「車の中で隠れてキスをしよう」

「中学行ってみようぜ」

 言い出したのは流鬼だったな。

 夜中、曲作りに煮詰まった流鬼から着信があって車を走らせマンションまで行った。俺も作っていた曲がひと段落したところだったし、小腹が空いていたから気分転換にファミレスでも行こうかと車を出したのだけれど、エントランスから出てきた流鬼は助手席に乗り込むと「いや、なんか適当に走って」と言ったっきり黙り込んだ。適当にと言われてもなあ、なんてブツブツ言いながら、行く当ても特になかったが取り敢えず高速に乗ることにした。走らせるなら、信号のない道のほうが自分としても気分転換になると思ったのだ。高速に乗ってすぐ、流れる案内標識を見て流鬼が興味もなさそうに言った。

「これどこいくの?」

「えーと、神奈川のほうかな」

「ふうん」

 それから何かぽつぽつ喋っていたけど、内容は殆ど他愛もないこと。俺は俺でスピードメーターとルームミラー、それからたまに覗き見る流鬼の横顔に意識を遣っていて、相槌を打てていたのか少し怪しい。はじめはガゼットの曲が流れていたのにいつの間にか勝手にラジオに切り替えられていたカーステレオからは知らない音楽が延々と流れていた。知らないくせにハンドルに置いた両手で小さくリズムをとったら、「知ってんのかよこの曲」と笑われた。流鬼が笑うと車内の空気が少し柔らかくなった気がした。それで冒頭。流鬼に道案内してもらいつつ、流鬼の母校に辿り着いた。道を覚えていると豪語していたのに実際うろ覚えも甚だしくて、迷いまくってやっと着いた。こっち、ここ右曲がって、いや違う逆だった、そこじゃなくてさっきの前のとこが逆だった。流鬼の道案内は思っていた以上に難解で、下手なゲームよりも面白かった。ここだ! と言って曲がった先にあったのが中学校じゃあなくて何かの工場だった時は二人で腹が捩れるほど笑った。

「あー……なんか意外に遠かったね」

「るーさんが間違えまくるから」

「人の記憶はあてにならないってことだな」

 校門の前に車を停めて外に出ると、夏の終わりの風が心地良かった。少しひんやりとしていて、鼻腔を擽る独特な匂い。ここが都会でないからか、それともこの時期、この時間だからか。そのどれもがそんな気がするけれど、恐らくそのどれとも違う意味を持った香りが呼吸をするたび俺の肺に満ちていく。

「このご時世に警報とかなんも付いてねぇって、田舎って感じすんなあ」

 聳え立つ古い校舎を見上げている俺の目の前で、流鬼が校門によじ登った。校門は開かないように施錠されているけれど、簡単に乗り越えられる高さだった。

「え、ほんとに大丈夫? 屈強な男とか来ない?」

 思わず辺りをきょろきょろ見回す俺を鼻で笑って、門の向こうから流鬼が手招きする。

「ないない! 絶対ない、見た。大丈夫だって」

「ていうか不法侵入……」

「この際そこは気にしないことにしよ」

 まずいでしょ、と思いながらも、手招かれるままに俺も校門を乗り越える。正直、口ではどうこう言いながら内心わくわくしていた。それをたぶん、流鬼は分かっている。にやにやした顔で「楽しいだろ」とでも言わんばかりに、門を越えてきた俺を見上げた。

「あー懐かし。あれ? こんなんだったっけなぁ」

 所々記憶と違う、と楽しそうに、あくまで小さめの声で思い出を辿りつつ校内を進んでゆく。そんな流鬼の後ろ姿は校舎の風景に合わなくて一寸面白い。校舎を外から眺め、教室はあの辺で、あそこでよく友達と飯食って、授業サボるのには空き教室がちょうどよくて。流鬼の思い出話には限りが無くて、聞いたことのある話、初めて聞く話、様々あったけれど、楽し気に話す横顔にさきほど車の中で覗き見ていた横顔が重なって、俺は相槌を打ちながら鼻を鳴らす。香りが濃い。

「ここ、忍び込もうぜ」

 指差した先にはプールがあった。流石にフェンスが高くてこれは越えられないだろうと思っていると、「こっちこっち」と裏手に促される。校舎側と違い、木や草が生い茂っている裏側のフェンスには一部、木の枝が大きくせり出しているところがあった。フェンスが木の重みで拉げ、足を掛けたら簡単に登れてしまい、流鬼はそこからプールサイドに飛び降りた。

