みひつのこい

「いつか、俺の知らないところで、視ていないところで、俺じゃない他の誰かが、俺の知らない、知ってても俺じゃない、他の誰かが、るきを殺すかも知れないそれがたまらなく嫌だ」

 寝ていたと思ったら急に起き出してきて何を言い出すのかと思えばこいつはまたイカレたことを、と麗の言葉を頭で整理するよりも先にこいつがまたありもしないことを想像して鬱になっているらしいということだけ把握する。なんなのだろうか、俺が今日一緒に寝ないって言ったから? 俺が今日仕事が詰んでてイライラしていたから? まあ理由はその全部だろうし加えてこいつの精神状態とこいつの悩みでもってこうなったのだろうが、毎度毎度のことながらこうなった麗の扱いには非常に困る。慣れはしている。だが困る。言葉を一つ間違えば、こいつはこの闇の淵から返ってこないのだろうから。

「るき、俺、るきが死ぬのは嫌だよ」

「……不吉なこと言うなまだまだ死なねーよ」

「でも、でもね、るき、いつか人は死ぬだろ」

「当たり前だろ。神様じゃないんだから」

「俺の知らないところでるきが死ぬのが嫌だ、嫌なんだ、だめだ、そんなこと。だから、だから、だからね、」

 ソファに座る俺の足元に跪いて、何を見ているのかわからない目で俺を通り過ぎるはるか向こうを見据えながら麗はどうしていいかわからない子供のように困った声で俺に訴える。答えを求めているような、哀願しているような。

「そうなる前に俺が流鬼を殺しちゃダメかなあ」

 一瞬ぎょっとして肝が冷える。冗談を言っているような目ではない、だから怖い。なんなのこいつは、俺が死ぬだの殺されるだの、不毛な想像ばかりして胸を病んで頭を腐らせて。

「あのなあ」

 でもわかってる、言葉を間違えちゃいけない。俺は俺の手をぎゅっと握ってくる震えた指をそっと握り返した。

「誰かがいつ死ぬかなんてわかんないんだから、若しかしたら今日死ぬかも知れないけど、若しかしたらもっともっと先、おじいちゃんになってからかも知れないだろ」

 うん、と何度も頷きながら麗はじっと俺じゃないどこかを見詰めて俺の話を聞いている。その無機質な眼球を危うく揺らしている瞬きを忘れた両目は、純粋な子供のように穢れがないように見える。

「大体、俺よりお前が先かも知れない。俺は車運転しないから、そういう点ではお前の方が死ぬ確率高そうだろ」

 死ぬ確率なんて測りようがないから、俺が先かお前が先かなんて分かる筈もない。ただどちらも同じくらい可能性としてはあるんじゃあないだろうか。詰まりは、

「そんなことは今考えなくていいことなの。だから、落ち着いて取り敢えず寝なさい」

 そう言い聞かせ麗の目をじっと見たら、麗は暫く何か考えてから、うん、ごめんね、と言ってやっと瞼を閉じた。瞼と瞼の合わせ目にうっすら涙が滲む。

「うん、ごめん。ありがとうるき。すきだよ。ホントだよ、本当に好きなんだ」

 麗はごめんねと何度も呟いた。俺の手にぎゅうと額を強くあてて、好きになってごめんね、好きだと言ってごめんね、ごめんね、でも好きなんだ、ごめんね。繰り返した。

「わかったよ。……わかったから寝ろ」

 一人じゃあどうせ眠れないんだろうから、ベッドまでついて行って一緒に蒲団に入ってやる。自分より大きな肩を抱いて背中を撫でて、息遣いを確かめさせるように身体を合わせて、髪に頬を寄せて。
 麗が言うことは突拍子も無いことだし信憑性も無い。だけど麗の言うことは、恐ろしくも本意、危うくも本気なのだ。それは麗だけでなく、俺も同じだということが何よりもまず恐ろしい。

(もしこいつが俺を殺してしまったとして、そしたらきっと俺も同罪なんだろう)

 だって、もう知ってしまった。屹度俺はその時止めないだろうし拒否もしない。もしもうすぐ死ぬとして、もし誰かに命を狙われたとして、もし俺も明日死ぬかも知れないなんて思いつめたとして。麗の筋張った指が、自分の首に回っても、それは本意と相違無い。

(これは立派な)

三十八度

 意識が浮上して目を開ければ、頭はすっかり靄が晴れたようで、身体からは気だるさも抜けていた。やはり睡眠不足による発熱だったらしい、まだ少し熱はあるようだが、眠る前より頭は軽かった。ふと身体を起こして窓を見ると、カーテンの向こうはすっかり暗くなっていてぎょっとする。いくら熱が出ていたからといっても流石に寝すぎてしまったようだ。枕元にあった携帯電話を手繰り寄せて見れば、夕方の六時を回っていた。自分が寝入ってから九時間弱、一度も目が覚めなかったなんて。仕事は山のようにあるというのに。体温計を目にした時よりも絶望を感じて、一時間後に起こせという言いつけを守らなかった麗を殴りに行こうと寝室を出た。

