、と口ごもりつつ話し始めた。
「なんか、俺のこと好きだって」
「へえ」
へえ、って、淡白過ぎやしないか、と思ったものの、もしかして高嶋から話を聞いていたのかも知れない。二人は幼馴染だから、相談していてもおかしくない。松本はそれならそれで話が早いなと思い、早々に本題に入った。
「俺はべつに……なんかアレだけど、今更おかしいけど」
「……ん?」
鈴木が何の話だという顔で松本を見るので、松本は言ったことが伝わっていなかったことを悟る。かと言って自ら細かく説明するのはさすがに気恥ずかしく、これはそもそも俺が相談すべきことなのだろうか、と今更尻込みする。
「いや、あいつが……えっと、友達じゃなくて、そういう」
「……あ、え? あいつの彼女かなんかがお前に好きだって言ってきたってこと?」
「え? 待って待って、おまえ話わかってる?」
「全くわかんねえ、何の話?」
これは恐らく高嶋からは一ミリも聞いていない、松本は頭を抱えそうになりながら、言ってもいいのかどうかと一瞬躊躇したが、どうせどうにかなったならすぐにわかる話だと腹を括って最初から説明した。鈴木は逐一、喫茶店の窓ガラスが割れるかと思うくらい大きな声で盛大に驚いていたが、魔の一週間について最後まで話し終える頃には逆に静かになっていた。
松本が言葉を止めると、鈴木は自分のアイスティーをストローでぐるぐるかき混ぜ、一息で半分ほど一気に飲んでしまうと、噛み締めるように言った。
「自業自得じゃん」
ハッキリと言われ、そんなことは分かっていると言いかけて口を噤む。松本は珈琲のカップを見つめながら「だよな」と一言絞り出した。そんな松本を気遣ったのか、鈴木はどっちが悪いとかそういう話じゃないけど、と言葉を続けた。
「そうなったからには返事しないってのは有り得ないだろうし、あいつもだけどお前もずっとモヤモヤしたままになるし、何より放ったらかしてていい話でもないだろ」
正論だと思った。その通りだ、正しすぎてぐうの音も出ない。松本が小さく「分かってる」と呟いたのを聞き、鈴木は一等優しい声で「俺はどっちも大事なダチだから」と松本を宥めた。
「そのさ、お前が悩んでるのは恋愛として好きかどうかってこと?」
「……んまあ、そうかな。厳密に言うと恋愛にしたくないっていうか」
「ちょっとよくわかんねえけど」
松本にもよく分からないのだから鈴木に分かる筈もない。恋愛にしたくないのは、そうだと思えないからなのか。単に気恥ずかしいからなのか。そのどちらもそうであるような気がするし、いまいち的を射ていないような気もした。最初はそもそも、これは恋愛感情ではないと思った。けれど城山の話を聞いて、そういう恋愛もあるならこれも恋愛感情と呼べるのかも知れないと思った。そうすると「どうして恋愛でなければならないのか」という疑問が浮かび上がってきてしまった。そうでなくても築かれていた現状の関係性に満足していたし、恋愛感情だと自覚せずとも成立していたのに、突然その関係性に名前が付くのが、付けなければならないことが、なんだかおかしい、なんだか嫌だと思ってしまった。
「煮詰まってんなら、一旦考えるのやめてもいいじゃん」
鈴木が明るい声を出したので、松本は顔を上げた。
「大事なのはお前らがどうしたいかだし、そこに何が必要かは話し合えばいいんだから、正直にお前が思ってることあいつにぶつけて、それであいつがお前の気持ち分かってくんないんだったら、俺が殴るわ」
最後の一言に笑ってしまって、松本が笑ったのを見て鈴木は更に「そりゃあもうボッコボコにしてやる」と畳みかけてくる。それは高嶋が可哀想すぎるな、と松本は想像してまた笑えた。
アイスティーを飲み干して、鈴木は頬杖をつき斜め上を見上げる。
「恋愛にすんのが嫌って、なんかこうアレか、あー、キスとかそれ以上はしたくないってことか」
言った後で「なんか気持ちわりいな」と零す鈴木に、松本は珈琲をスプーンでかき混ぜながら、それは別に、と答えた。
「それ以上もうやっちゃってるし」
鈴木は頬杖からずり落ちると、今度こそ喫茶店の窓ガラスすべてが割れたのではないかと思うほど大きな声で驚き、両手で顔を覆い天を仰いだ。
「……分かった、なんかもうそこから間違ってんだわお前ら」
「え? どゆこと?」
「普通そういうことは好きなもん同士がやることだって話だよ、なんでわかんねんだよ」
そう言われても困ると松本は思った。そもそも恋愛対象は同性ではなく、しかしそういう世界があることはインターネットを通して知ってはいて、嫌悪感よりも興味が勝ってしまったし、悪く言えば一時の感情で始めてしまった。それが凝り性の高嶋が妙に研究し始めて、徐々に悪くなくなっていって、最終的に何よりも気持ちがよくなってしまったのだ。
「なんだよじゃあもう、そういうことじゃん」
「どういうことだよ」
「考え方変えてみろよ、好きとか恋愛とかは取り敢えず置いといてさ。あいつと一緒に住めなくなって、そういうこともできなくなっていいのかどうか、で考えればいいじゃん」
「……え」
松本は両手で包むように持っている珈琲カップを摩った。そういうことでいいのだろうか。それでは、どんどん俗物的になっていっているのではないか。けれど改めて考えてみれば、それだけは驚くほど簡単に答えが出た。
(……なんだよ、そんだけか)
詰まるところはそういうことなのだろう。悩んでいたことがぱっと散って、すとんと一つの答えが胸に残る。今の安息がすべて失われることを避けたくて、自分は答えを先延ばしにしていた。関係性に名前を付けたくないのは、そうすることで始まっていないものが始まってしまう、それが嫌なのだと。自覚というのはこういうことなのだろう、松本は顔を見られたくなくて、思わずテーブルに突っ伏した。
「嫌なんだろ」
鈴木がにやついているのが顔を見ずとも声で分かってしまい、松本は吐き捨てた。
「……別に、死ぬほど困るわけでもない」
そういうとこだよなあ、と鈴木が呟いて、アイスティーのグラスを煽って氷をガリガリ噛み砕いた。その音を聞きながら、本当にそういうところだな、と松本は失笑した。自分の強情も噛み砕いてもらえればいいのにと、冷めた珈琲を少し揺らした。
(2020.02.19//realize)