「高校の時よくこっから入って勝手に遊んでたんだよな」

 まだそのまんまだとは思わなかったけど。どこか嬉しそうに言う流鬼に続いてプールサイドに足を着けると、全く知らない学校なのに、なぜか自分も懐かしいような気がしてくる。プールなんてどこも似たようなものか。かといって自分の母校のプールの景色なんてこれっぽっちも思い出せないのだけれど。プールの授業っていつまであったっけ。そんなことを考えて覗き込んでみた水面は透き通っていて、どうやら放置されているわけでもないようだ。隣にしゃがみ込んだ流鬼が手でぱしゃぱしゃと水を撫でた。そこまで丸くもない月の光は少し弱くて、優しい光が流鬼の立てる波に反射して広がってゆくのがきれいだ。

「……入りたくなってきたな」

 ぼそ、と誰に言うでもなく呟いたら、隣から悪戯っぽい声が聞こえた。

「入れば?」

 見下ろすと、靴を脱いで履いているスウェットの裾を膝下までたくし上げている流鬼と目が合う。瞳に水面の揺らめきが映っている。

「着替えも無いのに?」

「おー全裸で入れよ」

「それはさすがにアウトだろ、完全に不審者じゃん」

「そしたら通報してあげるね」

 足湯のようにプールサイドに座り、脛まで水に浸してばしゃばしゃ音を立てている流鬼は少年みたいに笑った。あれ、俺らいまいくつだっけ。倒錯的だな、と俺がしゃがみ込んで水面に手を伸ばした時、背中をとん、と押され、そのまま頭から水の中に落ちた。吃驚しすぎて鼻から水を吸い込んでしまい、急いで立ち上がり顔を出すと盛大に噎せた。やっぱり中学校のプールだから、立ち上がると水は腰辺りまでしかない。

「あっぶな! 頭打つかと思った!」

「あはははは!」

 流鬼は腹を抱えてプールサイドに笑い転げる。何がそんなに楽しいのか、ここに来てからずっと笑っている流鬼が、どんどん恨めしくなってくる。

「びっしょびしょだねえ」

「誰のせいだよ」

 プールサイドに上がろうと、横たわったままの流鬼の隣に手を伸ばした。その手に手が伸びてきて重なり、「寒い?」と尋ねられる。見上げてくる目には、今度は月が映っている。「意外に、めちゃくちゃ寒い」答えた俺にまた笑い転げると、着ていたパーカーを脱ぎタンクトップ一枚になって、躊躇いなく足先から水の中に飛び込んだ。

「え?!」

「いやなんか楽しそうだなって」

 狼狽える俺を尻目に、流鬼は服のまま水に入るって変な感じがする、とおかしそうにぷかぷか浮いた。髪まで濡らして、空を見上げた。

「すっげえ……寒い」

「そらそうだ」

「なんかこういうのっていいじゃん」

「青春っぽくて?」

「そう」

 暫くそうしてノスタルジーに浸るのかと思いきや、馬鹿馬鹿しそうに笑って、「あー寒い!」と流鬼はさっさとプールサイドに上がった。くしゃみが止まらなくなってきて、二人して震えながら車まで小走りで帰った。びしょ濡れのまま車に乗りたくなくて、俺はトランクに入れっぱなしにしていたブランケットを引っ張り出した。取り敢えず後部座席に乗り込んで上に着ていたパーカーを脱ぎ比較的無事だった七分袖のインナーだけになり、下は全部脱いでしまってブランケットを腰に巻いた。それを見てまた流鬼は爆笑していた。俺も流石に滑稽すぎて可笑しかった。流鬼は下を全部脱いで、無事だったパーカーを羽織ってさっさと助手席に座った。奇跡的にもう一枚あったブランケットで髪を拭き、寒い寒いとそのまま包まるようにして縮こまっている。

「これは確実に風邪コース」

「笑えないなぁ」

 運転席に座り、ナビを流鬼の自宅に設定していると、自分たちの格好が目に入ってきて何度か笑いが止まらなくなった。流鬼は鼻をすすってコンビニで珈琲でも買おうと言うが、どうやって店の中に入ろうか、策が無さ過ぎてどうしようもない。いっそびしょ濡れの服をまた着込んで行くか。それはどちらかというと申し訳ないし、深夜のコンビニに全身びしょ濡れのサングラス男が珈琲を買いに来る、なんて体験は俺が店員なら死んでも御免だ。

「……じゃ、帰るか」

 俺が言うと、流鬼は小さく頷いた。見遣った唇は紫色で、小刻みに震えている。けれどやっぱり楽しそうで、あまりにも可笑しそうで、複雑な心境の俺に気づきもせず校舎を改めて見上げた。