「あ、起きた?」

 居間のソファでテレビを見ていた麗が寝室から出てきた俺を見るなり輝かしいほどの笑顔をむけた。その笑顔がもうイラつく。近づいたその足で脇腹のあたりを踏みつけた。

「起きたぁじゃねーよ馬鹿! 起こせって俺言わなかった? なあ、言わなかった?」

「起こしに行ったけど流鬼起きなかったしさぁ!」

「言い訳してんじゃねーよカス!」

 お前のせいで色々な予定が狂ってしまったではないか。今日中に終わらせようと思っていたことが何一つ終わっていない。謝り倒してくる麗をソファから退かせて座り込み、苛々しながらノートパソコンを開いて作業を開始した。せめて半分だけでも、と焦っていたら、麗が何やらテーブルの上にいそいそと食器を並べた。

「……何」

「何って、昼飯。あ、もう晩飯かぁ」

 すぐできるから、とキッチンのほうに消えてから数分後、湯気の立つ丼を持って戻ってきた。テーブルの上に置かれたそれは温かそうなうどんだった。

「具が蒲鉾とネギしかないけど」

 ごめんね、と謝って箸を差し出す。オマエが作ったの、と指をさせば、にこにこ笑っている。仕事頑張るためにも体力つけないと、と言って俺の手に箸を握らせた。

 うどんを口に運ぶたび、麗は隣でにこにこ嬉しそうに笑っていた。ずっと俺の髪を触ったり頭を撫でたりしていた。「治りますように」なんて何かに願っていた。食べ辛いな、と思うのに、願っても願わなくても治る時は治るし治らない時は治らないんだよ、と思うのに、何故だかその手を邪険に扱えず、俺はただ撫でられながら与えられたうどんを食べていた。

「美味しい?」

「……ふつう」

「そっか。仕事追いつきそう?」

「……そんなのわかんない」

「ごめんね、でも流鬼が元気ないのは、怒られるよりも嫌だよ」

 そういえばうどんなんて食べたのはいつぶりだろう。風邪をひけば食べさせられていた記憶はあるけど、その味をよく思い出せないから比較のしようもない。だいたい熱を出した時に食べるものは味覚が馬鹿になっているから美味しいかどうかなんて覚えちゃいないんだ。どうせ今も味覚が馬鹿になっている。だからこれを美味しいと思っても、それは熱のせい。風邪をひいた時は精神的に弱くなるっていうから、屹度そのせいだ。

「零れ落ちる体温」

 何もなかった視界に燦然と輝く太陽が現れた。それはゆっくり、ゆっくり、大きくなっていって、大きさを増すたびに嬉しくて、嬉しくて、涙が出そうだった。やがて大きさを留めた太陽は瞬くようにゆらゆら揺れながらも後ろをついてきて、振り向けば必ずそこにあって、気づけば掛け替えのない唯一無二の光になった。この太陽を守るためならいくらでも強くなれると思えた。強さをもらい、喜びを分かち合った。その光が何かに遮られることのないように近づく心ない闇を払い、迷わずついて来られるようにただ前を向いて歩き易い道を作った。そのうちふと気付いた。自分が迷わずに歩けているのはきっと、後ろから足元を明るく照らしてくれるこの太陽があるからなのだと。ただ前を向いて歩いて行くだけでは駄目なのだと。だから手を差しのべ、喜びだけでなく、痛みも苦しみも分かち合い、共鳴しながら歩んで行けるようにと歩み寄った。静かな終りが待っていることを漠然と感じていながら、いつまでも道なき道を歩いて行ければと願った。ふと気付いた。歩いているのはこの足だけではないと。自分の手を強く握る手があったと。右手と左手に、そのまた右手と左手に。一人の力で歩めるくらいの強さが無かったから手を握ったのではない、一人ではなく誰かと手を握って進むその先にあるものを見たかったからなのだと思いだした。心地よい感触と体温があって、言葉にならない感情があって、それを分かち合うことで得られる景色が見たいと願って、歩き出したことを思い出した。この先何かを失うことがあっても、後悔しないように、もう何一つ見落とさないようにと、新たな一歩を踏みしめるたびにそうして何度も何度も守るべきものと強さを与えてくれるものに感謝しながらどこまでもどこまでも闇を歩いた。
 胸の内にふつふつとわきあがる不安に気付いた。最初は恐怖、そこにあった輝く光が消えてしまうことの恐怖。次に不安。繋いだ手を放さなければいけない日がくることの不安。そのすべて、心に生まれる黒い感情を振り払うように、言い聞かせるようにしていていつしか前しか見られなくなっていた。その恐怖も不安も拭い去れるほどの安堵を覚えたのはいつだっただろう。繋いだ左手の体温が、あまりに心地よくて。優しい色の体温が、あまりにも温かくこの手を包むから。安堵し、また強くなり、前を向く。握った手が迷いをみせたその時は、優しさで支え、慈しみ、時には立ち止まって抱き締めた。支えられ、支え、そうして得たものは、一人で歩いてきたのなら絶対に得ることのできなかった言いようのない幸福だった。

