indulge

 喫茶店を出る時、アパートまでついてくるものだと思っていた松本に、鈴木は躊躇いもなく「今日はやめとく」と言って近くの駐車場まで歩いて行った。松本は思わず追いかけ車までついて行き、鈴木を見送ることにした。

「もう今日終わらせろよ、その変な喧嘩。答え出たんだから」

 自動精算機で駐車料金を支払いながらそう言いつけられ、松本は自分の足元を見つめた。改めて整理しようかな、などとそれらしい理由をつけて思考に逃げようとしても、田辺の不躾な一言が、城山の恋愛観が、鈴木の提示した新たな考え方と共に松本を責め立ててきて、確かに答えは出たと思わざるを得ない。それにもう考えることに逃げるのも疲れてしまった。松本はそういう言い訳で、強情な自分を押し込めた。

「喧嘩じゃねえし」

「あーはい、そうでしたね」

「心配しなくても終わらせるよ。お前が遊びに来れるように」

「頼むよ、全然行きたくないけど」

「なんでだよ!」

 鈴木の車が走り出してから、松本も残り少ないアパートまでの道を歩き出した。答えは出したにしろ、頭の中が纏まっているわけではない。変な言い方をして誤解されるとまた面倒なことになる。けれど、言いたいことは言っておきたいという気持ちもある。とにかく一生懸命なんとかするしかないし、結局はなるようにしかならないんだろうから、纏まらなくても自分の言葉で話そう。気持ちを固めた瞬間、アスファルトを踏むスニーカーは速度を速め、それほど長くもない家路を急いでいた。





 晩飯のあと高嶋が溜め直したらしい風呂に浸かりながら、気持ち悪い会話だったと松本は今更、強い後悔に苛まれていた。執拗に訊ね返してくる高嶋に半ば意地になって言い返していたが、言うまでもなく松本は(こいつ言わせたいだけだろ)と高嶋の甘えに気づいていて、それでも何度でも好きだと言った。結局は飽きて投げたけれど、「どうでもいいか」と笑った高嶋の顔を見た時、とっくに松本の記憶に住み着いているへらへら締まりのない顔がそれと重なって、やっとすべてが元通りになった安心感から力が抜けた。このとき松本は、『元通り』になったと思った。それは『何もかも無かった』ことになったと同意だ。松本が望んだのは『今まで通り』だったのだから。けれど、台所でいつものように身を寄せた松本を捉えた唇が微かに震えていて、一瞬視界の端に映った高嶋の目が揺れていて、これは何一つ『元通り』ではない、決して『今まで通り』などではないと、全身で理解した。松本にとっては『今まで通り』でも問題はない。しかし高嶋にとっては『今まで通り』ではいけない。そして、松本がそれを分かっている、ということを、高嶋には言葉にしてやる必要があると思った。きっといちいちそれを言葉にしなければ、高嶋は惑うだろう。松本の『いつも通り』がまた『何もかも無かった』ふりを高嶋に強いてしまうだろう。それは、高嶋のそういう性質を身に染みて理解している松本の脳に経験則として刻み付けられた、反射的思考だった。

(そうだった、面倒くさいやつなんだよ)

 そんなことは出会った頃から分かっていることだ。一緒に暮らし始めて更に強く、この出来事があって尚鮮明に、高嶋の面倒な部分をまざまざと見せつけられてきた。「好きじゃん」田辺の言葉が蘇る。違う、と松本は否定する。「好きだねえ」城山の言葉が浮かぶ。そういうのじゃない、と松本は退ける。「そういうことじゃん」鈴木の言葉が過る。どういうことだよ、と松本は突っぱねる。誰に言われても永遠に肯定することはないし、高嶋にすら面と向かって問われたなら絶対に肯定などしない。そういうことじゃない、と心のどこかでは未だ思っている。そんな言葉で簡単に納得できるならもっと早く答えは出ていた。未だに納得できていない。これは好きとかいう感情ではない。

(でも、そう言えば安心するんだろ)

 これは高嶋にとって『今まで通り』ではないのだと、そこには明確に互いの感情の自覚と確認があったのだと、松本だけが理解しても意味がない。そもそも松本が出した答えは、何のためだったのか。そもそもこの問答は、誰のための問答だったのか。全部が全部、高嶋が納得するためのものではないか。松本は、なんて贅沢な奴なんだと思う。自分は高嶋を甘やかし過ぎていやしないかとすら思う。

(でも、仕方ないじゃん)

