paradox

 タイミングが悪い、と高嶋はいつも思う。何かする時、何かされる時、松本に関することは基本的にタイミングが悪い。電話をかけてからそういえば授業中だったと思い出す。電話がかかってきた時はスマートフォンに意識がいっておらず出そびれる。帰ってくるだろう時間を想定して風呂に湯を溜めておいた日に限って、松本から「ちょっと寄り道して帰る」などというメッセージが来る。試験が迫っているこんな時期に松本の寄り道は珍しく、高嶋は松本からの折り返し電話に出られなかったことを悔やんだ。声を聴けばまだ安心できたかも知れないと、不安が募っているのならばその根本をどうにかしなければそんなことは単なる気休めでしかないと分かっていて、それでも高嶋は気休めが欲しかった。

(逃げた俺が悪いんだけど)

 松本の反応を恐れて自ら逃げてしまい、高嶋はあの一連の出来事すべてを無かったことにした。そんな高嶋に戸惑いながらも徐々に順応し松本も元に戻っていったのは、松本が心の底でそれを望んでいたからだと痛いほど分かった。身を引き裂かれるような思いだった。できれば最初からやり直したい。初めて話したあの日に戻りたい。そこからやり直すことができれば、何もかも上手くいくのではないか。そんなできもしないことを考え、考えるたびにできるわけがないと失望し、許されていた『今まで通り』だけを拠り所とした。けれど、高嶋の『今まで通り』はどうやら松本にはそうではなかったようだ。ここ数日、高嶋は明らかに避けられていると感じていた。無防備過ぎた松本のゼロ距離は目に見えてゼロ距離ではなくなり、気を付けて離れているのが肌で、表情で、声で分かる。それでも高嶋は探り探りだったボーダーラインのギリギリを、今までは許されていたじゃあないか、というような開き直りで松本に押し付けた。そうして今日、松本はまだ帰ってこない。

(いままでどおり、がダメなら、全部ダメじゃん)

 もう指先を数センチ動かすことすら億劫なほどの倦怠感に包まれ、高嶋は蒲団の上で天井を見上げていた。溜めた風呂はとっくにぬるま湯になっているだろう。作りかけの晩飯も台所でどんどん新鮮さを失っていく。タイマーをセットした炊飯器だけが湯気を立て始める。切った野菜の断面が黒ずんで瑞々しさをなくすように、高嶋の傷の断面もこのままからからに乾き、表面の細胞が死んで、そのうち棄てるしかないものに成り果てるのだろう。そうなった頃に突き付けられるなら痛みもなく受け入れてしまえそうで、どうせなら早くそうなりたい。そう望んでそうなれるものでもないくせに、と高嶋は身体を起こして台所を見つめた。結局、高嶋は松本が好きだ。何かしてあげた時、喜ぶ顔を見ると嬉しい。自分の言葉に松本が笑うと嬉しい。高嶋の話を聞きながら、緩く笑って相槌を打つ。自らひっついてくるくせに、高嶋が不意に触れると口元を歪めて嫌がる。高嶋が作った褒められたものでもない料理を、文句は言っても必ず食べる。苦手なものを箸で除け高嶋に寄越し、俺に食べてほしくないって言ってる、などという子供のような言い訳をする。どれをとっても高嶋には捨て難い愛おしさだった。だから、怠惰が恋慕に負ける。先ほどまで何もかも億劫だったのが、立ち上がって再び包丁を握る。

(我ながら変なところでメンタル強いな)

 やることなすこと空回ろうが、火を見るよりも明らかに避けられようが、言葉にして突き付けられないうちは自分の権利を行使しできるだけのことをしよう。それが自分の信念だと、高嶋は大きく深呼吸をして、晩飯の準備を再開した。




「ただいまぁ」

 どこかそわそわしながら松本が帰宅した。その頃にはもう高嶋は晩飯の準備を終えていて、今日出された課題のレポートに取り掛かっていた。

「お帰り、長い寄り道だったね」

「……そうでもねえだろ、言うて一時間くらいじゃん」

 松本が上着を脱いで綺麗にクローゼットにかけている間、高嶋は机に広げたレポートや資料を片付ける。立ち上がって台所に行き、鍋の乗ったコンロに火をつけながら「先に風呂? それとも晩飯?」と松本を振り返ると、クローゼットの前で松本は高嶋から目を逸らしたまま頭を掻いた。そうやって佇んでいるのをどうしたのかと見守っているうち、よし、と小さく独り言ちて、テーブルの辺りを指差し、短く言った。

「そこ座って」

「……え」

「話あるから」

 一瞬、心臓を握り込まれたような胸の痛みに息が止まった。辛うじて細い呼吸を繰り返し、唾を嚥下すると大袈裟な音が鳴る。話がある、と言われているのに、僅かな唇の隙間からはどうでもいいことが次から次へと零れ出た。

「……でも、晩飯もうできるけど」

「話したい」

「風呂、先に入ったほうが」

「うっさん、座って」

 戸惑う高嶋に松本は焦れるでもなく急かすでもなく、先に自分も座って、言い聞かせるように促してくる。声音はどこか優しい。それが余計に高嶋を脅かした。タイミングが悪いにも程がある、と高嶋は自分の不運を呪う。しかし果たしてこれは不運なのだろうか。自ら招いた今日が結果なら、すべて不運ではなく自業自得なだけだ。高嶋はできるだけゆっくりとコンロの火を消して、台所を整え、松本の待つテーブルまで歩み寄り正面に座った。狭い部屋に置いた小さなテーブルでは、松本との距離は一メートルに満たない。どうしても顔を見ることができず、高嶋は胡坐を掻いた自分の足首を凝視した。
 暫くして、松本は穏やかな声で言った。