 どうして分かち合ったのだろう、どうして手を繋いだのだろう。どうして慈しんだのだろう。どうして抱き締めたのだろう、どうして得てしまったのだろう。温かく穏やかな海に浸っているあいだ、幸福の裏側に潜む黒い光が、じわじわとこの身を蝕んでいた。気付いたころにはもう遅かった。振り返ったそこにいる太陽。左手に握る体温。どちらかを失くす日が来ることなどは考えたくもないというのに、頭を過ぎって離れない。不安はいつも、しあわせの傍に孤独を手懐け潜んでいた。『悲しまなくていい』と言うなら、『連れて行って』と笑ったあの日を消して欲しい。嗚呼、でも、こんなにも。だけど。その時屹度、俺は目を閉じて言うんだろう。さよなら、左手の体温。

 指を撫ぜてすり抜けていく。そんな、悪夢。

恋なんてまだ知らない

 張り詰めた空気に混ぜた吐息が消えるのを見ていた。白い結晶が一瞬で薄くなっていくのに、なんだか二人の出会ってから今までを見た気がしてそっとマフラーに鼻まで埋める。

「何処行きたい」

 何も知らない高嶋が白い息を吐いて眺めてを繰り返す、その合間に言葉を投げてきた。松本は目を伏せながらじっと足元を見ていた。三年前に買ったローファーは綺麗な黒じゃなくなって、ぼろぼろで薄汚れていた。交互に動かす足の爪先があるあたりを見詰め、高嶋の言葉を考えた。

「俺、腹減ったからマックがいいなー」

「じゃあ、そこでいい」

 決まり。と高嶋は嬉しそうに少し跳ねた。ふと首を動かして顔を覗いたら、あんまり嬉しそうに笑っていたからおかしくてついちょっとだけ笑ってしまう。

「ふ、」

 なになに、と、松本の顔を覗き込んでくるその笑顔は昔から変わらない。三年経ったのに、三年経ったことが嘘のようで。一体どれだけの出来事が二人の中で生まれて消えたのか、わからない。三年という月日の長さを思った。
 下足場からずっとポケットに突っ込んだままの手の片一方を、急に引っ張られて足を止めた。同じくポケットに突っ込まれたままだった高嶋の温い手が、松本の手を握った。戸惑いながら、マフラーから顔を出す。見上げた高嶋は眉を寄せて、口許だけで笑っていた。

「麗、」

「……これで最後だよね」

 どういう意味か松本が気づくより先に、高嶋は松本にくちづけた。
 普段賑やかな通学路には猫一匹通らない。下校時刻よりも二時間早い二人の帰路には他に誰ひとり見当たらなかった。足を止めたその場所で、小さく唇を合わせた。冬の味だ、と松本は目をつむって、少しのあいだ高嶋の冷えた唇に大人しく塞がれていた。



 歩き出してすぐ、高嶋はぽつりと言った。

「俺、大学いかないんだ」

「……知ってる」

「あ、言ったっけ?」

 正確には知ってしまっただけだったのだが、今聞いたからもういいか、と松本は口を噤んだ。

「金無いから働こうかなって」

 まあ適当に生きてくよ、と空を見上げる高嶋の隣で、松本はまた足元を見ていた。普段自分の意思などないようなやつが、こうして自分の知らないところで重要な決断をしている。当たり前のことなのに、置いていかれたような気がしてしまうのは何故か。
 どうして高嶋を選んだかといえば、この距離感が楽だったから。近いようで遠い、名前のない関係。足りない空白を補う為にだけ欲した。そこに特別な感情などは無いように思えた。
 なのにどうしてこんなに、手を繋いだ場所から寂しさが滲むのだろう。
 松本にはわからなかった。ただ、誰もいない通学路の景色が愛しくてならなかった。

穏やかに過ぎる秒刻みの一日

 事務所の会議室で誰かが置いてったらしい近頃のファッション雑誌をペラペラ捲りながら麗が、この娘どうしてこんなに睫毛がたくさんあるの、と不思議そうに首をかしげるので、俺は知らないと答える代わりに小さく肩を竦めた。

「みんな髪型が同じなのはこの雑誌が髪型はこれしか認めないって決めているからなの?」

「そうなんじゃない」

 麗の素朴な疑問などはどうでもいいので尋ねられる度に適当に流してしまって、静かに紅茶を啜りながら携帯電話を弄くり回していた。そうしたら麗は何か発見して、マジか、と驚きの声を上げた。それにつられて雑誌を覗き込んでみた。それは読者投票の結果発表ページ、第一位のモデルが可愛らしく微笑んでポーズをとっていた。俺から見ても可愛らしいなと思うような、けばけばしいわけでもなく素朴な、しかしあか抜けた印象を与えるモデルだった。