「やっぱいーな、なんか」

 満足そうに言うので、サイドブレーキにかけていた手の力を緩めた。

「なにが?」

 問うと「んー? 思い出っつーかなんつーか」なんて優しい声が返ってくる。その優しさは俺に向けられているものでなくて、流鬼だけに見えているだろう景色や、人々や、音やものに向けられているのだとはっきりと分かった。ここに着いたとき身体に入り込んできた空気がもう肺を満たしていたから、車の中なのにあの風の香りがする。流鬼が息をするたび漂ってくる気さえする。この空気の匂いは、流鬼にとっては懐かしさの象徴だろう。流鬼には、この空気のなかで生きていた時間がある。記憶がある。そこに俺はいない。

「……そうだよなぁ」

「え?」

 流鬼が俺を振り返った。その表情も声も、今の俺には見慣れたものだけれど。

「俺の知らない流鬼がいたんだなって」

 それが無性に感じられて、つい口からそんな呟きが転がり出た。当たり前のことなのに、どうしようもないことなのに。春の手触り、夏の味、秋の色合い、冬の音。俺の知らないこの場所で、時間を彩るすべての中で過ごした流鬼の姿を思い浮かべる。笑う、喜ぶ、悲しむ、怒る、プールサイドで見た、あのゆらゆら揺れる瞳を向けられた誰かが、そこにはいた。それを思うと、腹の底から恨めしい気持ちが込み上げてきた。次の瞬間にはどっと落ち込んだ。どうしようもないことを考えている、自分に呆れて、何より後悔した。

「なんだよ、面白いこと言うなよ」

 そう笑われたのに顔を上げると、身を乗り出してきた流鬼が俺の濡れた髪を邪魔そうにぱさぱさ払い、髪から頬に滴った雫を撫でつけるように拭って、ゆっくりとした瞬きのあと瞳を溶かした。

「いまは何百倍も面白いから」

 いつまで経っても思い出にならないんだよなぁ。

 その言葉を聞き終わるかどうかのところで唇が重なってきて、目を閉じた。頬を滑っていた手が肩にトン、と乗る。俺は両手で冷たくて柔らかい流鬼の頬を包む。濡れた髪を指先で梳くと擽ったそうに鼻にかかった息を零し、舌先で歯列をなぞると同じように返される。冷えた唇が互いの息と舌の温度ですっかり温まるまで暫くそうしていたが、何処か遠くからバイクのエンジン音がこちらに向かってくるのが聞こえ、思わず流鬼の肩にかかっていたブランケットを掴んで頭から被り助手席のシートを倒した。

「うわっ」

「しっ」

 エンジン音は大きな光と共に後方から近づいてきて、一瞬で通り過ぎて行った。通り過ぎて行ったことに安堵したものの、校門前に不審な車が停車していると通報されたらどうしよう、とまた不安が押し寄せてきて、慌てて身体を起こそうとした俺を、首に回った両腕がぐっと引き止めた。

「もうちょっと」

「えっ」

 ブランケットの中、間近にある瞳には何も映っていない。真っ暗で、お互いの顔しか見えなくて、鼻と鼻が擦れ合っている。息を吸うと、流鬼の匂いがした。仕方がないな、なんて考えながらもう一度唇を重ねると、楽しいだろ、なんて聞こえてきそうな弧を描いているのに苦笑する。舌をやわやわ縺れ合わせると、そこから全身がゆっくり痺れていく。流鬼が小さく吐息を零すたび、瞼の裏にくすぐったさが広がる。指先が首筋を辿るたび、微かな電流がそこに流れるようで心地良い。いつまでもそうしていたいと思う心とは裏腹に、咄嗟に取った体勢が思いのほか辛くて、俺は「ごめん、限界」と腰の痛みを訴えて身体を起こした。おっさんくさいなと茶化した流鬼は改めて俺を上から下までまじまじ見つめ、

「おまえの格好、ド変態じゃん」

と、自分を棚に上げて絶句した。



 高速を東京まで戻りながら、すっかり眠ってしまった流鬼の横顔を行きの時と同じように覗き見て、カーステレオから流れるラジオに耳を傾ける。鼻から大きく息を吸い込めば、いつの間にかあの香りはもうどこにもない。いなくなったのか、溶け込んだのか。それにしても冷静になってみれば今日のことはあまりにも馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しすぎて、多分このさき何度も今日のことを「そう言えばあの時」なんて言って笑うのだろうな。その時この車内の香りを思い出すのだろうか。どうだろう。むしろ車内の香りで、今日のことを思い出すほうが多そうだ。香りどころか、車に乗るたび。ブランケットを出すたび。曲作りに行き詰まるたび? けれど、やっぱり。あのプールサイドで、この車で、そのブランケットの中で、流鬼の揺れる瞳の先にいたこの日の俺を、俺は恨めしく思うのだろうな。



(2020.04.17//車の中で隠れてキスをしよう)