「お前のこと好きだわ」

 高嶋の反応を待たず、松本は言葉を繋げる。

「でも、恋愛とかじゃないっていうか」

 静かな部屋に広がる松本の声があまりに穏やかで、高嶋は瞬きも忘れて思わずその声に聴き浸る。一生聞いていたい声だと思う。それなのに、一音一音はっきりと紡がれていく言葉は高嶋をじわじわ蝕む毒のように追い詰めてくる。

「友達、でもなくて……今のままがいいんだよね」

 今のまま、と言われた時、高嶋はふと顔を上げた。声だけでは真意を測りかねた。松本はテーブルの隅の辺りを見つめながら、「そういうかんじ」と締め括った。何がどういう感じなのか、高嶋の頭の中ではクエスチョンマークが踊り狂った。『今まで通り』がいいなら、何故露骨に避けたのか。友達ではないという『今まで通り』は、松本の中では友達ではなかったのか。悲しんでいいのか喜んでいいのか分からず、え、という短い言葉を繰り返すだけの高嶋がなんとか一つでも疑問を晴らそうとして纏まらない言葉をぽつぽつ零し出すと、松本は「あ、待って、違う」と突然高嶋をまっすぐ見つめた。

「言い方がおかしかったな。とにかく俺はお前が好きらしくて、今まで通りがよくて、たぶん、えっと、そもそもとっくに友達って感じじゃなかったじゃんって」

 松本の目はしっかりと高嶋を見ていて、あくまで自分の希望を真剣に伝えようとしているのが分かって、高嶋は何を言われているのか把握するのに時間がかかった。待って、と言って目を逸らし、言われたことを頭の中で反芻する。考えても考えても、好きだけど恋愛ではなく、恋愛ではないけど友達でもないという意味が分からなくて高嶋は思わず笑いながら首を捻った。

「……いや、なんかよく分かんないんだけど」

「あ、大丈夫、俺も分かんないから」

「いや、じゃあダメだろ!」

「いんだよもう細かいことは! 考えるの疲れたもん」

 深刻そうに話し始めておいて、気づけばお互い笑っている。松本が笑うとその場の空気が柔らかく和んだ気がして、高嶋は全部がどうでもよくなってきた。けれどそれはあの日、松本の答えを待って放棄したものとは真逆の位置にある、逃げではない満たされた思考の放棄だと浮つく気持ちが告げていた。

「好きだって言ってんだからもういいでしょ」

「いい、のかなあ。俺はまだよく分かんないなあ」

「何が分かんないの、もう好きだっつってんだからあとどうでもいいじゃん」

 松本の言葉通りもうどうでもいいくせに、高嶋はごね続けた。そのたび松本は好きだと言った。照れる素振りも甘い雰囲気も全く無かったし、告白の返事をされているというのにドラマチックでもロマンチックでもない、狭いアパートの部屋で小さいテーブルを囲み、中途半端な距離で顔を突き合わせ、そんな状況がまぎれもなく夢じゃなく現実だと高嶋に告げていて、あまりにも日常的なことがこの上もなく高嶋の胸を締め付けた。

「どういうこと? もっかい説明して?」

「だからあ、そもそも俺らの関係ってもう友達じゃなかったでしょ? で、お前も俺も好きだってなって、でも恋愛じゃなくて、恋愛じゃないんだけど、今まで通り友達でもなくてぇ……えーとなんだっけな……まぁ、だからそういうことよ」

「いや最後がよく分かんない」

「ええ? 何がわかんないわけ」

「友達じゃないし、恋愛でもないけど、友達でもなくて、……で、どういうこと?」

「……だからあ」

 説明しようと思えば思うほどこんがらがってしまうのか、ごね続ける高嶋に松本はとうとう堪りかねたように「あー!」と唸りながら背後の蒲団に転がった。

「どうでもいいじゃんそんなことはぁ」

 顔を腕で隠しながら、今更遅れてやってきた照れを隠しているのか、面倒くさくなって呆れたのか、上擦った声で小さく呟く。高嶋は頬が緩むのを抑えられなくて、抑える必要もないかと思いながら、ずっと心の底から湧いてきていた言葉をやっと口にした。

「どうでもいいか」

 腕の隙間から高嶋を見遣った松本が、げんなりと身体を投げ出した。完全に呆れられたと高嶋は思う。けれどそこには危機感も焦燥もなかった。恐らく松本は責めないからだ。高嶋の予想通り、松本は寝そべったまま不愉快そうな顔を隠そうともせず高嶋を見ながらも、どうでも良さそうに言った。

「腹減った。晩飯なに?」

 高嶋が答えず笑って立ち上がり準備の済んでいる台所に向かうと、「なんだよ無視かよ」と言いながら追ってくる。身を寄せて高嶋の手元を覗き込んできたから、すかさずこめかみに唇を押し付けた。

「……なんでお前って、そう気色悪いの」

 口元を歪めてそう言う松本がそれでも身体を離さないのは、高嶋の唇が震えていたからだろうか。微かに目元に滲んだ涙を見られたくなくて顔を背けたことを、高嶋は死ぬまで後悔するだろう。

「好きだよ」



(2020.02.20//paradox)