「うーん俺はどうもこういう顔は好きじゃないなぁ」

「ああそう」

「俺はもっとこう、流鬼みたいな顔のほうが好き」

 俺はちょっと目を見開いてしまったけれど、すぐに表情を元に戻すことに成功した。それからちょっと笑って、目の前の最低な男に最高の言葉をあげたんだ。

「麗さんて趣味が良いのね」

 ちょうどその時扉を開けた葵さんが、何も言わずに扉を閉めた。

憧憬と嫌悪の共犯

 太陽が欠けていくのを屋上で見た。月が光を覆うその様が、侵食を許すその姿が、この目にはとてもいやらしく映った。

「お前みたい」

 徐々に暗くなってゆく太陽を見上げながら松本が言った。高嶋は同じようにじっと太陽を見つめながら聞こえなかったふりをした。

「俺に覆われていくお前、なんてな」

 含んだ笑みで高嶋を見るから、唆されるように膝を抱いている松本の腕を掴んだ。顔を近づけて唇を重ねる。すぐに離れて見たそれは、満足げにいやらしい弧を描いた。

「……逆だよ」

 ぽつ、と呟けば、え、と無表情に戻った松本の、その表情を可愛いと思いながらもう一度引き寄せ、唇を重ねる。離れ際に見たそれは、今度は不満げに歪んでいた。嗚呼そんな顔で俺を見ないで。

「……今すぐ犯しちゃいたい」

 そう言うと呆れた顔をされる。
 鼻で笑いながら顔を突っぱねられて高嶋は少しだけ安堵する。また空を仰いだら、かなり侵食は進んでいた。

(やっぱり、逆だ)

 あれは流鬼が俺に覆われていく様子だ。綺麗な光が真っ黒な影で見えなくなる。身体を重ねる毎に少しずつ、お前を汚す俺。高嶋はそう考えながら太陽と月の重なり合う様を嫌悪を込めて見つめた。

「あれだな、こんな日に屋上で二人して変だな」

「ん? どうして」

「別にロマンティックでもなんでもないじゃん」

「まあね」

「でも、なんか、イヤらしくない?」

 松本の言葉に目を丸くする。にやにや笑っているその顔で、見透かされた気分になった。すっかり夕方みたいに暗くなった周囲を気にすることもなく、ロマンティックでもなんでもない真昼の空の下で、目線を交しながら指を絡めて手を握った。松本は最後まで拒む術を未だ持っていなかった。けれどそれなら、覚えなければいいとさえ思っていた。そんな松本に少なからず抱く焦りと不安が悟られないようにと高嶋はただ従順なさまを装った。
 高嶋はわかっていた。松本が自分の歪んだ思いを知っていることなど。知っていて、気付かぬふりをしていて、ただ汚れていく自分を高嶋のせいにして。高嶋がそれを分かっていてやめられないことも、ぜんぶ、ぜんぶ、わかっていて。
 それでも二人は口にしない。このまま純粋なふりをしていれば、密事は誰にも何にも阻まれること無く続いて行く気がして。
 あの太陽と月のように、公然と身体を重ね合える関係なんて有り得はしないのに。

「またひとつ惨めな恋をしたの」

 言葉なんて要らなかったと君が言うから僕は少しのあいだ口を閉ざした。君の胸に溢れる悲壮を飲み込んであげるには、こんな僕はきっとまだまだ役不足なんだろう。君が嫌だと言っても唇を奪うだけの強引さが、君への最大の優しさだと気付かせる術がない。ソファに腰掛けている君と僕の数センチの距離が遠い。

「要らなかったのに」

 繰り返し噛み締めるように紡ぐそれも、言葉なのに。君は要らないと言うのか。

「でも、それも言葉でしょ」

 言ったら、君は自嘲気味に笑った。僕は、言わなければよかったと後悔した。

「そう。言葉がなかったら、お前にこんな弱音を吐かずに済んだ」

 涙の痕はない。ただ見え隠れする悲壮。それだけ。それだけが、僕を虜にして止まない。

「言葉なんか無力だよ」

 僕は言った。だからあってもなくてもいいじゃないかと。君は笑った。コトダマという言葉を知らないのかと。言葉は力を持つから、だから要らなかったのだと。
 でも僕にはわからない。君に届かないこんな僕の言葉にも、魂は宿るのか? 否、無意味。宿ったとして、やはり届かないことには無力なのだ。