 自分のために毎日、得意でもない料理を作る。自分のためにわざわざ、バイトのシフトを調整する。自分のために必死で、自分の感情を押し殺そうとする。もともと、愛されることに弱い性質だと自分で分かっている松本が、こんなにも好きだと全身で示されて、死んでも言わないけれど、可愛いなと思わない筈がない。
 それで、松本はできるだけ、できるだけ声に気持ちが乗るように、短い言葉にすべてを詰め込んで、もう二度と高嶋が惑うことのないように丁寧に、丁寧に、「好きだよ」と呟いた。二度と言いたくないから、二度と言わせないでという願いも込めて。

「風呂いいよ」

 髪を乾かし終え、レポートの続きをしている高嶋に声をかける。立ち上がって浴室へ向かう高嶋と入れ違いになる形で松本は蒲団の上に座ると、煙草に火をつけテーブルに広げられたままのレポートを眺めた。相変わらず素っ頓狂な字だな、と見ていて笑いが込み上げた。汚いのではなく不恰好で、けれどどこか味があって、何より高嶋らしさが出ていて、変に愛着が湧いてくるのが少し不思議だ。字は名前よりよっぽど如実にその人を表しているように思える。他人からしか分からない、その人となりが見える。暫く見つめていると何についてのレポートなのかが気になってきて、冒頭から目を通し始めた。けれど字にばかり気がいって内容が頭に入って来ず、松本はまた思わず笑いそうになる。何度も初めから読み返してやっと内容が頭に入ってくるようになったが、結論まで書き終えられていないレポートは結局何が言いたいのか分からず仕舞いで、少し損した気になった。

「面白い?」

 松本がテーブルの上にレポート用紙を放った時、風呂から出てきた高嶋が訊ねてきた。

「ぜんぜん」

 言い捨てると、「そりゃそうだろうな」と高嶋が笑う。あとちょっとで終わるからやっちゃわないと、と言ってテーブルの前に腰を下ろし、資料を広げペンを走らせ始めた。蒲団に寝転がり頬杖をついて煙草を吸う、松本に横顔を向ける形で、高嶋はレポートに集中している。その横顔をじっと見ていて、ふと松本は予備校の頃のことを思い出す。いつものように特に楽しくもない講習を受けていたら、ある日、明るめの髪を長く伸ばした背の高い男が視界に入ってきた。ちょうど今くらいの角度から見えた横顔で、額から鼻筋、少し厚ぼったい唇から顎までが綺麗な形だなと思った。長く伸ばした前髪で目が見えなくて、正面から見たらどういう顔をしているのだろうと気になった。

(初めて正面から見た時は笑いそうになったな)

 そのくせ、話すようになり、笑いかけられるようになって、眠たそうな一重の目が笑うと溶けるように優しくなるのを知って、高嶋が笑うと松本もついつい頬が緩んでしまうことに気づいた。気づいたのは、いつだっただろう。松本は高嶋から視線を外さず、少しだけ記憶を探してみる。そして、気づいたら、という言葉は便利だと松本は思う。自分ははっきりと自覚するより、なんとはなしにゆるゆる自覚することのほうが多いらしい。

(やっぱり字ってのは、人となりを表してんだなあ)

 残り少ない煙草を消してもう一本取り出すが少し躊躇い、高嶋を見遣る。表情が真剣で、まだ終わりそうにないと思い火をつけた。が、二口程吸ったところで、高嶋が声を上げてペンをテーブルに置いた。

「あー! 終わった!」

「おつかれ」

「髪乾かしてくる」

 勝手に行けよ、と思うけれど、当然高嶋も了解を得たいわけではないから、松本が返事をしようがしまいが関係なく立ち上がって洗面台へ向かった。松本はまだ半分も過ぎていない煙草を消すと、枕を引き寄せ目を瞑った。

 照明を消し、蒲団に潜ってくる感触で意識が浅く浮上する。抱き込んでいた枕が引き抜かれ、なんなんだと声を上げようとすると、代わりに優しい布の感触がした。なんだろう、高嶋のスウェットの感触だ、柔らかい、温かい、ああこれは腕か。順番に時間をかけて理解する。首の下に差し込まれた腕では頭の座りが悪くて、いくらか身動きしそれでも定まらず寝返りを打ったら、顔が高嶋のスウェットに埋もれた。鼻からゆっくり深く息を吸うと高嶋の匂いがした。肺が満たされて、身体中が温まっていくのを感じる。松本の頭のてっぺんから指先まで、余すところなくじんじんと満足感でいっぱいになる。全身の筋肉が弛緩し、背中に回った腕にすべて委ねてしまうと、意識もまた薄れ始める。真っ暗な世界で、あるのは匂いと感触だけで、たったそれだけだというのに。

(……やだなあ、こんなんだったっけ)

 それは松本が初めて感じる、名状し難い愉悦だった。



(2020.02.22//indulge)