「流鬼が言葉を嫌いでも」

 紡ぎかけた唇に真っ白な手が触れる。まるで黙れと促すように唇をなぞる細い指の、冷たい喜びを慈しむ。嗚呼、こんなにも、触れられるだけでたくさんの言葉が出そう。

「俺は流鬼の声が好きなんだ」

 目を細める君が言葉を紡ぐ前に、強引にくちづけた。形の綺麗な舌が君の隠し持つ無垢さなら、君のその舌を絡めとる僕の舌は僕に潜む汚らわしさ。

「お前は狡い」

 どうして、と問いながら、手を引いてソファに寝そべる。横になった僕の上に抵抗もなく跨がって、君はまた笑う。

「お前から言葉が消えれば良いのに」

 予想だにしない言葉にまた僕は口を閉ざした。
 胸の上になだれた君の、要らないと言った、本当の意味を知った。

ぐるぐるまわる。

「昨日新しいゲーム買ったの、だから一緒にやろうと思って」
 ゲームセンターを出て商店街を抜けている間に男はそう言った。ああ、そういえば書いていたな、と、昨晩読んだこの男の日記を思い出す。
「日記に書いてたの、読んだでしょう」
 言われて初めて、まるでこの男の机の中にある日記を勝手にこっそりと見たでしょうとでも言われているような気になって松本は喉の奥で唸った。実際はそんな秘密めいたものでもない。日記は日記でも、インターネット上で万人に見られるように公開されているのだから、どうして俺がそんな背徳を感じなければならないのだろう。松本はこの男の整った喋り口調が好きでなかった。もともと口数の少ない松本からよく言葉を奪う。それは良い意味でも悪い意味でもある。松本は自分の心を読んだように行動し、自分の言葉を代弁するように話すこの男が苦手であった。
「松本、あれ欲しがってたなって思い出して」
 この瞬間さえ、松本は眉間に寄る皺を隠そうともせずにこの男を睨んだ。けれど男は無神経なのか鈍感なのか、気付きもしないで前を向いて笑っていた。だから松本は苛立つ自分が馬鹿馬鹿しくなって、色を抜き過ぎて痛んだ髪を触りながら口許だけで笑った。
「そっか、ありがとうな」
 男の家までの道で松本は始終コンクリートを眺めていたけれど、男はそれにすら気付くこともなく、只管にゲームの話をしていた。松本はそれに適当な相槌を打ちながら自分の靴の踵がコンクリートで磨り減っていくのを忌々しく思いながら歩いていた。時々、ポケットに突っ込んだ携帯電話を取り出して弄った。携帯電話に飽きるとまたポケットに手を突っ込んで、今度は四日ほど前に理科の授業でやった蛙の解剖を思い出した。松本はただ後ろで見ていただけだったが、友人達が悲鳴をあげながらふっくら柔らかい白い腹に鋭い刃をずぶずぶ沈め、音も立てずに切り開いていくのをなんとはなしに見ていた。薄い刃を差し込んで下に引けば静かに口を開けるそこに痛みがあるのか、ないのか。蛙が死んでいたのか、麻酔で眠っていたのかはよく知らないで見ていた。そもそも興味がなかったからか周囲が声を上げる中でたいした感情を持てずにいたが、似たような行為を自分はいつかどこかで体験したような気がする、と首捻って眺めていた。それを思い出した。あれに似た行為、とは、なんなのだろう。松本がそれについて考えているちょうど隣で、あの日に蛙の腹を割いていたこの男はいつの間にか部活の後輩の話をしている。この男は、あの肉を切る感触を覚えているのだろうか。松本よりも頭一つぶん背の高い男の顔をふと見上げたら、目が合った。
「ついたよ」
 言われて前を見たら、成程、もう見慣れた男の家の前にいた。
 この家に来るのはいつぶりだろう。そう松本が記憶を掘り返して目を虚ろにしているのにこの男は気付かない。気付かず無言のまま松本の視界で蠢いている。誰もいないところで人が変わったように無言になるのにも慣れた。誰かがいる、誰かの気配がある場所ではべらべらと聞いてもいないことを喋り続けるのに、こうして誰もいない隔離されている場所へひとたび入って鍵でも閉めようものなら途端に顔色を変える。外面が良すぎるのだろう、誰と話していても全身から嫌われたくないという声が滲み出ているのだ。松本はこの男の外面と接するたびに吐き気がするほど気分が悪くなるのを感じる。苦手だ、媚び諂うような作り笑いも、その場に合わせる使い慣れた常套句も。視界の隅で、下に、下にと動いていた男が消えた。それを確認して目を瞑った。肌寒さを感じて些か震えたのが弱弱しく思えて、少し眉を寄せた。そうこうしているうちに天地の消える感覚が瞼から脳へ到達したようだ、前を向いている筈だけれど、天井を向いている、気付けば横になっている、うつ伏せにひっくり返ったかと思えばまた上を向いている。目を閉じているから視界は真っ暗闇でしかなくて定かでない。けれども別に目を開けていようとも、自分の『位置』などは所詮わからない、と松本は何か諦めていた。何も分からないし何もかも手探りだし何も存在しないし何も手に入らない。そして何も意味を持たない。それがこの上なく気持ちが良く、楽だと感じるようになったのはつい最近だ。全て手放し、なんのしがらみも無いのは、この上なく心地良い浮遊感がある。初めこそ恐怖と不安に襲われもしたが今となってはただ眠りから覚める瞬間のあのまどろみの途中をずっと味わっているような、そんな穏やかな流れに身を置いているふうに感じている。目を閉じてすぐは身体中が空気に撫でられる感触がする。皮膚の上を滑る生ぬるい、水の流れのような空気だ。次に腕や脚が弛緩して自らの意思で動かすことが不可能になる。この時点で松本は全て手放した気になって、そうすると脳下垂体から流れ出すアドレナリンで痺れるように身体が震えて鼓動が速くなるのを感じる。一瞬の冷ややかさがあった後、身体の中心を突き抜ける大きな熱があり、それが徐々に松本の全身に染み渡り、頭の天辺から足の爪先までその言い知れない熱で包まれる。指がびりびり痺れて鳴く。喉が戦慄いて息苦しくなり、自分が喉を逸らせていることに気付く。心臓の辺りに集まる熱が燻ってくすぐったさに身を捩る。辛くもないのに涙が上瞼と下瞼のぴったりとくっついたそこをじんわりと濡らす。ちか、と光が見えたように瞼が瞬いたら、瞬間、全ての熱が引潮の波のようにざあと引いてしまって、松本の肌の上には細かな泡がぱちぱち弾ける。体内にあった臓器は一つ残らず波と一緒にごっそり出て行って、あとには松本の殻しか残っていない。その松本の体内に、やがて緩やかな心地良さがひたひたに注がれる。頭蓋骨に浸透する頃には、もう言葉も出なくなる。唇の端から零れるのは息を吐く時の震えたか細い音だけで、それすらも外部から聞こえる音というよりは体内を満たしている水のその中で波紋を広げて響いているように聞こえるのだ。愉悦、陶酔、恍惚。言い表すならそれだろうか。今目を開ければ何が見えるのだろう。

「ぐるぐるぐるぐる」

 ぱち、と弾けた。瞼が開いて目が物を捉える。景色が目の前に意味を持って現れる。松本は何度か目を瞬いて、それからじん、と重たく響いた瞼を親指で軽く押した。ふらりと立ち上がる。椅子が軋んでぐるりと回った。ベッドに寝転んでいる男の傍に立って、規則正しい寝息を立てて上下する肩を見下ろした。窓を覆う分厚いカーテンは合わせ目がどこかも分からないくらいぴったりと閉じられている。部屋の蛍光灯は消えている。男の部屋には時計が無いのか、音が無い。この部屋で唯一、先程まで目の前にしていた大きなパソコンだけが鈍い羽虫の様な音を出しながら光っていた。
 男を見下ろしながらまた松本は件の蛙を思い出す。もしも人間がもっと大きな何かに脅かされるようなものだったなら。もしも人間が蛙をそうして扱うように、人間を蛙のようにそう扱う生き物がいたなら。あの場で小さな身体を開かれていたのは自分だったかも知れない。松本はじっと目の前の男を見下ろす。この男も例外でない。寧ろ松本より身体が大きなぶん、選ばれて身体を真ん中から掻っ捌かれていたかも知れない。死んでいるのか眠っているのか、横たわる身体の真ん中にまっすぐ刃をおろされ、皮膚を割いて肉を押し切り、内臓を傷つけぬようにゆっくりと開かれる。そして隅々まで触られ内臓を観察される。自分達はたまたま人間として生まれてきただけに過ぎない。
(じゃあ、さっきのアレは、)
 突如として松本の意識を奪った。目が合った。
「……何処か行くの」
 低く腹に響く声を聞き逃さないようにと無意識に息を殺していた。男は少し起き上がって、松本の腕を掴んだ。
「いや、行かない」
 慌てたみたいに言葉を搾り出す自分までまるでいつもの自分でない違う誰かのような気がして、松本は一瞬自分の声を疑った。男が身体を完全に起こしてベッドに座り、促すように隣を見たから松本もその隣に腰を下ろした。スプリングの軋みが嫌味なほど耳についた。
「このあいだの放課後」
「ああ」
 何処からか取り出した煙草に火をつけると松本に一本、有無を言わさずよこした。松本は受け取ると、唇にくわえてそっとフィルターを舌で触った。男は自分も一本吸い、途切れ途切れに話を始めた。松本は男を見ながら、少しずつ煙を吸ってそれに答えた。話したい何かがあるわけでもないのか訥々と脈絡もなしに話すものだから、会話自体に重みが無く、言葉は常に空中を彷徨った。地に落ちもしないが、吸収されもしない。吐き出された言葉は窒素とか水素とか二酸化炭素とかに混ざってそれらのような顔で俺とこの男の周りに漂う。そして彼が薄い唇から吐き出す煙のように、徐々に端から消えていく。そんな時間が長く続いた。ぽつぽつと何かを問いかけ、何かを返し、何かを投げかけ、何かを与え、何かを提案し、何かを肯定し、何かを拒否し、何かを妥協していた。その会話になんの意図も見えなくて、松本はだんだん気味が悪くなってきた。問いかけること、それに答えるということに意味があり、会話こそが唯一、他人と自己を確認しあえるものだと思っている松本に対して、男にそんな考えがあるとは思えない。一体腹に何を隠しているのだろうか。冷静さを思わせる涼やかな目許も僅かずつしか動かない唇も、何も考えていないように見えるのにその内面には渦巻く波があるように思えて仕方が無い。何を隠しているか知れないが幾つも言葉を投げかけられ、そのひとつひとつに答えて頷き返すという一連のやり取りが長く続いた。たとえば目の見えない闇の中で声だけを頼りに相手を判別し認識し心を許せるかどうかを見定め出来るならば享受し駄目ならば排除しようということなのだろうか。けれど男はただその日にあったことや数日前のことなどを話すだけなのだ。思い返してみれば、この男がこうして二人で居る時に松本のことに関して何か問いかけてきたことはない。松本は何も尋ねられたことがないことに気付く。この男は、本当は自分などには一滴の興味も持っていないのではないか、とそんなような気がしてきた。試されているのか、もしくは疑われているのか。いや、いつも何か疑っている。その上で自分なんぞには少しの興味もないに違いない。
「なんで」
 松本の声に反応して、男が顔を上げる。視線を感じながら二人の間に置かれた灰皿にフィルターを捨て、顔を逸らしたまま松本は静かに続けた。
「俺なの」
 初めてこの男が松本を家に招いたのは何ヶ月も前のことだ。ある日突然、松本はこの男の本質を知った。中身を見た。抱えている何かに触れた。そして何故かこうして何度も、この家に出入りするようになっている。松本は理由を探せずにいた。この男がこうして自分を選び、招いて、こうしてただ取り留めのない、意味のないことを話すその理由も、どれだけ考えても掴めそうになかった。
「そんなことはわからない」
 男が少しも茶化さず真剣にそう言って、吸殻を捨てて二本目に火をつけるのを見ながら俯いた。さきほどひたひたに満ちた自分の中の心地良さが細かく波打ち、引潮を告げる。静かに松本の身体を空洞にしてゆく。
「理由はないよ、探しても」
 すぐ隣にいる男が遠くに居るように思えて、松本は自分の足の先を見詰めながらじっと目を凝らした。何の気なしに歩いていたら小石に躓いた、その時の小石が何色をしていてどれくらいの大きさでどういった模様だったのかを覚えている人がいるだろうか。好んでまじまじと観察し、記憶に刻もうという人がいるだろうか。毎日通う教室の黒板の隅にある落書きのように、意味もなく存在している。そこに必然性や必要性があるかないか、誰もわからないし、誰も興味がない。けれど確かに存在しているのだ。嗚呼、屹度、それだ。松本はなんとなく分かった気がした。そこにあったのだ、見落としているだけで存在している、ずっと前から。必然性も必要性もない。それがある日突然、意味を持ったもののように目の前に現れる。ただ、理由もなく、そこにあったもの同士が何の気なしに触れ合ったのが、そのまま流れるように隣にいるようになっただけに過ぎないのに。見落としていたものを一度目に入れると、まるでいつもそこにあるのではないかというほどに目に付くようになって、意味を持って存在しているような気がしてくる。そうして新しく自分の視界に食い込んできた異色のものを意識しているうちに、もしかすると自分は違う世界へ紛れ込んでしまったのかも知れないという突拍子も無い考えが現実味を帯びて頭の中にたちこめる。その突拍子も無い考えがそのうち空気のように軽くなりそうであることが自然と思えるほど溶け込んでしまうと、疑うことをしなくなるのだろう。どうして隣にいるのだろうなどは。自分が今まさに危機の真っ只中にいることを自覚した。松本は小刻みに痙攣する指を太股の下へと滑り込ませて隠した。
「なんで、隣にいるんだ?」
 静かに尋ねた。男の視線がまた松本に注がれる。その視線を受け止められず下を向いている自分がおかしくて、唇を噛んだ。煙草を銜えるのが見えて煙が松本を取り囲む。薄い斑の白は松本に優しくぶつかると霧散して千切れるように消えていった。男はまた、少しも茶化さなかった。
「隣なの?」
 どうしてそんなにも短い、ただの言葉が、こんなにもにじり寄って来るようにじわじわと胸を締め付けるのかが分からない。松本は逃げたくなった。帰ってしまおう、立ち上がらなければ。唾を飲み込んで足の指を動かした。膝に力を込める。けれど立ち上がれない。男は続けた。言葉には微塵も揶揄するような色合いはなかった。至極、真剣だった。それだけに松本を追い詰めた。
「松本の隣って、一体どこなの」
 そんなことは、わからない。身体よりも先に両手が動いて、気付いたら顔を覆っていた。視界が意味を持たないものだとわかった気でいたのにも関わらず手で塞いでしまわねば気が済まなかった。男がまだ火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付ける音が聞こえて、ベッドのスプリングが鳴いた。それからまた松本はじっと目を閉じているしかなかった。身体の支配すべてを放棄し、委ね、脳にまで届く浮遊感で満たされるまで。
 拒んだ。指を動かした。掌で握った。汗が滲んだ。唇が乾いた。目の前が歪んだ。脚が震えた。溶けた。緩んだ。力が篭った。濡れた。頬に髪が触った。戦慄いた。奥歯を噛み締めた。皮膚が粟立った。撓んだ。背中が反った。喉が嗄れた。考えた。目を開けた。境界線を探した。此処、其処、あちら、其方。自分、他人。理由を探した。見当たらなかった。柔く潰された。勝手に侵食された。微かに聞こえた。何かに触れて、繋がりかけた。けれど散らばった。最後には相殺して、忘却した。
 ぱち。目を二度瞬く。窓から注ぐ夕日が眩しい。近頃、頻繁に記憶が途切れる。松本は重たい瞼を掌で押さえた。目の前で日誌を書いている男はずっと昨日見たらしいテレビドラマの話をしている。にこにこと笑って、なんの相槌も打っていないのに楽しげに話し続けている。
「誰なんだ」
「え? 何が?」
「おまえ」
 誰も居ない教室、男の目の前に座りながら、綴られている文字をじっと見て松本は尋ねた。男は虚を疲れたように驚いて言葉を止め、それから茶化して笑った。その作ったような笑顔が松本の苛立ちを唆すけれど、それには気付いていないようだ。
「何言ってるの、そんなこと知らないよ」
「知らないわけない」
「じゃあ松本はいったい誰なの」
 男が冗談交じりに言った言葉がストンと胸の上に落ちた。
「ほんとうに松本なの」
 そして、ゆっくり、下腹の辺りまで真っ直ぐな線を描いた。
「その中には誰がいるの」
 知らない、と言葉を零しそうになった自分に驚いて、松本は開きかけていた唇を閉じた。そんな松本をまたおかしそうに笑って、男は日誌を閉じた。
「終わったよ、帰ろう。日記読んだでしょう? 松本に手伝って欲しい課題があるんだ」
 白い台の上で。仰向けに転がされ。白い腹を剥き出しにされ。抵抗する力も失くして。刃を突き立てられ。肉を切られ。はらわたを取り出されて。綺麗に洗われ。ひとつひとつ、触れられ、また綺麗に腹の中に収められて縫い合わされる。受動的だけれど、もしその受動性を受け入れた上でそれを受け入れるなら、それは能動的ではないか。

140

帰路



窓の外にちらつく枯葉、視線を弄ばれて暫く、一人遊びと口ずさむ脳を巡る歌。路肩に停まった車の助手席は道路側、なんたって自慢の恋人の車は左ハンドル。少しの優越に睫毛が震えた。直後の風!思わず身を硬くする。扉が開いた方を見遣れば、ご帰還、運転席に乗り込む大きな身体にあわせて車が揺れた。

扉が閉じられる。乗り込む間の一瞬の風が車内を軽く舐めた、それだけで身体が冷えた気になった。車内の空気を宥める空調機の風は優し過ぎる。笑って差し出される缶珈琲を受け取って、その強引な熱が心地良かった。開けるのを待ってから車は動き出す。いつものような優しい帰路だ。安堵、そして、落胆。

青信号、赤信号、横断歩道、陸橋、交差点、四車線、国道二十三号線、高架道路。高層ビル、百貨店、商店街、マンション、広告塔。テールランプの、赤、白、黄色、緑。次々と過ぎる。目まぐるしく、さびしい速度で。人の群れが見える。家族、恋人、兄弟、姉妹、仲間、友人。誰かにとって唯一無二のもの。

「寒くなったね」「暗くなるのが早くなった」「イルミネーションも増えた」車内にはずっと響いている。その声と言葉にそっと耳だけを傾ける。あなたがそうやって雄弁に話す理由を俺は知っている。この肩にかかる厚手のブランケットの理由も、車内の暖房が強められない理由も、必ず缶珈琲を買う理由も。

音量の絞られたラジオから零れる歌があなたの意識を奪う。あなたは小さく口ずさみ始める。そしてあなたの意識から俺が疎外される。知らない歌だったら良かったのに。少しの嫉妬で窓を曇らせる。そこに滲む車のランプが曖昧な光で俺を慰めたから、すぐに袖で拭いて仕舞った。優しいものは事足りている。

たとえば急に目の前を走る車が止まってしまってこのスピードでぶつかればどうなるだろうかそんなふうに思考をし始めてもあなたが気づくことなんてないから、苛立ち混じりに窓を開けた。吹き込む冷たい風があなたを突き飛ばしてあなたが盛大に声を上げた。得意になって振り向いたら、視線がぶつかった。

ああ、同じ世界にいる。そんなことで安堵を得る自分を、窓から吹き込む風が冷ややかに笑った。